おまけ 王子殿下の航走
注意)長すぎる。
半透過鏡の向こうでは監察官による昨夜の婚約破棄騒動の聴取が行われていた。
今回の聴取は、ことの重大性に鑑み、すべて監察官が行っている。国家権力をふるう大貴族にも、その弁舌ですべてを煙に巻く希代の詐欺師にも、腕一本で首をへし折る荒くれものにも、目的のためなら手段を選ばない犯罪組織にも、一歩も引かない百戦錬磨の猛者たちである。
王子の聴取は、監察室の中でも経験と実力を兼ね備えた監察室長が行っていた。
「……では、殿下は舞踏会直前の控室で、前日の昼過ぎに渡された草稿の前半部分だけをご覧になり、舞踏会の開会まで時間もなかったので後半部分は確認せず、その草稿の登場人物である王子の台詞をそのまま丸暗記して、ご自分の意志で舞踏会場で読み上げた、ということで間違いございませんか?」
「うむ、間違いないぞ」
「その草稿を渡した女生徒から何かしらの指示やお願いはありませんでしたか? 例えば、この通りにすれば子爵令嬢と結婚できます、もしくは、前半部分だけを先に読んでください、などです」
「さきほど言った通りだ。『殿下のために書き上げました。これを読んで明日の舞踏会は頑張ってください』と言われた。目の下に真っ黒な隈があって、鬼気迫る表情だった。だから、絶対に成功させようと思って頑張ったんだ」
「……左様でございますか。それほど女生徒を恐れ……、いえ、気遣っていらっしゃったのに、舞踏会の直前まで草稿をご覧にならなかったのは何故でしょうか? その女生徒から直前に読むように頼まれたということはございませんか?」
「読む時間は指定されなかった。彼女は優秀な側近だが、どうにも言うことが小難しくてな。今回も礼儀作法とか細かい注意書きを渡してきたんだろうと思って直前まで手をつけなかったんだ。控室で見たら小説だったから、すらすら読めた。彼女は小説家になるといい。とても面白かった! もともと学園一の才女だったが、あんな才能を隠し持っていたとは。もっと早く知っていたら、公爵に頼んで在学中に作家デビューさせたのに。きっと話題の新人になったぞ。勿体ないことをしたな」
昨夜、公爵令嬢に一方的な婚約破棄を言い渡して舞踏会を震撼させた王子が、その父である公爵に国政と無関係な私事を頼むと奥面もなく宣う。
「……左様でございますか」
「とても疲れているようだが、大丈夫か?」
「大丈夫です」
「そうだ、この湿布はとてもよく効くそうだぞ。なにせ厚生大臣がわざわざ隣国から取り寄せたものだ。腰痛が辛いそうでな。王家にも届けてくれたんだ。わけてやるから使ってみろ」
精神の疲れになぜ湿布なのか。厚生大臣は着座の長さが腰痛の原因なので、座る事さえ苦痛に感じる今は部分的にはあっているのかもしれない。なぜ聴取室に湿布を持って来たのかは謎だが疲れるから聞きたくない。職務の範囲内の聴取でも犯罪組織相手より疲労しているのに、仕事と関係ない部分まで首を突っ込みたくはない。何よりこれが事件の誤魔化しでもなんでもなく、純粋な善意からの発言だとわかるのが監察室長を困惑させた。
「……ありがとうございます。ですが、私は聴取している方から物品を受け取ることは出来ませんので、お気持ちだけいただきます」
国家権力を振りかざす大貴族の圧迫にも、すべてを煙に巻く詐欺師の弁舌にも、腕一本で首をへし折る荒くれものの恫喝にも、監察官の身内を名指しする犯罪組織の恐喝にも真っ向から渡り合い打ち破ってきた監察室長が諸手で白旗をあげた。もちろん心中でだけである。監察室長の権威はそんなに低くない。
公爵閣下、私には殿下の聴取は不可能です。信じがたいことに、殿下にも側近たち(気絶者を除く)にも不貞相手とされる子爵令嬢にも、馬屋にまで聴取に行かせたのに悪意も作為も欠片も見当たりません。まぎれもなく国をゆるがす一大事だというのに、この結果をどうすればいいのか。
監察室長の心の声が天に届いたのか、扉が開き筆頭公爵が現れた。
「監察室長殿、ここからは私が変わろう。その薬は受け取り給え。殿下からの下賜品だ」
監察室長にとっては天の助けだった。今までの聴取は公爵も半透過鏡の向こうで聞いていたので引き継ぎの必要はない。誰のどんな取引にも応じないという今までの矜持を全力で投げ捨てた室長が、隣国製高級湿布薬を恭しく受け取ると殿下に最敬礼をして部屋を出た。監察室長の名に相応しい機敏な足取りであった。
「公爵、おはよう。今日は一段と早いな。みんな早起きで驚いてしまう」
「おはようございます、殿下。仕事が立て込んでおりまして、皆が早朝から走り回っております。殿下にも朝からご足労いただき申し訳ございません」
公爵と王子、どちらも昨夜の舌戦(完全試合)など微塵も感じさせない穏やかな朝の挨拶である。監察室長が耐えきれなかった王子の場にそぐわぬ朗らかさも公爵にとっては毒にも薬にもならない。
「気にするな。仕事なら仕方ない。父上も仕事がある時は、どんなにお願いしても遊んでくれなかったしな」
「仕事だからと幼い殿下から御父君を取り上げるなど、臣下として自身の至らなさに身も細る思いです。……聴取はこれを最後とします。同じ質問の繰り返しは難儀でしょうが、ご協力をお願いします」
「うむ、わかった。公の場でないから、何を話してもいいのだろう?」
「はい。先ほどと同じく、殿下の思うままをお答えください」
昨日はとても怒っていた公爵が元に戻って嬉しい。王子には、従兄弟伯父でもある公爵なら自分を許してくれるという根拠のない自信があった。そしてそれは正しかったと確信した。
「さて、昨夜のうちに殿下からご提供いただいたゲームブックと小説の草稿、大変興味深く拝読しました。特にこのゲームブック、何年もかけて書き足され、殿下がどのような場面でも対応できるようにと考え抜かれた数多のルート設定に、側近たちの殿下への忠誠心を感じずにはいられません」
「うむ、そうだろう。側近たちはいつも私のことを考えてくれるのだ。彼らがいるから、城でも学園でも呼吸が出来た」
王子はとても誇らしげだ。部下を誇る幼い君主、ここが聴取の場でなければ実に微笑ましい。だがここは貴賓用の聴取室である。半透過鏡と伝声管で隣室とも繋がっていて、書記官2名が現在も職務を遂行している。
「よい学園生活を送られたようですね。我が娘もその輪に入れれば良かったのですが」
「公爵令嬢は私といても楽しくないだろう。彼女はいつも難しい顔で難しいことを言う。それで私がわからなかったら諦めるんだ」
「難しいことを言われて諦められるのでは殿下のお心が休まりませんね。……それではあの子爵令嬢とご一緒の時はいかがでしたか?」
殿下は子どものように顔を輝かせ、彼女とのとっておきの話を教えてくれた。内緒だぞと言い含めてから。
「私、いつも人を怒らせてばかりなんです。話をしていても、何かしても、みんな怒りだすんです」
「私もだ」
「殿下が? 殿下に怒るような人がいるんですか? あ、国王陛下とか」
「父上にも母上にも怒られたことはない。父上の従兄の公爵にもだな。だけど、他の皆は怒ってるんだ。顔は笑っていても、心は怒ってる。それか私に呆れてる。なのに、なんで怒るのか教えてくれない」
「そう! 私もそうなんです。何がいけないのか教えてほしいと言っても、あなたにはわからないって言われて……」
「私も言われる。皆、勝手だ。勝手に怒って、勝手に失望するんだ。そんな方だとは思わなかったって。父上は賢君なのにって。こちらが言いたい。勝手にどんな方だと思ってたんだ。……だから気にしないことにした。言われた通りにやったのに怒るんなら、言ったほうが悪いんだ。勝手に喋る置物だと思っていればいい。君もそうすればいいんだ」
「置物……。すごいですね。やってみます! 私、殿下のようにやさしい方は初めてです。私が何か言っても、どなったり、あきれたりしないし」
「私もだ。側近たちは私のために色んなことをしてくれるけど、よくがっかりしてるんだ。君みたいに私にがっかりしない人は初めてだ。君だけが私のことをわかってくれる」
「私も、殿下だけがわかってくださいます」
王子はその記憶力で、一言一句違えずに優しいやりとりを再現してくれた。もっと子どもだった頃に、大切な宝物をこっそり見せてくれた時と同じ笑顔に、公爵がかすかな胸の痛みを感じる。そんな方だとか抜かした者たちは遡って首をきろう。この際、物理でもいい。
公爵は王子より先に子爵令嬢の聴取にも立ち会っていたが、王子と同じく裏も表もないそのままの為人だった。少女はなんの計算もなく、ただ王子と寄り添っていた。それが結果的に、王子にだけは一撃必殺のハニートラップになってしまった。
あの貴族令嬢としては何もかもが失格な少女は、それでも間違いなく王子の運命の相手なのだろう。彼女が傍にいれば王子は幸せだった。だが、残念ながら彼女では第二妃すら務まらない。これは約束された崩壊だった。
本来、王子の傍に侍る事が許されるのは、王家の侍従や婚約者たる公爵令嬢や第二妃候補の令嬢たち。誰もが皆、高い教育を受けそれを矜持とする貴族だった。だが、王子にとって王宮は呼吸も出来ない水の中に等しかったのだろう。高位貴族の令嬢たちが子爵令嬢に太刀打ちできなかったのも無理はない。
公爵の脳裏に、かつての一幕が浮かんだ。
王子が子爵令嬢に傾倒して暫く経った頃、両親に連れられたある令嬢が第二妃候補辞退の挨拶と詫びに公爵邸を訪れた。
彼女は殿下が子爵令嬢に望むものを冷静に分析し、それが共感であると見抜いた。第二妃候補として、王妃候補の公爵令嬢では難しい、王子と同じ目線での寄り添いを提供しようと努力した。己の矜持を投げ捨てて子爵令嬢と同じ言動を心掛けたのだ。そして王子に拒絶された。
「申し訳ございません、公爵令嬢。私が余計なことをしたばかりに殿下との仲を余計にこじらせてしまいました」
「殿下と国を思えばこその行動だと理解しておりますわ。殿下は繊細な方ですもの。うまくいかなかったのも仕方ありません。次は私に先に相談してくださいね。一人では気づかないことも二人なら気が付きますわ」
「はい……っ」
「ですが、他の方も同じことを考えても不思議ではないわ。私から皆様に共有してもいいけれど、どうかしら?」
「次のお茶会で他の候補の皆様に第二妃候補辞退の挨拶をするつもりです。その時に私から話しますので、次の茶会でお時間をいただけますか?」
「貴女は大丈夫? 無理をしなくてもいいのよ」
「これでも第二妃を目指しておりましたので、最後にこのくらいはさせてくださいませ」
「わかりました。貴女が候補から外れるのはとても残念です。次回以降は妃候補の茶会には招けませんが、他の茶会には是非いらしてね」
すでに王妃の風格を漂わせた娘と惜しくも脱落した賢き令嬢の姿に、次代の苦労をしのびつつも何とかやっていけるだろうと楽観視した自分を殴りつけたい。誰が悪いかと言えば我々大人世代がすべて悪かった。
公爵が目の前の王子に視線を戻す。
「子爵令嬢はとてもやさしい方ですね。殿下が好まれた理由がよくわかりました。……では、お礼として私もとっておきの内緒話をひとつ、いたしましょう。この話は殿下の側近の皆にも内緒ですよ?」
とっておきの話を教えてくれた王子のために、公爵もひとつ、とっておきの話を披露する。厚意には厚意を、罪には罰を、秘密には秘密を。
「驚かないでくださいね? かつて殿下方が割ってしまった国宝の壺ですが、実はレプリカだったのです」
「なんだと! 皆すごく怖い顔をしていたのにか?!」
「割れた壺もよく出来ていたでしょう。あれは王城に飾ることが許される美術品です。あのレプリカ自体が非常に価値ある一品だったのですよ。だから壊したことは反省なさってください」
「そうだな、とても綺麗だった。割ってしまってすまなかった」
「あの壺は製作した窯元に戻して金継ぎで生まれ変わりました。殿下が即位なされば、お祝いにご覧にいれる予定だったのですが、これからは離宮に飾ることになりますね」
「そうなのか。生まれ変わってよかった。離宮に見に行くよ」
「是非に。でもレプリカだったことは側近方には内緒ですよ。自分で気が付くべきことですからね」
「わかった」
側近にも内緒の秘め事に王子の機嫌が上昇する。ささいな騙し討ちは楽しいものだ。
王子たち悪ガキ集団の悪戯対策に、当時の王城にはいくつものレプリカが置いてあった。公爵が知らせていたのは国王と一部侍従のみ。押さえつけても暴発するだけだと、レプリカへの悪戯には目をつぶる約束で、王妃にも内密にさせた。高価で美術品としても価値あるレプリカを、子どもの悪戯だからと軽く見られては困る。そのくらい王妃の価値観には信用がなかった。
王子付侍従たちは悪戯が本物の国宝に向かわないようにと、戦場で敵と向かい合うような張りつめた顔で子どもたちの視線と興味を誘導していた。それでも実際にレプリカを壊された時は、その価値を思って青ざめていたが。
どう見ても子ども一人で倒せるような壺ではなかったが、わずか8歳の殿下が一人でやったと言い張った時は、国王陛下も私も侍従も密かに感動したものだ。だからこそ、娘との婚約を承諾したのだが。
壺がレプリカであったことは、殿下方を反省させるために機密となった。子どもたちは大いに反省したものの王妃は自省しなかった。壺破壊事件を以って侍従から使用人に至るまで国王夫妻への目線は厳しくなったがそれでも王妃は変わらない。周囲の思惑など考えもしないのだ。
あの山猿のごとき活気あふれる集団を殿下の側近候補として王城へ引き入れたのは王妃だ。身分を越えて沢山の友人をつくってほしいと寝言をほざいて、下町育ちと変わらない没落寸前の男爵家子息まで集めた。
騎馬戦でもするのかと思うほど数だけはいた側近候補たちは次々と抜けていった。子どもたちのほうがよほど現実を見ている。最初は価値を見抜いて壺登り競走に加わらなかった候補たちが、次に壺を割った時に下で踏み台になっていた候補たちが去った。身分を越えてと綺麗ごとを言ったところで、現実に下で踏み台になっていたのは下級貴族の子どもたちだった。壺に登ったのは殿下と上位貴族の子息たち。上位貴族の子弟と違って卒業後すぐに働かなくてはいけない下位貴族は現実的だった。本人の意志もあれば、親の危機感の表れもあっただろう。壺の件は本人にも保護者にも箝口令が敷かれて不問とされたが、一歩違えば下位貴族に責任を押し付けられていたかもしれない。継ぐ爵位のない我が子のために出仕させたのに、出世の道どころか、死出の旅路になりかねないと王家が損切りされた。これが現実だ。
賢君とされる国王の子がこれかと、殿下が実体以上に下に見られてしまったのは失策だった。
「さて、では昨夜の話に戻りましょう。まずは殿下の宣言についてお聞きします。あの婚約破棄宣言は殿下自身がご自分の意志で選択し、出席者の前で読み上げるとお決めになったのでしょうか?」
「そうだ。唯一の女子である側近が目の下に真っ黒な隈を作って、髪も少し乱れたような状態で、だが何かを決意したような力強い目で『殿下のために書き上げました。これを読んで明日の舞踏会は頑張ってください』と震えながら渡してきたんだ。私の側近として働きながらも学年一位を不動にする彼女が、そこまでして書いたものだ。是非、実現させねばと思ったのだ。だから絶対に成功させようとがんばった」
なぜ頑張ってしまったのか。そこは頑張らないでほしかった。隣室で同じ言葉を聞いてはいたものの、目の前で褒めて欲しそうな顔をされると力が抜ける。王子に脱力感を気取られないために公爵は体に力をこめた。
「名演技でしたね。ところでなぜ草稿を最後までご覧にならなかったのですか?」
「舞踏会の開会までもう時間がなくてな。実はてっきりいつもの注意書きだと思って直前まで放置していたんだ。先に読んだら忘れるし。それで開いてみたら小説じゃないか。面白かったけど移動時間が迫っていたし、一言一句間違えてはいけないと思って暗記したんだ」
「時間がなかったのはお困りでしたね。どこまでご覧になりましたか?」
「そこの空白までだ。そこから翌日になっているし、ちょうどきりが良いだろう?」
「確かにこの空白部分なら、きりがいいですね。その後、続きをご覧になりましたか?」
「監察官に言われて先ほど読んだ。すごいことになっていたな。でも地の文の説明を読むと、なるほどと思わされた。さすがは私の側近にして不動の一位を取り続けるだけある」
王子はとても誇らしげだ。部下を誇る幼い君主、ここが聴取の場でなければ実に微笑ましい。
……彼の中で昨日のやらかしと草稿は繋がっていない。色々繋げられない人なのだ。
「ええ、とてもわかりやすい説明です。学園一位にふさわしい素晴らしい文才ですね。……私が早々に遮ってしまったのでこの草稿の通りにはいきませんでしたが」
「そうだったな。だが、結末を読んでしまうとあの通りにしてはいけなかったよな?」
「正解です。小説の通りにしてはいけませんでした。あの小説は、婚約破棄などすればこんな大変なことになるという教訓の物語なのです。側近殿は婚約破棄などせずに婚約者を大切にしろと言いたかったのでしょう」
「そうなのか。側近には悪いことをしてしまった。謝ったら許してくれるだろうか?」
「今は許すのが難しいかもしれませんね。謝られても素直に受け取れないかもしれません。……こういう場合は時間が解決することもあります。殿下も何日も怒り続けることはできないでしょう?」
「無理だな。どんなに怒っていても寝て起きたら忘れるものだろう。何日後ならいい?」
「数日では難しいですね。実は彼女は寝不足で倒れて医務室にいるのです。殿下のためにと、よほど精魂込めてあの小説を書き上げたようです。暫くは睡眠が必要でしょう。それに婚約破棄騒動の関係者は誰もが厳重に監視されていますから、特に女性である彼女とはしばらく会わないほうがいいでしょう。……折を見て私が場を設けるのでもよろしいですか?」
「わかった。心配だが公爵なら信用できる。頼むぞ」
「承りました。……婚約破棄の話に戻りますが、殿下が『穏便に済ませてやろうとした心遣い』とは、草稿と違って娘を収監させないことですか?」
「そうだ。収監なんて酷いだろう? 側近には悪いが、そこだけは変えようと思っていたんだ。そこにたどり着く前に台本が変わってしまったが。色々、草稿通りにならなくて焦ったが、ゲームブックの選択肢に慰謝料があったのを思い出してな! なんとか繋げられた」
なんとか繋がないでほしかった。あのゲームブックを作った側近たちも同じ気持ちだろう。偶然か、どこかの馬屋から悲鳴が聞こえた。
「本当に、令嬢を収監などと酷すぎますね。殿下が変えようと思ってくださってよかったです。……台本が予想外に変わってしまって大変でしたね。お疲れ様でした。……ただ、慰謝料という言葉で繋がってはいましたが、ゲームブックの選択肢とは前提条件がかなり違いますね。ゲームブックでは婚約破棄の慰謝料ではなく、横暴な城主の暴力に対する被害者への慰謝料要求ですから」
常に主語と述語と目的語を明確にし、王子が会話を咀嚼したのを確認してから次の話題へ。公爵は幼子と話すように根気よく会話を続けた。
「そうなんだが慰謝料という言葉はゲームブックにそれしかなかったんだ。そもそも公爵が出てくる選択肢なんてひとつもなかったしな。仕方ないから機転を利かせたんだ。いつも機転が利かないと言われるから」
そこは機転を利かせないでほしかった。そもそも一国の王子に対して機転が利かないなどと正気で言っているのか。王族とはアドリブで対応していい立場ではないのだ。公の場でなら一挙手一投足に閣議が必要なくらいだ。侍従か側近か知らないが見つけ出して馘首せねば。王妃の職権を侵すが仕方あるまい。そもそも王宮に相応しくない侍従や使用人を選んだ責任は王妃にある。
「選択肢がひとつでは条件があわなくても仕方がないですね。……ではゲームブックや草稿から話をかえます。舞踏会だというのに殿下が登城するわが娘を迎えにいらっしゃらなかった理由はなんだったのでしょうか?」
「公爵令嬢には公爵も小公爵もいるではないか。子爵令嬢には私しかいなかったのだ。侍従が絶対駄目だと言うから迎えに行けなかったが」
責められたと感じたのか、王子の口調がすねた子どものようになった。王子にとって公爵は、父母の次に甘えられる大人である。
「あの時はまだ殿下が娘の婚約者でしたから、私の娘を迎えられるのは殿下しかいなかったのですよ。成人の式典という晴れの舞台に娘を一人で送り出すわけにはいかないので、苦肉の策として妻と別行動をして私が付き添ったのです」
「そうなのか! それはすまなかった。公爵令嬢にも夫人にも謝る」
「殿下の謝意は私から娘と妻に伝えておきます。昨夜の婚約破棄宣言で大騒動になってしまったので、国が落ち着くまでは私の娘とは会わないほうがいいでしょう。……話は変わりますが、殿下と仲のよろしい子爵令嬢ですが、殿下が王子でなくなれば婚約できますね」
「そうなのか。では王子を辞める」
わかっているのかいないのか、笑顔で即答である。
「王子を辞めてもよろしいのですか? 王子でなくなれば、殿下はもう国王にはなれませんし、国王夫妻であるご両親と同じ宮にも住めなくなりますよ?」
「王子は誰でもできるが、彼女の夫は私しかできない……と思う。もしかして父上と母上に会えなくなるのか?」
「同じ宮に住めなくはなりますが、双方の合意があればいつでも会うことはできますよ。もしも殿下が即位していたら両陛下は離宮に移りますから、別居が少し早まっただけかもしれませんね」
「それならいい」
「子爵令嬢と結婚するために、殿下は王子を辞めるということですね。対外的には婚約破棄の処罰として王位継承権を剥奪され王族籍を抜かれたという形にしたいのですが、よろしいですか?」
「どうしてだ? 私が自主的に返上するほうがいいのではないか?」
「子爵令嬢への愛を貫くという意味では殿下の自主的な地位返上が正しいです。……ですが、昨夜の殿下による婚約破棄宣言は国を揺るがす一大事でした。国家の体面と秩序を保つために、婚約破棄に対する処罰を何よりも優先して行わなければならないのです。殿下のお気持ちを後回しにしてもです。……処罰として考えるなら、自主的な返上よりも剥奪のほうが重い。……これは殿下に対する罰であると同時に、諸外国と国民に対する牽制でもあるのです。王子でさえ契約を破ればこれほどの罰を与えられるという見せしめです」
公爵は婚約破棄宣言の内実をある程度察していた。事実は想定よりはるかに間が抜けていたが大筋は変わらない。だから公爵自身には怒りはない。それでも舞踏会の場でわざわざ怒りをあらわにしたのは、諸外国使節団と貴族たちへの牽制である。わが国と王家につけいる隙はあるが、つこうとすれば手痛い反撃があるぞという警告だ。
「……それに殿下が罰を与えられたほうが、私の娘と公爵家の面目が立ちます。一方的に婚約破棄を宣言されて殿下になんの処罰もないとあっては、公爵家と娘に瑕疵があったと見なされるのです」
「そうなのか。そういえば小説にもそう書いてあったな。公爵令嬢には本当に悪いことをした。すまなかった」
「娘に伝えておきます。……殿下、あの草稿を読んだ時点で、実行したら娘に悪いと思ってくださらなかったのですか?」
「なんだか可哀想だとは思ったんだ。でも私が考えるより側近が考えるほうがずっと賢いだろう? だから大丈夫だと思ったんだ。彼女が害になることをするはずがない」
「あの草稿では一見娘が可哀想に見えるけれど、側近殿が娘の害になることをするはずがないから、実は難しい理屈で娘のためになることなのだと思われたのですか? ……なるほど。殿下は娘と側近殿の仲がいいことをご存じだったのですね」
「学園でいつもお茶をしていた。だからなるべく用事を作って伝言を頼んでいたんだ」
目的は素晴らしいが手段が間違っている。善意があれば結果がついてくるわけではないと知らしめたいのか。方法はともかく、王子のこの底抜けの善良さは間違いなく父親譲りだろう。百戦錬磨の監察官をして厳しい聴取を躊躇させるくらいだ。
「あの定型の伝言は娘たちのお茶会のためだったのですね。娘にかわって礼を言います。ありがとうございました」
礼を言われると嬉しそうにはにかむ。王子が必要としているのは、いつだって、ほんのささやかな肯定だ。
「では、これからの話をしますね。殿下への罰を決める会議はこの後すぐに始まります。殿下の王位継承権は剥奪となる可能性が高いです。国王が結んだ婚約を王の許可なく公の場で一方的に破棄したことは、王権の軽視を招きました。諸外国からもつけこみやすい国と見なされたため罰が重くなるのです」
内容が内容だけに、王子が理解するのを十分に待ってから続ける。
「少し話は変わって、殿下の側近たちのことですが、国の決定とは別に法務大臣らが昨夜のうちに子息の籍を抜き平民としました。側近たちの所属する家門から側近たちへの罰ということです」
「大丈夫なのか?」
「殿下の側近たちは大丈夫ですよ。卒業までは今まで通り実家から学園に通います。卒業後は殿下の側近として殿下と同じ離宮に住むことになるでしょう。心配することはありません」
王子が目に見えて安堵する。因果関係は察せずとも、側近を気遣う気持ちは本物だ。
「責任ある立場の殿下の罰を側近たちより軽くするわけにはいかないので、おそらく殿下の王族籍も剥奪となるでしょう。王位継承権の剥奪と王族籍の剥奪、これはかなり重い罰となります。……ただ、剥奪の結果として子爵令嬢との婚約・婚姻は滞りなく進められるはずです。あらためてお聞きします。殿下は子爵令嬢との婚約そして婚姻を望みますか?」
満面の笑みで肯定された。娘の婚約と同じく、午後になる前に成立させよう。彼が呼吸できるように。
「わかりました。子爵令嬢の意志も確認し、今日中には婚約を整えられるよう調整します。婚約が成立すれば令嬢に会うことも出来ますので、ご心配でしょうがお待ちください」
「婚約破棄で大変なことになるのは小説を読んだからわかってる。幽閉されるんだよな。待っているから頼む」
「あくまで議会が決定することですが、殿下は幽閉とはならないと思います。側近たちと同じく卒業まで学園にも通うことになるかと。子爵令嬢一人では学園で針の筵ですから、殿下が守ってあげてください」
「そうなのか。わかった。私が守る!」
針の筵も二人で座ればお花畑だろう。この二人なら可能だ。不可能を可能にする。愛とはここまで破天荒なものか。本来ありえないはずの王子と子爵令嬢の結婚も可能にしてしまった。代償は大きいが二人は幸せに違いない。
「婚約破棄の件で、家門の反省の証として代替わりを早めた家もいくつかあります。……法務大臣閣下は爵位を小侯爵に譲り大臣業に専念されるそうです。実は法務大臣閣下は今期で大臣職を勇退する予定でしたが、引退を延期して孫の恩赦のために働くと聞いております」
側近の家族が騒動の内実を知れば脱力するのか、怒りに震えるのか。どちらにせよ、王子および国王の頭がこれほど軽いとばれるよりは、強権で婚約破棄しようとした愚か者と見なされたほうがましだ。今回の調査結果は国家の重鎮だけに共有されることになる。
「それが臣下の反省なら王家の反省はどうなるんだ?」
「予定より早く数年後には陛下が退位することになるでしょう」
「小説にあった通りだ」
「とても現実に即した小説でしたね。学園一の才女だけあります」
才媛とはいえ社会経験のない学生ひとりで組み立てられる話ではない。ブレーンが他にいるのだろう。十中八九、王子付侍従だろうが。王子付侍従の中でも特に若く、鬼気迫る顔で殿下を壺に誘導していたあの侍従だ。たびたび王城から殿下を迎えに行っていたので、件の才女と面識があったのだろう。彼らは特に保護しなければ危険な立場だ。今回の騒動で面目を失った家は多い。
「殿下、とても重大な話をしてもよろしいですか? ……ありがとうございます。このゲームブックはただの自作ゲームであって殿下の想定問答集ではなかったことにしてほしいのです。……なぜかと言いますと、昨日の殿下の発言が、ゲームブックの選択肢から選ばれたとわかると、側近たちが殿下を唆して愚かな婚約破棄をさせた犯罪者になってしまうからです。……ええ、もちろん殿下から直接話を聞いた私は違うとわかっています。ですが、国民の多くは殿下から直接話を聞くことはできません。殿下のお話を聞けない国民が『殿下が側近の作ったゲームブックの選択肢の通りに婚約破棄をした』と聞いたら、殿下は側近に騙されたと思うでしょう。……王族への詐欺と認定されると極刑です」
青くなった殿下が決して他言しないと誓ってくれた。この件も箝口令だ。いずれ禊を終えた側近たちが殿下の元を離れるときには、殿下からの思いやりを必ず言い聞かせよう。保護者には今日伝えておく。殿下に感謝してささいな報復を思いとどまるように。
あの草稿についても、殿下が当初思っていたように舞踏会でのマナー集だったことにした。殿下の望み通り、学生のうちに作家デビューさせると約束すると、わがことのように喜んでいる。
作家殿の実家は不幸続きで政治工作どころではなく、側近候補の中で唯一除籍もされていない。学園が用意した側近候補だっただけに、法務大臣の網にもひっかからなかったのだろう。ちょうどいいので、本名で出版させよう。話題性は十分だ。
5年もたてば国の体制も固まり箝口令も意味を無くす。殿下の離宮に元側近候補たちを集めて同窓会を開くのもいいだろう。彼らは殿下の庇護を知るべきだ。あれほど脇が甘くなければ、今すぐにだって教えられるのだが。
「それから、これは殿下の結婚後の話ですが、残念ながら殿下にはお子ができません」
王位継承権や王族籍は形だけでも殿下の意志での選択としたが、こればかりは形を選ばせることも出来ない。議会に諮ることもない、国王代行の専権事項である。後顧の憂いを断つために、不穏因子を残させない。
「そうなのか? 子ができたら楽しいのだろうが、ぴんと来ないな」
「出産は大仕事ですからね。医師を用意できる貴族家であっても亡くなる夫人も珍しくはないのです。国の頂点である国王夫妻にすら、御子は殿下おひとりでしょう? 夫人の体が弱い場合は初めから子を作らない家庭もあるくらいです。残念ながら体の弱い子爵令嬢に出産は危険でしょう」
弱いのは頭かもしれないが、それも病弱のうちだろう。何より不妊薬が体質の変化を起こす可能性は否めない。
出産について、そんな恐ろしいことはさせられないとまた蒼白になる王子に、犬を勧めておいた。
「そうだな。彼女と私と大きな犬、楽しそうだ」
「では大型犬を何頭か見繕っておきますね。オスとメス、両方の名前を考えておいてください。子爵令嬢とお二人で考えるのも楽しいかもしれませんね。……長くなりましたが聴取にご協力ありがとうございました。」
護衛に誘われて王子が退室すると、公爵も部屋を出て半透過鏡でつながった隣室へと移動する。公爵と入れ替わりで隣室に入っていた監察室長に目配せすると、書記官2名を従え手早く部屋を出ていった。元老院会議が始まるまでに、重鎮たちにのみ調査結果の略報が共有される手筈だ。
聴取では殿下にも監察室長にも負担をかけた。心理的にも時間的にも。うまくいかないとわかってはいたが、公爵が初めから話していればその問答が誘導としか見えなかっただろう。調査に公平を期するためには必要な時間だった。監察室には特別褒賞を組んでおこう。
「聞いていたか?」
「はい。陛下と父上のように、私がもっと殿下と交流し支えておくべきでした」
部屋に残った筆頭公爵家の嫡男である小公爵が答えた。今はまだ小公爵だが、数年後には王太子となるだろう。
「3歳差ではそれも難しかろう。学園もすべて入れ違いだ。お前が生まれた後も、国王夫妻には御子ができず、公爵家も次子を控えていた。どうしてもプレッシャーになるからな。次男も3歳下で、結果的に側近にできる年齢の従兄弟がいなかった。これは私たち親の失態であって、お前たちの責任ではない」
公爵が21歳の小公爵と15歳の次男に目線をあわせて伝える。
小公爵は王子の御代では国王代行となる可能性が高かったため、時に王家や公爵家に現れる王子のような事例について高等部入学直後に教えられていた。それでも在籍期間のすれ違いもあり王子との交流は少なく、実際の症状を目の当たりにしたのは初めてだった。厄介なことに日常の軽い交流ではその特異性はまったく現れない。王子もまた、礼儀正しく挨拶をし、丸暗記した祝辞を朗々と読み上げ、学業の成績も悪くない好青年だった。小公爵にしても妹への態度を知らなければ、父の教えを疑っていたかもしれない。
将来の公爵補佐である次男は小公爵とは違い、正式に公爵補佐の後継となる高等部卒業後に真実を伝えられる予定だった。ことが王家の機密であるために、真実は国家の重鎮ならびに筆頭公爵家のごく一部、公爵夫妻、小公爵夫妻、公爵補佐のみに共有される。そして貴族家には、王家に時々恋愛脳が現れるという事実が共有されるのだ。あくまで恋愛に狂うだけで、他の判断力に優れないわけではないと。
次男にとっての王子は事実のように恋愛に狂いはしたものの次代の王に相応しい又従兄だった。舞踏会を直接見ていないこともあり、次代の王だったはずの王子の特異性に衝撃を受けてそれを隠せてはいない。政治と王家の裏方を見せるには次男はまだ未熟だったが、今後の立場を考えて立ち合わせた。公爵が国王に、小公爵である嫡男が王太子になれば、次男は公爵補佐ではなく公爵となる。年若いゆえにしばらくは公爵が王位と兼任し、公爵の実弟が公爵補佐と小公爵補佐を兼任して支える予定だが、次期公爵としての教育を開始するなら早すぎることはない。
「お前たちはよく覚えておくように。残念ながらこれは私たち一族の血の病だ。私たちの子孫にも殿下のような方が現れる可能性は高い。それは遠い子孫ではなく子や孫かもしれない。その時にきちんと手綱を握れるように」
「私たちだけでよろしいのですか? 他のきょうだいには?」
次男が父に問うのを小公爵が見守っていた。
自身の子にも殿下が生まれる可能性に思いいたった次男は、無意識に情報と恐怖を共有する家族を増やそうとした。王家の機密ではあっても、公爵家の一族、特に同じ血を持つ姉たちなら、いつか産まれる我が子のためにも教えられてしかるべきだという義心もあった。小公爵はすでに機密の重さを理解しているが6歳下の弟はまだわかっていない。しかしその恐怖心と義心はすでに妻子を得ている小公爵にはよく理解できた。実際に子を生せば、ただ我が子を愛しく感じるものだが、弟が妻子を得るのはまだ先だ。それまでは自身の不安と付き合うしかない。機密が記された家系図を見れば2代続けて殿下が生まれたのは異例中の異例であるとわかるが、国王と王子という事例しか知らない次男にはその出現率の高さは脅威に思えるだろう。小公爵として口頭での説明はできるものの王家の特別室にある家系図を見せる権利は国王と公爵にしかない。公爵がそれを見せるのは事態を収拾できてからになるだろう。小公爵は弟への説明を午後の最初の予定に加えた。
「あまり広めるのは憚られる。弱みを見せびらかすようなものだからな。王族がおかしくなるのは、あくまで恋愛でだけと思われたほうがいい。我が家の下の子たちが国の重責につくことはまずないだろうが、必要なら折を見てお前たちが伝えてくれ」
国の重責につくことがないゆえに真実を共有されない下の子たちの子どもに殿下が生まれた時は面倒を見てやってほしい。公爵の言外の要請を正確に受け取った二人が頷いた。次期公爵として恐怖と義心を抑え機密に納得した次男もだ。
「私の息子がお前たちで良かった。殿下が実子なら優しく出来たかわからん」
殿下は王家に生まれていなければ幸せだったのかもしれない。美しい容姿によく通る声、そしてずば抜けた記憶力、これが俳優ならば当代一だったろうに。……詐欺師に騙される未来しか思い浮かばないが。
私も貴方が父で良かったですと、二人の息子が声をそろえた。
「私は今から元老院会議を開く。しばらくは王城に詰めるから、公爵の執務は小公爵が代行するように。
落ち着いたら私からも話すつもりだが、殿下からの妻と娘への謝意を伝えておいてくれ。娘は8歳の頃から10年間、殿下を見続けて来た。彼のことをよく理解しているから驚きはしないだろう。
この草稿は、殿下の宣言に衝撃を受けた子爵令嬢が記した小説として出版させる。話題の出来事を下敷きにした小説だ。逆はない。聴取のために王宮に留め置かれた子爵令嬢が独力で3日かけて書き上げた。実際の出来事だけに、小説の中の王子の処分もリアリティに溢れているというわけだ。王宮の噂では王子の処分はもっと重いはずだったので、事実と異なったのは仕方ない。事の重大性から私が令嬢を直接聴取した際に、友人であり当事者である公爵令嬢に渡してほしいと託された。娘に渡す前に目を通した私が出版社に紹介した」
殿下の時とは違い、矢継ぎ早に複数の指示を伝える。
「元老院会議で再婚約の決定が出しだい帰邸して母と妹に伝えます。この草稿の書き写しは3日後に妹に渡せばいいですか? 3日後に書きあがって父の手を経て当日夜に複製が妹に渡り、次の日の茶会で話題に上る」
打てば響く受け答えだ。殿下と話している時とは違い、まったく疲労を感じない。殿下と話すと穏やかな気持ちにはなれるが、思考速度の違いには疲弊もした。これから始まる元老院会議は公爵の速度で進むだろう。
公爵はひとり、会議室へと向かった。
あの騒動から3年が経った。この老いた身に3年は長かった。長すぎた。法務大臣引退を延期し、隙あらば永眠しそうになる目をこすりながら慣習法と成文法の完全一致という法の一大改革をなしとげた。細かい調整はわしが死んでも続くだろうが、そこまで面倒はみれん。
公爵の即位をきっかけに、かつての王子の側近たちも皆、離宮を去っていった。孫は王子に近い存在だったゆえに3年をかけた。贖罪は十分だ。ようやく馬屋から出してやれる。
「逞しくなったな、我が孫よ。あれから3年が経って贖罪の気持ちを認められ、皆それぞれの道を歩き出した。そろそろお前も文官の道に戻るといい。ちょうど領地の役人の席が空いてな……」
「おじいさま……! ありがとうございます。でも私は殿下のもとへ参じたく」
「先王嫡子殿は離宮で細君と幸せに暮らしておられる。王位奪還など考えてもおらん」
「違います。私ももう身の程を知りました。ですが、結果的にあの方を唆してしまった私には彼に仕える責任があります」
「そう思うなら二度とあの方に会うべきではない。真にあの方を思うなら。わしがお前をあの方から引き離したのは、お前が傍にいる限りあの方がまた何かしでかすのではと疑われるからじゃ。それはお前も同じこと。お前は他の元側近たちよりあの方に近かった。だから領地へ行け。行って結婚して平凡な幸せを掴め。すべてはお前に器ではないと言うてやらんかったわしの責任だ。わしに責任を取らせてくれ」
「文官など考えてもおりません。側近に戻るつもりもないのです。私はただ馬屋番としてあの方を支えたい! 扱いは子爵家相当でも離宮なら馬屋はあるでしょう!」
「心まで馬屋番になってどうする! いや、馬屋番は大事な仕事だし、お前は馬屋の環境や馬の栄養状態を改革して劇的に改善した。実によくやったが、そうじゃないじゃろ? 殿下の馬屋番になるために頑張ったのか?」
「はい!」
法務大臣はその場に頽れた。
わし、やっとあの時の公爵の気持ちがわかった気がする……。
長いわ! 分割するところがなかったので仕方ない。起草者の悲劇を防ぐためにも分割はギルティ。
やらかした時より後始末に時間がかかるのは世の習いです。
問 一番可哀想なのは誰だったのか?
1、後始末王となった公爵(本命) 2、身も心も馬屋番になった法務孫(対抗) 3、法務大臣(大穴)
殿下は船のように他力でのんびり走っている人なので枠外。自力で走る有象無象とは速度があわないのも仕方ない。
次回、蛇足の蛇足で公爵と国王の小話。最終話です。
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ご指摘ありがとうございました。
端折りすぎておかしくなっていた部分を修正しました。
2026/06/14 本文の一部に加筆修正(下記は差替前のもの)
弱いのは頭かもしれないが、それも病弱のうちだろう。何より不妊薬が体質の変化を起こす可能性は否めない。そんな恐ろしいことはさせられないとまた蒼白になる王子に、犬を勧めておいた。
「そうだな。彼女と私と大きな犬、楽しそうだ」
「では何頭か見繕っておきますね。オスとメス、両方の名前を考えておいてください。……長くなりましたが聴取にご協力ありがとうございました。」
護衛に誘いざなわれて王子が退室すると、公爵も部屋を出て半透過鏡でつながった隣室へと移動する。公爵と入れ替わりで隣室に入っていた監察室長に目配せすると、書記官2名を従え手早く部屋を出ていった。
「聞いていたか?」
「はい。陛下と父上のように、私がもっと殿下と交流し支えておくべきでした」
部屋に残った筆頭公爵家の嫡男である小公爵が答えた。今はまだ小公爵だが、数年後には王太子となるだろう。
「3歳差ではそれも難しかろう。学園もすべて入れ違いだ。お前が生まれた後も、国王夫妻には御子ができず、公爵家も次子を控えていた。どうしてもプレッシャーになるからな。次男も3歳下で、結果的に側近にできる年齢の従兄弟がいなかった。これは私たち親の失態であって、お前たちの責任ではない」
小公爵と15歳の次男に目線をあわせて伝える。次男は政治の裏方を見せるにはまだ幼いが、その立場を考えて立ち合わせた。公爵が国王に、小公爵である嫡男が王太子になれば、次男は公爵となる身だ。年若いゆえにしばらくは公爵が王位と兼任し、公爵の実弟を小公爵補佐としてつけることになるが、教育が早すぎることはない。
「お前たちはよく覚えておくように。残念ながらこれは私たち一族の血の病だ。私たちの子孫にも殿下のような方が現れる可能性は高い。それは遠い子孫ではなく子や孫かもしれない。その時にきちんと手綱を握れるように」
「私たちだけでよろしいのですか? 他のきょうだいには?」
次男が父に問うのを小公爵が見守っていた。彼はすでに理解しているが6歳下の弟はまだわかっていない。
「あまり広めるのは憚られる。弱みを見せびらかすようなものだからな。王族がおかしくなるのは、あくまで恋愛でだけと思われたほうがいい。我が家の下の子たちが国の重責につくことはまずないだろうが、必要なら折を見てお前たちが伝えてくれ」
下の子たちの子どもに「殿下」が生まれた時は面倒を見てやってほしい。言外の要請を正確に受け取った二人が頷いた。
「私の息子がお前たちで良かった。殿下が実子なら優しく出来たかわからん」
殿下は王家に生まれていなければ幸せだったのかもしれない。美しい容姿によく通る声、そしてずば抜けた記憶力、これが俳優ならば当代一だったろうに。……詐欺師に騙される未来しか思い浮かばないが。
私も貴方が父で良かったですと、二人の息子が声をそろえた。
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誤字訂正くださった方、ありがとうございました。
2026/06/14 誤字訂正
観察室長を困惑させた。→監察室長を困惑させた。
観察室長の権威は→監察室長の権威は
観察室長殿、ここからは→監察室長殿、ここからは
観察室長の名に相応しい→監察室長の名に相応しい
観察室長が耐えきれなかった→監察室長が耐えきれなかった
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2026/06/14 本文修正
なぜ頑張ってしまったのか。王子の為人をよく理解している公爵ですら脱力を隠せない。そこは頑張らないでほしかった。
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なぜ頑張ってしまったのか。そこは頑張らないでほしかった。隣室で同じ言葉を聞いてはいたものの、目の前で褒めて欲しそうな顔をされると力が抜ける。王子に脱力感を気取られないために公爵は体に力をこめた。
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2026/06/15 タイトル修正
王子殿下の航走→おまけ 王子殿下の航走
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2026/06/15 訂正
娘のためになることなんだと思ったのですか→娘のためになることなのだと思われたのですか
文章追加
しかしその恐怖心はすでに妻を得ている小公爵にはよく理解できた。
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しかしその恐怖心と義心はすでに妻子を得ている小公爵にはよく理解できた。実際に子を生せば、ただ我が子を愛しく感じるものだが、弟が妻子を得るのはまだ先だ。それまでは自身の不安と付き合うしかない。




