M+ 01
日曜午前五時。
突発的な体調不良を感じた広人は、本能的に自宅一階のトイレに駆け込んだ。どうやら昨夜に食べたアイスのせいなのか、腹部に猛烈な痛みを感じていた。
…メーカー名を覚えておくんだった。
至福の時を終え、落ち着きを取り戻した広人はトイレを出てあることに気がついた。トイレはバスルームの隣にあるのだが、そのバスルームに灯りが付いており誰かがいる気配がする。榊原家で朝にバスルームを使用するのは妹の亜紀だけだったが、その妹は現在遠方にある高校の寮で暮らしている。
…マズイ。
広人がその場を離れようとするより早くバスルームのドアが開き、体にバスタオルを巻いた薫の姿が見えた。驚いた彼女は反射的に口を両手に当ててしまうわけで、支えを失ったバスタオルは万有引力の法則に逆らうことなく落下していった。
午前六時。
移動する車の中で、広人はカナからスケジュールの説明を受けた。都内のスタジオで新曲の番組収録をしたあと、「えのぐスタイル」の事務所で説明会があり、その後の指示は社長から直接受けることになるという。カナは話が終わると目をつぶり眠ってしまった。
新型DORSの発表会と同様に、彼女達のマンションへ移動する際に乗り込んだ白いバンの中に広人達はいた。広人の右隣にはカナが座り左隣に薫、前席にはリナが座っていたが三人とも眠っていた。ただひとつ先日と違う点といえば、車が走り出すなり薫が広人の左手を握ってきたことだった。
昨夜から早朝にかけて広人と薫の間に起こった出来事を、当然リナカナは知らされておらず、薫がそうした態度に出てくるなどとは思わなかったので、二人に気づかれた時の事を思うと内心穏やかではない。
…罰ゲームなのか?これは…。
そう思う反面、相手が薫で良かったと思うところもあった。リナカナのどちらかとそういう状況に陥った場合、広人の予想を遥かに上回る事態になることだけは確実だった。
移動中広人は何度か目を閉じてみたが、眠気は訪れてこなかった。公園での薫との出来事や腹痛のせいもあり昨夜はなかなか眠れず、眠りに落ちても一時間ほどで目が覚めるという浅い睡眠の繰り返しだった。左手を薫に握られていることもあった。すらりと細長く伸びた指先、思いのほか小さい手のひらから伝わる体温が、広人の全身を包み込んでいくような気がして、興奮が収まらなかった。
午前八時。
広人達を乗せた車は、都内某所のスタジオ駐車場で停止した。
車が止まるなり三人娘は目を開け、車から降りると後部トランクから下ろされる荷物を手にして、次々と建物の中へと入っていった。カナの指示で広人は大きな段ボール箱とスーツケースを台車に載せ、彼女達の後に続いた。
「よろしくね、広人君」
ロビーでは事務所社長の咲岡が待っており、広人と目を合わせるなり声を掛けてきた。
「今日は見学みたいなものだから、そんなに緊張しなくても大丈夫。会う人達への挨拶を忘れないようにすればOKだから」
彼女はそう言うと、スタッフの一人と一緒にエレベーターに乗り込んだ。
「黒氏こっち」
カナに呼ばれた広人は後を追いかけた。長い廊下を台車を押しながら進み、すれ違う人々に出来るだけ声を大きくして挨拶をした。ほどなく三人娘は連なる楽屋のドアの一つを開け中へと入った。ドアには白い紙が貼られており「るりきゃろ様」「KerBerryzM+様」という文字が書かれていた。荷物を置いた薫とリナは、部屋を案内したスタッフと一緒に外へ出て行った。
「二人が打ち合わせしている間に準備するから」
カナはそう言うとスーツケースを次々と開け衣装をハンガーにかけ始めた。広人は空になったスーツケースを指示された場所に並べた。
「黒氏はリアルでも黒氏になる」
意味を理解しかねていると、カナはダンボール箱を開け、中から大きな物体を取り出した。
それは着ぐるみの黒猫ヘッドだった。
「黒氏そこに座って」
広人が椅子に腰掛けると、カナは黒猫ヘッドを抱え広人にかぶせた。
やたらと狭い視界から、鏡に映る自分の姿が見て取れる。
「黒氏のプロフィールは非公開なので、関係者以外に知られることはないから」
カナはそう言うと広人を放置したまま鏡台に向かいメイクを始めた。
ギルドのオフ会でライオンヘッドをかぶる羽目になった理由をようやく広人は理解した。だがそれから先何をすればいいのかが分からない。
「詳しい事はスタジオで説明する。今日はその格好に慣れてもらうのが一番大事だし大変かもだけど」
カナの指示で広人は一旦黒猫ヘッドを外し、カナが用意した黒いタキシードに着替えた。メイクを終えたカナは鏡を見ながら丈の長さなどを調整し始め、やがて満足そうに「よし」と言うと再び広人の頭に黒猫ヘッドをかぶせた。
鏡に映った広人の姿は、アニメや映画に登場しそうなキャラクターそのものになっていた。
…別に自分以外の誰でもいいのではないか?と広人は思った。
「よろしくお願いします」
ドアがノックされると、カメラマンや音声、照明のスタッフが次々とそう言いながら楽屋の中に入り、撮影の準備を始めた。彼らは広人を見るなり驚声と笑い声を上げた。
やがて別室でメイクと打ち合わせを終えた薫とリナが、ディレクターらしき人物と一緒に戻ってきた。
「それじゃ、曲紹介用のV撮っちゃいますか、皆さん準備よろしく」
狭い楽屋内は急に慌ただしさを増した。
今回収録することになった音楽番組は、毎週土曜深夜に放送されているもので、楽屋から出演者自身が曲紹介を行うことが恒例となっていた。
カメラマンの指示で椅子が配置され、三人娘が前に並んで座り広人がその後ろに座った。
「カメラテストとラインチェック、リハーサルお願いします」
ディレクターはそう言うと、時間出しを始めた。
「五、四、三、…、…」
「みなさんこんばんは、『るりきゃろ』あんど『KerBerryzM+』です!」
三人娘は元気よく声を揃えて言った。
広人は心の中で呟いた。
…吾輩は黒猫執事…らしい。




