勇者の帰還 その2
掲示板の前で思案するレイチェルの隣に誰かが立った。
「レイチェル、お疲れ様」
涼やかな声だった。
レイチェルは横を向き、思わず背筋を伸ばした。
そこにいたのは、赤みを帯びた長い髪を後ろで束ね、黒い手袋をはめた少女だった。
年齢はレイチェルとそう変わらないはずなのに、立ち姿には落ち着きがあり、腰に下げた短杖も、外套の留め具も、いかにも使い慣れているという感じがした。
火術師サリア。
レイチェルと同じ頃に冒険者に登録した新人だ。本来は火術院の学生らしいが、今は実務訓練ということで冒険者をしているとか。この歳で火術を使えるというだけでも十分すごいのに、依頼の手際もよく、ギルド職員や先輩冒険者からの覚えもめでたい。
つまり、レイチェルから見れば、まぶしい相手だった。
魚の匂いをまとった自分の隣に立たれると、そのまぶしさはいっそう際立った。
「やあサリア。ボクは今、任務を終えて帰還したところさ」
「任務って?」
「王都南区に潜伏していた黒き影を追跡し、これを確保。現地の戦士の助力も得て、魚市場の民を恐怖から解放した」
髪をかきあげながら言ったレイチェルに、サリアは少しだけ目を瞬かせた。
「……魔物退治? 王都で?」
「猫探しです」
セリカが遠くから言った。なぜ聞こえているのか。
レイチェルは振り返った。
「セリカ、報告書以外ではボクの文学性をもう少し尊重してくれてもいいと思う」
「迷い猫捜索、完了ですね」
「三回目だね」
サリアは口元に手を当てて、くすりと笑った。
その笑い方が、レイチェルの胸を妙にくすぐった。馬鹿にされたわけではない。むしろ、柔らかくて、少し楽しそうで、ちゃんとこちらを見てくれている笑い方だった。
けれどだからこそ、レイチェルは自分の外套についた魚の匂いが急に気になってきた。
「わたし、猫を追いかけたことはないから。狭い路地とか屋根の上とか、たしかに大変そう」
サリアは本当に感心したように頷いた。
「ふふん。まあね。冒険者というものは、時に人知れず王都の平和を守るものなのさ」
「あ、怪我してる」
サリアが覗き込むようにしいてレイチェルの頬を見た。
「これは傷ではない」
「そうなの? 傷にしか見えないけど」
「猫と交わした契約の印なんだ」
「引っかかれたんでしょう」
「そう言う見解も成り立つかも知れない」
サリアは笑いながら腰の小袋から薄い布を取り出してレイチェルの頬をそっと拭いた。火術師の手袋をしている指先は、動きが静かで、何をするにも余裕があるように見える。
「ちゃんと消毒した方がいいよ。あとで腫れるかもしれないし。跡が残ったらいやでしょ」
「する予定だよ。メアリに見つかる前に」
「メアリに見つかると怒られるの?」
「怒られる。まず呆れられて、手当てされて、それから怒られる。彼女は順序を重んじるからね」
レイチェルはそう言ってから、何事もなかったような顔で掲示板の依頼票を眺めるふりをした。
サリアはその隣で、依頼票をひとつ指で挟み、丁寧に剥がした。その内容がレイチェルの目に入る。
火灯塔の術式点検。王都北区。火術師のみ。
火灯塔は、王都の外壁に設けられた、街道を照らし魔物を退けるための施設だ。そこに灯る火はただの炎ではなく、術式によって保たれている。だから、ときには火術師の手が必要になる。
「サリアは、それを?」
「そ。人手が足りないんだって」
「ふ、ふうん。なるほどね。まあ、君ほどの火術師なら当然だろう」
レイチェルは、胸の奥がざらつくのを感じた。
サリアの依頼は、響きがもう格好いい。
火灯塔。術式点検。王都の夜を照らす炎。
それに比べて、自分は迷い猫捜索。
いや、迷い猫も大事だ。大事なのだ。魚市場の平和は確かに守られたし、貴婦人は笑ったし、ミミは帰った。誰かが困っていて、それを解決したという意味では、胸を張っていいはずだった。
けれど、並べると少し。ほんの少しだけ、負けた気がしてしまう。
「実はボクも」
レイチェルの胸の奥で、小さな見栄がむくりと起き上がった。
「実はボクも、今日は大きな依頼を受けるつもりでね」
言いながら、レイチェルは掲示板へ手を伸ばした。
本当は、よく読んでから選ぶべきだった。職員からも、内容をしっかり確認して、無理のないものを選ぶようにと言われている。
依頼には種類があり、距離があり、期限があり、危険度がある。報酬額だけを見てはいけないし、響きの格好よさだけで選んでもいけない。
けれど今のレイチェルの頭の中には、火灯塔、火術師、サリア、迷い猫、魚の匂い、といった言葉が入り乱れていて、賢明な助言が入り込む隙間がなかった。
そのため、彼女は掲示板の中から、一番近くにあった依頼票を一枚、勢いよく剥がした。
「これさ」
剥がしてから、文字を読む。
荷物配達。王都北門近くの依頼人宅より、北方街道沿いルーベル村まで小箱一つ。期限、二日以内。天候悪化の恐れあり。急ぎ。
レイチェルは、依頼票を持った手を少しだけ止めた。
猫よりは大きい。少なくとも、街の外へ出る。村まで行く急ぎの依頼。
とても冒険者らしい。そう思うことにした。
「……荷物配達」
サリアは依頼票を覗き込で言った。
「そう。荷物配達だ」
「王都から、北の村まで?」
「そう。王都から、北の村まで」
「二日以内って書いてあるよ」
「そう。急ぎの依頼なんだ」
「へえ……確かに大変そう」
サリアは真面目な顔でそう言った。その一言で、レイチェルの見栄はさらに背筋を伸ばした。
「もちろんさ。この《炎の娘》レイチェル、猫だけを追う冒険者ではないからね 。荷物の一つや二つ。世界の果てまでだって届けてみせるとも」
「天候悪化の恐れありだって。大丈夫?」
「天候とは、常に変わるものだからね」
言ってから、何の説明にもなっていないことに気づいた。
いつの間にか近くに来ていたセリカが、依頼票を横から確認し、少し心配そうに眉を寄せた。
「レイチェルさん、王都外での依頼ははじめてですよね。大丈夫ですか? 本当に受けますか?」
サリアも黙ってレイチェルを見ている。
ここでやめることもできる。依頼票を戻して、帰ることもできる。頬の傷をメアリに見せ、湯で顔を洗い、魚の匂いのする外套を干し、硬い麺麭か何かを食べて、屋根裏の寝床で眠ることもできる。
それはたぶん、賢い選択だった。
けれど、レイチェルの手は、依頼票を放さなかった。
サリアへの対抗心もあった。迷い猫探しだけで終わりたくないという、薄っぺらい見栄もあった。でも、それだけではない気もした。
「受ける。ボクが届ける」
セリカは少しだけ間を置き、それから頷いた。
「わかりました。では、正式に受注手続きをします。ただし、無理はしないでくださいね。危険だと判断したら、必ず引き返してください」
「了解した」
「本当にですか」
「大丈夫」
「川が増水していたら?」
「……渡らない」
「雨が強かったら?」
「雨宿りして待つ」
「夜になったら?」
「歩かない」
「道に迷ったら?」
「人に聞く。時折疑問に思うんだけど、セリカはボクが十九だって知っているのかな」
親が子供にするような確認を終えて、セリカはようやく少し安心したように頷き、帳簿にレイチェルの名を書き込んだ。
横からサリアが言った。
「気をつけてね」
たったそれだけだった。けれど、レイチェルには、それが妙に大きく聞こえた。
彼女は依頼票を胸元に引き寄せて、覚悟を決めた表情で言った。
「ああ。必ず、戻ってくる」
「……荷物配達だよね?」
「荷物配達だよ」
サリアはまた少し笑った。
猫の爪痕が頬に残っている。外套からは魚の匂いがする。小袋の中には銅貨が三枚。そして手の中には、王都の外へ続く依頼票。
レイチェルはそれを見下ろし、静かに息を吸った。
彼女の次の仕事は、荷物配達である。




