M+ 08
金曜午前11時。
三時間目の数学の授業中に広人は校長室に呼ばれた。進学クラスでは生徒が授業中に呼び出しを受けるということはほとんどなく、たちまち教室内は騒然となった。同級生の好奇の視線を浴びることとなった広人は、全く動揺することのなく呼び出しに来た男性担任教師の後に続いた。
事務所社長の咲岡が金曜に広人の母親を連れ、学校側に事情説明をしに来ることを事前に知らされていたからだ。
広人の学校では学生が就業活動を行うことは原則禁じられていた。もっとも正当な理由と事情説明があれば、学校側の許可を取ることが出来た。歩きながら担任教師は本人の意志確認を行うだけと言っていたが、にわかに信じがたいといった様子で時折を首を傾げる素振りを見せていた。それもそのはず、広人は学校では特に目立った点のない勤勉な学生で通していたからだ。学習成績は常に上位にあり、部活動こそしていなかったものの、手のかからない真面目な学生として学校側から評価されていた。
校長室では咲岡と広人の母親がテーブルを挟んで、校長と学年主任教師と向かい合わせに座っていた。
ドアを開け校長室に入るなり、学年主任が広人に事実確認の質問をしてきた。
「はいその通りです。学校側に迷惑をかけることはありませんし、学生の本分である学業に支障を来すことなく芸能活動を行うつもりです」
定型文のような台詞を半ば棒読みのように広人は言い「勉強したいのですぐに教室に戻りたい」と続けた。その様子に校長と学年主任は戸惑いを見せたが、やがて承諾したとの旨を広人達に告げた。
「案外やるもんだね」
教室に向かう途中の広人を呼び止めた咲岡はそんなことを言った。
「こんなところで時間をかけてはいけない気がしたんですよ」
広人が言うと咲岡は声に出して笑った。
「さすがだね。もし君と同じ年だったら好きになったねキミのこと」
急にそう言われた広人が動揺すると、咲岡はさらに声を高くして笑った。
「でも学校側への説明って、そんなに急ぐことだったんですか?」
咲岡はふふんと鼻を鳴らしたかと思うと、いきなり広人の背中を叩いた。
「理由は後で教えるよ。さあ早く教室に戻った戻った!」
叩かれた背中を気にしながら教室へ向かった広人に、
「パスポート作っといてね」
と咲岡は付け加えた。
教室に戻った広人は席に着くと、何事もなかったように授業を受けた。
元々広人は勉強が出来る方ではなかった。中学の時に父親の仕事に興味を抱き、その道に進もうと決めたのだが、通常の勉強量では目標とする大学への進学が危うかったため、高校ではあえて部活のない進学コースを選んでいた。同級生との交流を最低限に止め、ひたむきに勉強に打ち込む息子の姿を見た父親は、彼のことが心配になりDORSを勧めることにしたのだ。結果的には勉強にかける時間が減ってはいたものの、集中力が身につき効率的な生活を送るようになったため、成績は予想外の伸びを見せることになっていた。
昼休み時間に広人は問題集を片手に昼食を取り、午後の授業までの間は不得意科目の自習をしていた。入学当時から習慣づけたことだが、進学コースということもあり似たような生徒もいたものの、広人に影響を受け勉強量を増やし始めた同級生も少なからずいた。もちろん何故広人をそこまで勉強に駆り立てるのか、本当の理由を知る者はいなかった。
その昼休み時間に変化が現れたのは高校二年になってからである。
広人のクラスは男女それぞれ21名ずつの計42名で、席は男女交互に一列7名の並びになっていた。広人の前席の同級生は昼になると学生食堂や購買に行くため、その時間帯は席が空いていることが多かった。いつの間にかその席には毎日同じ女子が座っていることを、最近になって広人は気づき始めた。
その女子の名前は裕香スミス。
オーストラリア人の父親と日本人の母親を持つハーフだった。年の離れた彼女の兄が都内の大学で講師の職に就いてから、日本に移住し現在は広人と同じ高校に通っていた。生まれが日本であったため、彼女は日本とオーストラリアの両国に国籍を所持していた。髪色はブロンドであったが瞳の色が日本人と同じ黒色であったため、顔立ちのはっきりとした日本人と言って感じだった。ただ身長が170センチほどもありそれだけで充分目立つのだが、何より彼女の胸は大きかった。
広人の好みは純粋な和風女子であったが、薫との出会いから少しずつ軌道修正が行われていた。とはいえ学校で広人は他人との交流については極力無関心を装っていたため、初めて彼女が前席に座った時は少なからず動揺したのだが、相手側からこれまで何の接触行動がなかったこともあって気にも止めなくなっていた。
彼女と話していた隣席の女子が席を立つと、しばらく彼女は無言になっていた。いつものように問題集から目を離すことなく下を向いていた広人には彼女の様子は見えなかった。彼女が落ち着き無くため息を漏らしていたため、いつもとは雰囲気が少し違う印象を広人は受けていたのだが、勉強の手を休めることをしなかった。
やがて彼女は広人の目の前に一枚のメモを置くと、そのまま立ち上がり教室の外へと出て行った。
隣の女子への伝言を頼んだのかと思い、広人はそのメモを見た。
『お話しませんか?放課後図書室で待ってます』
広人は下を向いたまま周囲を見渡し、そのメモを上着のポケットにしまい込むと自分の頬をつねった。
…どうやら夢ではないらしい。




