9.肥料はどのくらい混ぜたらいいのかしら……
「ヘルミーナ、これはどれくらいやればいいんだ?」
鍬を支えにするように立つお兄様がわたくしを見る。手に持った本に目を落としながら、耕された畑の土に触れてみる。湿った土はひんやりとしていて、指で押すとポロリと崩れた。
「……しっかりと、でもやりすぎもよくないって書いてあるわ。どこからがやりすぎかしら?」
しゃがんだまま、立つお兄様を見上げる。お兄様は額に浮いた汗を手の甲で拭った。
「悪いが私も畑に関しては無知蒙昧ゆえ、問われても答えられないよ」
「そうよね。他の本も見てみるわ。お兄様は疲れたでしょう? お家の中で休憩してらして」
地面に何冊か積んだ本を上からパラパラとめくる。お兄様は、そうするよ、と家の中へ入って行った。
こういう時に誰かに聞くことができたらいいのだけど、昨日買い物をした時点で察した。この町ですぐに快く受け入れてもらうことは難しい。
……当たり前よね。平民に酷く当たる貴族がいるって話だもの。もう貴族の位にないと言っても、彼らはそうですか、と簡単に受け入れることはできないでしょう。
同じようなことしか書いていない本の4冊目で諦めて立ち上がった。
「お兄様、わたくし昨日のお店の方に聞いてくるわ」
家の中を覗くと、白いネバネバを両手につけて奮闘するお母様とローズマリーの姿が見えた。お水を飲んでいたお兄様がこちらを見て、一緒に、と言いかける。それを、大丈夫よ、と遮った。
お母様とローズマリーは昼食を作っているはずだけど、あの白いネバネバは何になるのかしら。
通りを歩きながら考える。昨日と同様、いくつもの視線を浴びながら、タネを買ったお店に着いた。
「こんにちは。お聞きしたいことがございますの。少々よろしいですか?」
そこに立っていたお店の方は、視線を泳がせて、だけど、へえ、と小さな声で肯定した。
「今は畑を耕してみたのだけれど、あれはどの程度すればよろしいのかしら?」
今の土の状態を言葉で説明する。お店の方はわたくしを見ないまま、そのくらいでいいと教えてくれた。
「ああ、よかったわ。次は土に肥料を混ぜると本に書いてあったのだけれど、何か気を付けることはございますの?」
お店の方はボソボソと答える。だけど、声が小さくてよく聞こえない。ここでわたくしが聞こえないことを指摘すると感じが悪いかしら……。一応立場は対等なのだけれど、これは早々に平民の話し方を身に付けるべきね。誰かを罵る時だけじゃなくて。
「ありがとう存じます。助かりましたわ」
それだけ言ってお店を離れた。
……困ったわ。耳を澄まして聞き取れた単語を並べてみたけれどよく分からないわ。基本的な知識もないわたくしには難しいのかしら。
小さなため息を落として町の端にある家に戻り、畑にしゃがむ。
「肥料はどのくらい混ぜたらいいのかしら……」
手で土を掬いながら、本を開いた時だった。
「この辺をもっと耕しなされ」
低い、しゃがれた声が後ろから聞こえた。勢いよく振り返り、そこにおじいさんの姿を見た。
「よくできておる。だが均等じゃない。ここじゃ」
「は、はい……!」
反射的に立ち上がり、そこにあった鍬を手に取った。その時に、アドバイスをしてくれているのだ、と理解した。ずっしりと重い鍬を、先ほどお兄様がしていたように振り上げ……ようとして、できなかった。
「お、おも……」
「嬢ちゃんは貴族なのじゃろう。魔法を使えばよいではないか」
いいえ、と返事をしてもう一度腕に力を入れる。鍬は僅かに浮いたが、すぐに地面に落ちた。
「魔法とは便利なものですが、魔法で全てを解決していると人間の知恵や技術は衰退していくではありませんか」
魔力さえあれば魔法は使うことができる。魔法があれば生活は一気に便利になるし、実際に日常的に魔法を駆使する貴族も少なくはない。だけどわたくしは反対派。便利なものばかりに頼ってこれまでの人たちが築き上げてきたものが失われることを、わたくしは許容できない。
「……ならば嬢ちゃんの腕じゃ無理じゃ。あの兄ちゃんを呼んできなさい」
「は、はい、お兄様……!」
おじいさんの言葉に、わたくしは鍬から手を離して家の扉を開けた。
「お姉様、食事の準備ができましたよ」
ローズマリーが呼びに来ても畑はまだできなかった。肥料を撒いていたおじいさんと、土を混ぜていたお兄様が手を止める。
「先に謝罪をいたしますが、失敗しました」
「あら、何を作ったの?」
「パンになるはずだったもの、です」
パンになるはずだったもの。何ができたのかしら? と思いながら首を傾げると、ローズマリーは小さくため息をついた。
「夫人は釘が打てそうだわ、と楽しそうでした」
思わず笑ってしまった。お母様の姿が想像できる。
顎が鍛えられていいじゃない、と言うと、ローズマリーは、ふふ、と笑った。
本当に釘が打てそうなほどに硬いパンと、昨日よりは少しマシな味のスープで昼食をすませた。よかったら、と誘ったおじいさんは、硬くて食べられん、と微妙な顔でパンをスープに浸して食べていた。その顔を見て、誘わない方がよかったかしら、と思った。
「結局、畑だけじゃなくてパンの作り方まで教えてもらいましたね」
日が傾き、一仕事終えた後のお水を飲んでいると、ローズマリーが隣に座った。お母様とお兄様はお買い物に行っているので、家の中にはローズマリーと二人。
「そうね。奥様を連れて来られたときは驚いたけれど、正直すごく助かったわ」
おじいさんの奥様、おばあさんは昼食の残りの硬いパンを見て、あらあら、と困ったように笑った後、硬くなった原因をいくつもあげて教えてくれたそうだ。おかげで夕食は柔らかいパンを食べることができる。更にスープの作り方も教えてくださったそうで、鍋からは美味しそうな香りがしている。
「ああ、そうそう、わたくし髪を短くしたいの。ローズマリー、切ってもらえないかしら?」
畑仕事をするのにもお料理をするのにも邪魔な髪。貴族の女性は長い髪が当たり前で、短い人がいなかったので切るという発想もなかったのだけど、町を歩いていると髪の短い女性も少なくはなかった。
切ったらきっと楽になるわ、と思ったのだけど、ローズマリーは目を大きく見開いてわたくしを見た。
「か、髪を切る……?」
信じられない、と言わんばかりのその顔はわたくしを責めているようにも見え、こちらも面食らった。
「そんなに驚かなくてもいいじゃない。ここでの生活には綺麗な服も長い髪も必要ないわ」
「それは……! ……そうかもしれませんけど」
沈んだ表情で俯くローズマリーはどうやらわたくしが髪を切ることに反対なようだ。どうしてかは分からないけど、こんな落ち込むくらいなら切らずにいてあげたい気もする。
……でもやっぱり邪魔になるもの。
「ごめんなさいね、お兄様にお願いするから気にしないで」
髪はいつかまた伸びる。生活に余裕ができたらまた伸ばせばいい。
ローズマリーは顔を上げて、何か言いたそうにわたくしを見たが、開いた口から言葉が出ることはなかった。




