7.それが恋に落ちたきっかけかしら
ところで、とローズマリーはわたくしを見た。
「まだ聞いていませんよ。ヘルミーナ様があのクズ王子を好きだった理由を」
ふわふわの髪。可愛らしい顔立ち。微かに赤い目元。とある小動物を想起させる。と、同時にローズマリーの言葉で可愛くない別の生き物も思い出した。
すっかり冷めてしまった今でも覚えている。あの日、ライナー様に初めて会った日のこと。ライナー様を好きになった日のこと。
そうね、とお茶を一口飲む。入れたばかりで湯気を立てるそれを飲み込むと、じんわりと胸の辺りが温かくなった。
初めてライナー様に会ったのは、7歳の時、お城の裏の庭だった。
お父様がお城に入ってもう随分と経つ。花を見ていたらすぐだよ、とおっしゃったのに、飽きるほど眺めたと言うのに、お父様はまだ戻ってこない。
わたくしはすっかり暇を持て余していた。
お父様と一緒に行っても暇だと思ったからここに残ったけれど、やっぱり一緒に行けばよかったわ、と思った時だった。視界の端で何かが動いた。
青々とした草の上。お城の壁際に細長い何かがうごめいている。
あまり近付かないように目を凝らすと、それが何か分かった。
「蛇……」
見つけたら近付いてはいけないとお兄様が言っていた。噛まれたら大変だから、と。
近付かないわ。興味もないもの。
興味はない。近付くつもりもない。だけど暇で、それを見つめていた。
「欲しいのか?」
不意に背後から聞こえた声。振り返るよりも先にその人はわたくしの横をすり抜け、真っ直ぐに蛇に向かって行った。
わたくしよりも少し高い身長。一目見ただけで分かる上等な服。目の前にいる男の子が第一王子だとすぐに分かった。
王子は迷う素振りを一切見せず、蛇の前で足を止めると素早く手を伸ばした。その手は蛇が動くよりも先に頭を抑え、蛇は抵抗虚しく持ち上げられる。
目に映る光景が理解できなかった。
王子が蛇を素手で捕まえた。片手は頭、片手は尻尾を持つその手つきは慣れているように見える。
「ほら、捕まえてやったぞ」
王子はわたくしの前で足を止め、蛇を差し出した。遠目で見るよりもずっと太く長い蛇。
ハッとした。
「あ、ありがとう存じます……」
王子の手の中で細かな鱗がよく見える。本で見たままだわ、と思いながら反射的に受け取ろうと手を伸ばした。
握った蛇の体はひんやりとしていて、サラサラとしていて、思った感触と違った。何事も経験だわ、と思う。
「おい、そこじゃない。そこを持つと噛まれるぞ。頭だ。俺の手のところを持て」
「は、はい」
王子の手に重ねるように蛇を握る。それを確認して王子は手を引いた。両手に握ったそれを呆然と見下ろすことしかできなかった。
ふっと笑う気配がして顔を上げると、王子がわたくしを見て笑っていた。
「お前、蛇が似合わないな」
はい、とも、はあ、ともつかない返事が口から出た。王子は可笑しそうに笑い、じゃあな、と歩いて行った。
一人残され、手に持った蛇をもう一度見る。
「……蛇、もらっちゃったわ」
そんな言葉しか出なかった。
「……と、まあそれが恋に落ちたきっかけかしら」
そう締めくくると、ローズマリーは俯いて肩を震わせていた。
「へ、へび……っ、へびって……意味分からないんですけど……」
震える声でそう言われ、わたくしもよく分からないわ、と返した。
「恋なんて理屈じゃないのよ。きっともらったものが花とか可愛らしい小動物だったら恋になんて落ちなかったでしょうね」
「蛇をもらった方が恋には落ちないと思いますけど……」
口元を手で隠したローズマリーの肩は震えている。笑いを堪えているのは一目瞭然。そこまで笑われることかしら、と思うけれど、自分でも本当に訳が分からないので何も言えなかった。
「……クズでクソでおバカなライナー様だけれど、あれでもいいところはあったのよ」
「ふっ……例えば?」
「歌がうまいところ、かしら」
機嫌がいい時の鼻歌を聞くのは結構好きだった。
「う、歌……蛇……」
ローズマリーは抑えきれずに吹き出した。お腹を抱えて笑うローズマリーを見ながらお茶を飲む。
「ライナー様をあんな風にしてしまった責任はきっとわたくしにもあるのよ」
本当に反省している。ここにきて、今更。ローズマリーが笑いながらも先を促すようにわたくしを見た。
「ライナー様にできないことはわたくしがやればいいと思っていたの。だから……」
厳しく言ってこなかった。多分周りの人たちも同じように思っていたから、誰もライナー様を咎めなかった。勉強から逃げ出していたことも、あのわがままな性格もそのままに。
今、蛇がいたらライナー様はわたくしの為に捕まえてくれるのかしら、なんて思う。
何言っているんですか、とからっとした声が言った。
「やる気がないのも性格がアレなのもヘルミーナ様の責任じゃありませんよ。浮気するような男に育ったのは本人の素質です。ヘルミーナ様があの性格をまともにしようしていたら浮気が早まっていただけですから、気にするだけ無駄です」
「それは、そうかもしれないわね……」
「仮にヘルミーナ様に責任があったとして、復讐をやめるのですか?」
その問いには考える前に言葉が出た。
「まさか」
それはそれ。仕事ができないのはわたくしのせいかもしれない。わがままなのもわたくしのせいかもしれない。でも浮気をするような殿方にしたのはわたくしではない。……と思う。
「わたくしの愛を踏みにじった代償は大きいのよ」
ですよね、とローズマリーは可笑しそうに笑いながら言った。
「ところで、その時の蛇はどうしたんですか? まさかこの家で飼っているなんて言いませんよね?」
「その後すぐに戻って来られたお父様が血相変えて退治されていたわ。ライナー様にいただいたなんて言う暇もなかったわ」
「それは残念でしたね」
「いえ、別に。暇だから眺めていただけで、わたくしは蛇が欲しいなんて思っていなかったもの」
ああ、懐かしいな。忘れていたわけではないけれど、こうして話していたら色々思い出してきた。そうそう、その日のお城の帰りに寄った神殿でわたくしが聖女になったのよね。
恋に落ちたわたくしはライナー様との縁を神にお願いした。というよりあれは脅迫に近かった。ライナー様との縁を結んでくれないと、空の上だろうが地の果てだろうが探し出して寝首を掻いてやる、とかそんな感じのことを口にした。
我ながら豪胆だ。だけどそんなわたくしを気に入って神は祝福をくれた。そして聖女となったわたくしは望み通りライナー様の婚約者の座に収まった。
あの日からもう13年。今ではこんなことになってしまったけれど悪くない日々だった。
「随分と話が逸れてしまったわね。ローズマリー、そろそろあなたのお返事を聞いてもよろしいかしら?」
ずるいわね、と思う。わたくしがローズマリーに提示している選択肢は二つだけ。ライナー様との未来か、わたくしとの平民の生活。……まあ、実質一択なのだけどね。
ローズマリーは笑みを消して深いため息をついた。
「私、お金は欲しいけど、沈む船に乗る気はありません」
「ええ」
「だけど、結婚に関しては少し待ってもらえると嬉しいです」
「ええ、それは別に構わないわ。王都を出たあなたを追うほどの気概はライナー様は持ち合わせてないでしょうし。そもそもお兄様のご意志も確認してないもの」
「は?」
間の抜けた声に笑みを返す。ローズマリーとお兄様の結婚に関しては完全に思いつきだった。それが一番早いなと思っただけでその点だけで見ると打つ手はいくらでもある。
それにお兄様は1年前に亡くなったお義姉様を今でも愛してられるから。
「ごめんなさいね、気にしないでちょうだい」
ローズマリーは苦々しい笑みを浮かべてお菓子に手を伸ばした。
「これからあなたには王都を出る準備をしてもらうわ。できるならご両親に説明を。できないなら仕方がないわ。3日後まで家にいることで不都合が生じるならうちにいてもらっても構わないわ」
「両親は大丈夫だと思います。私とライナー様の関係を聞いて激怒していましたから。どうも、クズ王子のことは好きじゃないみたいで」
それならよかったわ、と返事をして、3日後までにするべきことを考える。ローズマリーをこちらへ落としたことで復讐はほとんど終えている。
「あとは……ルーカス殿下の強い後ろ盾が必要ね。いくつか書状を送りましょう」
わたくしの呟きにローズマリーは眉をひそめた。
「それってヘルミーナ様が平民になった後も継続するんですか?」
つまり、公爵家の人間でなくなったわたくしのお願いなど反故にされるのでは、という意味ね。それはわたくしも考えた。でも問題はない。
「知っているでしょう? フォルスター公爵家は人望が厚いのよ。お母様もお兄様もわたくしも、身分は関係なく信頼を寄せてくださる方々がいらっしゃるの」
「どこぞの王子様とは正反対ですね」
ローズマリーは可笑しそうにそう笑った。
野菜の育て方の本を一緒に読んだり、ライナー様の悪口で盛り上がったりした後、わたくしはローズマリーにお母様の物語コレクションを紹介した。天井まである大きな本棚をいくつも埋めている本。全て平民の物語。
それを見たローズマリーの表情はわたくしが見た中で一番輝いていた。




