8. 誰も料理をしたことがないのは想定外だったわ
3日後に王都を出た。馬車一台にお母様とローズマリーと3人。御者台にお兄様。荷物はそこに積めるわずかなものだけ。うちに仕えていた侍従も侍女も騎士も料理人も使用人も、皆十分な金額を払って引き取ってもらったし、屋敷は親戚に譲った。爵位も返上して、わたくしたちは貴族の身分ではなくなった。厳密に言うとローズマリーだけがまだ貴族だけれど。
馬車で数日。わたくしたちは国境の町に到着した。
森を背に展開する町はそう小さくはなく、だけど大きくもなく、ちょうどいい規模だった。これからここで穏やかな生活をするのだと思うと心が躍る。
馬車を降り、町の人達の不審げな視線を浴びながら大きく息を吸った。澄んだ空気が肺に流れ込み、清々しい気分だ。
「お母様、おうちは手配してあるの?」
「いいえ、これから探しましょう。4人で住めて、畑もあって、本がたくさん置けるような家がいいわね」
平民の服に身を包んだお母様は、公爵夫人であった時と同じくらいの品を兼ね備えている。馬に水をあげているお兄様も粗末な服を着ていると言うのにどうも目を引く。高い身長か、整った顔立ちか、それとも内から滲み出る気品か……。
「……浮いているわね」
思わずそう呟いた。おかしい。平民の服を着たら馴染めると思ったのに。もう爵位も返上したと言うのに。
予定と違うわ、とお母様とお兄様を見て首を捻ると、お姉様もですよ、と声が聞こえた。
「お姉様も浮いてます。とてもではありませんが、元公爵家の方々がこんな小さな町に馴染めるわけがありません」
そう言うローズマリーも馴染んでいない。
「……馬車の中でも思ったけれど、あなたはそんな服でも可愛らしいのね」
「それはこちらの台詞です。お姉様こそ、服では誤魔化せないほどのお美しさです」
馬車の旅の中でローズマリーはわたくしを「お姉様」と呼ぶようになった。平民に混ざって生活するのに「ヘルミーナ様」と呼ぶのはおかしいから、と。「お姉様」もおかしいと思うけれど。
こうしている今も町の人達の視線は絶えない。お母様も「おかしいわね」と呟く。
「とりあえずこの町の代表の方にご挨拶に行きましょう」
そう言ってお母様は周りの視線を全く気にせずにスタスタと町の奥へと向かった。
「……頼りになるお母様ですね」
「そうでしょう?」
誇らしい気持ちを隠さずにローズマリーに笑いかけた。
家が決まった。町の外れにあるそこそこ大きな家。そこを現金一括で購入した。これで持っていたお金の大半はなくなったけれど、畑はついているし、前に住んでいた人の家具もそのまま残っている。ベッドは足りないけれどとりあえず布団は買い足した。
もう必要のない馬車は売って、そのお金で生活用品や畑に撒くタネ、鍬などの道具も買った。
「……順調ね」
蝋燭に照らされた薄暗い部屋の中で呟くと、それ本気で言ってます? と呆れたような声があった。
「そうね、誰も料理をしたことがないのは想定外だったわ」
ほとんど味はなく、煮過ぎてくたくたな野菜スープを食べながら答えると、ローズマリーは項垂れた。
「そうじゃありません。……本気でこんな生活をする気ですか? 公爵が、公爵夫人が、公爵令嬢が、ほんっきでこんな生活をする気ですか!?」
ダン、とテーブルに拳を振り下ろすローズマリー。心の底から出たような声だった。
ははは、とお兄様が笑う。
「もう公爵じゃないよ。ここにいるのは身分をなくした者だけだ。ああ、君はまだ貴族の身分だったね。かしずこうか?」
冗談っぽく笑うお兄様に、ローズマリーは心底嫌そうな表情で、やめてください、と小さな声で返す。
「わたくしの育てた子達はこんなことで心が折れるほど弱くなくてよ。つまらないことを言っていないで楽しみましょう。お金に余裕ができたら物語をたくさん買いましょうね。ここは国境の近くだから隣国の物語も手に入るかもしれないわ」
お母様は弾んだ声で言った。楽しそうでなによりだわ、と思う。ローズマリーはわざとらしく深いため息をついた。
「それで? 明日は何をするんですか? 畑でも耕しますか?」
「そうね、まずは食べることを優先して整えましょう」
生活を、命を繋ぐことが最優先。娯楽はその次。だけどきっと畑を耕すのだって楽しいわ。
お兄様がふっと笑う。
「逞しい妹が一人増えたようだよ」
「残念ですが、お兄様、なんて図々しく呼ぶことはできませんわ」
「ヘルミーナの婚約者を奪ったんだ。それ以上に図々しいことなんてないだろう?」
さらっと言われた言葉にローズマリーは固まった。こくりとその喉が上下するのが見える。お兄様がその件に関して口にするのは初めてだった。
落ちた沈黙の中、カタカタと扉が揺れる音がした。薄い木の板の向こうには木々のざわめきが聞こえる。
ふっと笑う声がして、空気が急激に緩んだ。
「テオドール、仲良くなさい。ヘルミーナの復讐はもう終わったのよ」
「ええ、すみません。ちょっとした冗談です。どうも彼女が僕達に遠慮しているようでしたから」
ローズマリーが静かに息を吐くのが分かった。
お兄様はその件に関して特別に何か思っているわけではない。それはお母様も同じ。冗談にしてはなかなかに鋭い切り口だったけれど。
「すまないね、ローズマリー。冗談が過ぎたよ」
「……いえ」
ローズマリーはゆっくりと視線を伏せた。これはきっと勘違いをしているわ。
「ローズマリー、お兄様のは本当に冗談よ。わたくし達は誰もあなたに対して悪い感情はないわ」
怪訝そうな目がわたくしを見た。
味のないスープが口に広がる。明日はもっと塩を入れてみようかしら。
「うちの、というか、お母様の教えなの。『欲しいものは奪え』。だからライナー様を奪ったあなたに対して怒ることはないわ。わたくしは、わたくしという存在がありながら、他の女にうつつを抜かしたライナー様自身に対して怒っているだけなの」
「……ちょっと、よく分かりません」
困惑を顔に浮かべてローズマリーがわたくしとお兄様とお母様を順番に見る。2人は同意するように頷いた。
「だから、この件で問題があるのはあなたではなくライナー様の方なの。あの方にその気がなければ浮気なんてできないもの」
お兄様の冗談は分かりにくいのよ、と文句を言うと、お兄様はすまない、と笑う。
「言ったでしょう? あなたに恨みはないの。そもそもあなたに思うところがあるなら、あなたは今ライナー様の隣で悪夢を見ているでしょうね」
ふふ、と笑いがこぼれた。ローズマリーがこわ、と呟く。
「今頃お城はどうなっているかしら」
お兄様に視線を向ける。お兄様は空になったお皿を端へ避けて口を開いた。
「第一王子派だった貴族の8割が登城拒否。先を読める貴族は第二王子派へ流れ、それに付随して中級、下級貴族も動く。ライナー殿下が玉座に座る未来は確実にないだろうね」
「だけど王が黙っているかしら?」
お母様が水を飲みながらお兄様を見た。
「王にそのような余裕はありません。ヘルミーナが隣国の使者に王の不正の証拠を渡しておりましたから。そちらへの対処で精一杯でしょう」
「ついでに王がうまく隠していた女性関係も各所にばら撒いてきたわ。侯爵夫人を始めとして既婚者の女性が大半だったから、そう簡単に火は消えないでしょうね」
本当はライナー様だけを標的にしていたのだけど、王がライナー様の肩を持つのだから仕方がない。これまで聖女としてもわたくしとしても散々尽くしてきたと言うのに。
「あらあら、さすがわたくしの娘。抜かりはないわね」
お母様が満足そうに笑う。わたくしもにっこりと笑う。あれは楽しくて仕方がなかった。
「ええ、殺さない程度に首を絞めるのはわたくしの得意分野ですもの」
王を廃位にするのも、ライナー様を王族から除籍させるのも、そこまでしてしまってはつまらない。王族としての立場を残して、そのプライドをへし折るのがわたくしのやり方。
ははは、とお兄様が笑う。3人で笑う中、ローズマリーは顔を引き攣らせていた。




