3. 愛が深いほど、恨みも深いものでしてよ
朝一番に訪れた神殿。何度来ても落ち着かないほど白く、清らかな空気の中、いつものように最奥の間に入ろうとしたところを、若い神官に止められた。
数日に一度訪れるわたくしは神官達とも顔馴染みで、これまで止められたことなんて一度もない。驚きのあまり言葉を失った。
「最奥の間に入ることができるのは聖女様のみでございます」
「え、えぇ……」
何を今更、と言いたくなる言葉に無駄な瞬きを何度もしてしまった。
「ヘルミーナ様は殿下とのご婚約を解消されたとお聞きしました」
「ええ……」
厳密に言うと婚約の解消はまだ行われてはいないけれど、もうほぼ解消されたと言っても過言ではない。先ほどと同じ言葉で肯定する。
若い神官は、穏やかな口調できっぱりと言った。
「聖女でなくなったヘルミーナ様は最奥の間に入る資格はございません」
つまり、王子であるライナー様との婚約を解消したらわたくしは聖女ではなくなる、と……。
そんなわけがないでしょう。
喉まで出かかった言葉を飲み込み、引き攣る頬で笑みを浮かべる。
「神殿長を呼んでもらえるかしら?」
そう言いながら、念の為に右手の甲を見る。祝福の紋は確かにそこにあった。
出てきた神殿長はわたくしと、その道を塞ぐように立つ若い神官を見て目を丸くした。
「これは……どういった状況ですか?」
穏やかな、柔らかな声が戸惑ったように揺れていた。
その声を聞いた途端、神殿内にいた神官の視線が神殿長へと向く。そして、皆がほぼ同時に感嘆の息を漏らした。
神殿長。当時はまだ神官だったけれど、13年前にわたくしを聖女と認めてくださった方。30を過ぎたと言うのに初めて会った時から全く変わらず美しく、会うたびに目を奪われる。男性も女性も魅了してしまうこの方が殿方で良かったと言うべきか、殿方だからこその魅力があると言うべきか。
更に、外見だけでなく内面まで美しいのだからどうしようもない。穏やかで慈悲深いその心は神に仕えるのに相応しく、若くで神殿長にまでなった理由が分かる。
「ごきげんよう、神殿長。最奥の間に入ろうとしたところ、この方に止められて困っておりますの」
おや、と神殿長は若い神官を見る。若い神官は神殿長の視線を受けて頬を赤くして、目を逸らした。
「さ、最奥の間に入ることができるのは聖女様のみです。婚約が解消された今、ヘルミーナ様にその資格は、ご、ございません」
先ほどと同じ言葉。だけどその声は明らかに震えていた。公爵家のわたくしにあれだけきっぱりと言い切ったというのに、神殿長を前にすると緊張するのね、と思う。気持ちは分からなくもないけれど。
神殿長の視線がわたくしの手へと向く。見えやすいように右手を胸の辺りまで上げると、神殿長はゆっくりと頷いた。
「ヘルミーナ様には祝福の紋が確かにあります。王族との婚約と聖女であることはなんの関係もありません。順番を間違えてはなりませんよ」
ゆったりとした空気の中に柔らかな声だけが響く。誰もが息をするのも許されないといった表情で聞き入っているのが分かる。
ここは神を崇める場所だと言うのに、神官達は皆神殿長を崇めているのでは、と来るたびに思う。
すっかり神殿長に魅入った様子の神官達を、神殿長は困ったように見た。そして、その微笑みはわたくしへ向く。
「申し訳ありません、ヘルミーナ様。どうぞ、こちらへ」
「ありがとう存じます」
神殿長に案内されて最奥の間へと向かう。いつもよりもゆっくりと歩くと、時間がゆっくり流れているような気がした。
「お噂を耳にしました」
歩きながら神殿長はそう言った。
「心底落胆されたことでしょう」
短い言葉。だけどその言葉に神殿長の気持ちが全て詰まっていることが分かった。馬鹿にするでもなく、同情するでもなく、ただわたくしの痛みに寄り添ってくれる方。これまで何度その優しさに救われたことか。
「……わたくし、神殿長に恋をするべきだったのかもしれません」
大丈夫です、と言う代わりにそう呟いた。神殿長は驚いたようにわたくしを見下ろし、ふふっと笑った。
「私は神に仕える身です。婚姻はできませんよ」
「ええ、存じ上げておりますわ。誰にも心を寄せることのない神殿長でしたら、わたくしがこのような怒りに燃えることもなかったのでは、と少し考えただけです」
そうですね、と神殿長は微笑み、足を止めた。最奥の間の扉が神殿長の手によって開かれる。
「どうか、殿下の行いが神の怒りに触れていなければよろしいのですが……」
ええ、と頷いて中に入る。背後で扉が閉まる音がするのと、声が聞こえたのは同時だった。
「怒りに触れてないわけがなかろう」
瞬きをした瞬間、神殿長に負けず劣らず美しい姿が目の前に現れる。人の姿をとっていると言うのにまるで光をまとったよう。『神々しい』を体現するときっとこうなる。神なのだから当たり前だけど。
「なんだあの小僧は。わしを馬鹿にしておるのか?」
「いいえ、ご存知でしょう? 何も考えておられないのです」
祝福の紋が見えないからお前は偽物の聖女だ、とは、よくもまあ神と聖女に支えられて発展してきたこの国の王族が言えたものだな、と思う。
神は苦々しい表情でわたくしを見た。
「……何故お主はあんな男に心を寄せたのだ? 全く理解ができぬ」
「あんな男でもいいところはございますのよ。それももう今となればどうでもいいのですが」
冷静に振り返ると自分でもよくあんな人を好きになったな、と思う。なんなら婚約破棄を突きつけられる前から薄々思っていた。でも仕方がない。恋なんて道理ではないのだから。
「それよりも、治癒の魔法についてお聞きしたいのですが」
「あれは単に珍しいだけで神の魔法などではない。そもそも神の魔法と呼ばれるものは神しか使えぬから神の魔法なのだ。聖女にすら使えぬものがそこらの人間に使えてたまるか」
ですよね、と相槌を打ちながらも内心はほっとしていた。ローズマリーが本当に『神の魔法』を使う場合、ライナー様にもほんの少しとは言え正当性ができてしまうから。
万に一つの可能性もないとは思っていたけれど。
「ならばわたくしは本物の聖女で間違いありませんよね?」
「聖女だからわしと話ができるのであろう。聖女でない者がここに入って無事でなどいられぬ」
それだけ確認できれば問題はない。あとは胸を張ってやり切るだけ。ありがとうございます、とお礼を述べると神は眉をひそめてわたくしを見た。
「お主、あの男はわしに任せる気はないか? 神罰を落として不幸に見舞われる人生にしてやるぞ」
「まさか。復讐とは自分の手で遂げるものですわ。神罰などに頼る気はございません」
そんなことしたら不完全燃焼で気持ちが悪いじゃない。
神はくつくつと笑う。
「愛した男であろう?」
「あら、神はご存じありませんの? 愛が深ければ深いほど、恨みも深いものでしてよ」
笑みを浮かべてそう言うと、神も可笑しそうに笑った。
「さすが、わしの選んだ娘じゃ。何か手が必要な時はいつでも言え。わしが特大の神罰を落としてやるからな」
「ええ、感謝いたします」
神は満足そうに笑んだ。
少しの間他愛のない話をして、去り際に神は言った。
「王に伝えよ。お主の次の聖女はない、と」
和気あいあいとした雰囲気から一変、神は鋭い目をしていた。ひゅっと喉がなる。わたくしが思っていた以上に神は怒ってられる。
「は……」
返事をする前に神は姿を消した。まずいことになった。
聖女とは神が選んで祝福を与えた者。聖女になったからと言って特別なことなどない。ただ、神と話をすることができるのみ。
古来より聖女は神の言葉を伝える役目を担ってきた。天災、人災、魔獣の暴走など、大きな災害を神が予期し、聖女がそれを王族に伝えることで対策を打ち、国は大きな被害を避けながら発展した。
聖女がいなくなれば神の予言は人間に伝わることはなく、これから起こることを先に知ることはできない。
深く呼吸をして扉に手をかける。ずっと待っていたのか、神殿長の姿がそこにあった。
「おや、顔色が良くありませんね。何か良くないことでも?」
「……神は怒っておられます。わたくしの後の聖女はもうない、と」
神殿長は微かに目を見開いたが、すぐに微笑みに変わった。そうですか、と穏やかな声が少し困ったように言った。




