11. どうしてここに殿下がいらっしゃるのですか!
なんだかんだあって、わたくしたちはそれなりに町へ馴染むことができた。その大半はおじいさんの口利きのおかげで。
畑にタネを撒いて、芽が出た頃のことだった。焼きたての香ばしいパンが焼き上がった時、控えめなノックの音が家の中に響いた。
「失礼致します。こちらにフォルスター家の方々がいらっしゃるとお聞きしました」
パンを取り出すお兄様の手が、お皿を出していてお母様の手が、スープをよそっていたローズマリーの手が止まり、畑の話をしていたわたくしとおじいさんも口を閉じた。
お兄様と目を合わせる。この町にわたくし達の名字を知る人はいないはず。王都からのお客様だとしたら、ライナー様や王に派手に喧嘩を売った身としては迂闊に出ることはできない。
再びノックの音。
「どなたかご在宅でしょうか?」
「どなたですか?」
お兄様がミトンを外して硬い声で答える。申し遅れました、と扉の向こうから聞こえた。
んん? なんだか聞き覚えがあるような……
「ルーカスと申します」
と、聞こえた瞬間、驚きで頭が真っ白になったが体は動いていた。勢いよく扉を開けると、そこには確かにあのルーカス殿下が立っていた。
後ろでお兄様とローズマリーが息を呑む気配があった。
「で、殿下! どうしてこんなところへ……!」
殿下の後ろには馬が一頭いるだけで騎士の姿すらもない。ルーカス殿下の浮かべかけた笑みがピシリと固まった。
「ヘ、ヘルミーナ様、その、髪、は……」
わたくしを見るその目は瞬きを一度もせず、逸らされることもない。今驚いているのはこちらなのだけど、と思ったけれど殿下の質問に答えないわけにもいかず、切りました、と短く答えた。
「そんなことどうでもいいです。どうしてここに殿下がいらっしゃるのですか!」
「どうしてって、あなた方に王都へお戻り頂くために来ました」
どうかお戻りください、と深々と頭を下げる殿下に言葉を失った。お兄様がわたくしの肩を引くように前に出る。後ろへ下がると、ローズマリーが、本物じゃん、と呟きながらわたくしの隣に立った。
偽物であって欲しかった、と思う。
「まずは礼を欠くこと、お許しいただけますか?」
お兄様の声には明らかな動揺が混ざっていた。殿下はそれに無言で頷く。
「殿下もご存知でしょうが、私は爵位を返上いたしました。私達にはもう戻る家も身分もございません」
「いえ、それは、」
口を開いたルーカス殿下は何故かわたくしをチラリと見て、その表情が固まった。
「な、何故彼女がここへ……」
視線はわたくしの横のローズマリーへ。もしかしてローズマリーが一緒にいることを知らなかったのかしら。
「王都にいらっしゃらないことは知っていましたが、まさかあなた方と共に……?」
明らかに狼狽えた様子の殿下にお兄様は、隠していたわけではありませんが、と微笑む。
その時、テオドール、と呼ぶ声があった。
「長くなるようなら入って頂きなさい」
「しかし母上、このような場所に殿下を」
テオドール、と鋭い声が咎めるように呼ぶ。
随分と動揺されているようね。お兄様にしては珍しい失言だわ。
「あなたの言う『このような場所』が民の家なのよ」
お兄様はハッとした様子で口を閉じる。
「殿下がこの国を負って立たれる方なら、どんな場所だろうと知る必要があるわ」
「おっしゃる通りです、フォルスター夫人。もしご迷惑でなければお邪魔してもよろしいでしょうか?」
あらまあ、ライナー様だったらきっと鼻で笑っていたわ。「そのようなことこの俺が知る必要はない」と。
ローズマリーが唇を尖らせる。何を考えているのかすぐに分かった。
「残念だったわね。釣れたのがライナー様で」
そう言うと、ローズマリーは面食らったようにわたくしを見て、別に、と不満そうに顔を逸らす。ふふ、と笑いがこぼれた。
「わしは今日は帰る。心配せずとも畑は順調じゃ」
「おじいさん、申し訳ありません。このことは内密にお願いできますか?」
「ああ、気にするな。誰にも言わん」
それだけ言うと、おじいさんはルーカス殿下と代わるように出て行った。畑を見ていただいたのにお昼もご馳走できないなんて申し訳ないことをしてしまった。
お兄様が外に出て行く。馬を木に繋ぎ、水をあげるのだろう。物珍しそうに家の中を見回すルーカス殿下は、わたくしの視線に気が付いてきまり悪そうに、微かな笑みを浮かべた。
「申し訳ありません、貴族のものじゃない建物に入ったのは初めてで……」
「ええ、わたくしもそうでした。最初は色々と不都合がありましたが、慣れたら結構快適ですのよ」
住めば都という言葉をこんなに強く実感したのは初めてだった。装飾も柄もないコップにお茶を入れて出す。ルーカス殿下は嫌な顔ひとつせずに、粗末な椅子に座り、それに口をつけた。
どうしてこんなにもライナー様と違うのかしら。
「あの……」
ライナー様は今どうなっているのか、聞こうとして迷った。それを聞いて笑わない自信がない。いくらなんでも殿下の前で高笑いするわけにはいかない。
なんて思っていると、殿下はふっと笑った。
「兄上と父上のことですよね。お二人はカンカンに怒ってられました。ですがお二人の肩を持つ者が少なく、何もすることはできません。兄上にいたってはほとんど部屋から出てこなくなってしまいました」
ざまあみろ。
喉まで出た言葉と笑いを噛み殺す。だめよ、殿下の前なのだから。
歯を食いしばって我慢していると、お兄様が戻って来た。皆で一つのテーブルを囲って座る。
「兄上がヘルミーナ様を追放する、と宣言された日から、僕はどうにかそれを止めようと奮闘しました」
口を開いたのはルーカス殿下だった。表情が疲れているように見えるのは、家の中が少し暗いからだろうか。
「そんな折、フォルスター公爵が爵位を返上したと耳にし、父上や兄上の耳に入る前に揉み消そうと奔走し、フォルスターの屋敷や解雇された方々を呼び戻し、」
「お待ちください、それは……」
ルーカス殿下の言葉を遮ってお兄様が身を乗り出す。お兄様が止めていなかったら多分わたくしが止めていたと思う。
殿下は、ええ、と微笑んだ。
「あなたはまだフォルスター公爵で、王都へ戻れば帰る家もあります」
「な……」
言葉が出なかった。どうしてわざわざ殿下がそんなことを、という気持ちが強い。お母様も珍しく驚いた様子でルーカス殿下を見ている。
「ヘルミーナ様が色々と派手にされてられたので、ここへ来るのが遅くなってしまいました。皆様、どうか僕と一緒に王都はお戻りください」
無理でしょ、と喉まで出かかった。身分があろうと家があろうと、わたくしが喧嘩を売ったのは王と王子。のこのこ王都に戻って平和な生活ができるわけがない。
「殿下、申し訳ありませんが王都へは戻りません。もし望むならローズマリーだけ連れて帰ってあげてくださいませ」
嫌ですよ、とすぐに返事があった。ただし言ったのはルーカス殿下ではなくローズマリーの方。
「私ライナー様との結婚なんて絶対に嫌ですもん。それにお姉様とのこの生活は結構気に入っているので」
「お金はないけれどね」
わたくしの言葉にローズマリーはふっと笑った。半ば無理やり連れてくるような形になってしまったから少し気になっていたけれど、それならよかった。
「え……? あなたは兄上と恋仲だったのでは? そもそもどうして彼女がヘルミーナ様とご一緒に?」
戸惑いに眉を寄せた殿下はローズマリーとわたくしを交互に見る。普通に考えて1人の男を取り合った、とまでは言わないけれど、第三者から見てライバル関係のわたくしとローズマリーが一緒にいることはおかしいとは思う。
以前ローズマリーに言った言葉をもう一度言った。
「経緯がどうであれ、浮気をしたのはライナー様。悪いのはライナー様です。ローズマリーがどれほど望んだとて、ライナー様にその気がなければあの結果にはならなかったのですから」
なるほど、とルーカス殿下は微妙な表情で首を傾げる。ローズマリーがふっと鼻で笑った。
「伯爵家の私が王子様に言われて断れるわけがないでしょう? 誰があんな馬鹿王子と恋仲になりたいなんて思いますか。あんな男を好きなのは、国中探してもお姉様だけですよ」
「ちょっと、昔の話じゃない。今はもう好きじゃないわ、あんなクズ男」
ヘルミーナ、とお兄様の困ったような声が聞こえ、口を押さえた。
「……っと、申し訳ありません、つい口が……」
いけない、今はルーカス殿下がいるのだったわ。殿下は目を大きく開いて固まっている。平民生活で気が緩んでいたせいか、被っていた猫が剥がれているようだ。
「聞かなかったことにしてくださいませ」
そう笑みを浮かべると、殿下はハッとして慌てた様子で、いえ、と首を振った。
「あの、ヘルミーナ様、戻らない理由をお聞きしても?」
戻らない理由と言われても……。
「芽が出たのです」
「は?」
「お兄様が耕し、わたくしも一緒にタネを撒いた畑に、芽が出たのです。大きくなったら野菜ができるのですよ」
「野菜、ですか……」
「ええ、野菜です。わたくしはこの手で育てた野菜を食べてみたい。だから、戻りません」
それは、と殿下は視線を彷徨わせた。お兄様が苦笑しているのが見える。お母様は何を考えているのか、笑みを浮かべているだけ。
「せっかく来て頂きましたが、王都へはお一人でお戻りくださいませ」
ルーカス殿下は慌ただしく視線をあちこちへ向ける。何事かを必死に考えているのが分かる。考えたって無駄なのに。
分かりました、と、ものすごく重い声で殿下は言った。
「父上と兄上を追放いたします」
一大決心を固めた表情。ローズマリーが隣でふっと笑った。わたくしは笑うよりも正気かしら、と思った。
「フォレスター家の方々のお怒りはもっともです。僕がお二人を追放します。その時は王都へ戻っていただけますか?」
どうも、野菜は口実だと思われたようだ。お兄様が小さなため息をつき、困ったように笑った。
できるわけがない、と殿下以外の皆が思っている。わたくしも例外ではない。王と第一王子を追放など。
論外。
「分かりました。もしもそのような未来がきたら考えるくらいはいたしましょう」
どうせできないし。
「どうせできないですしね」
心の中で止めた言葉をローズマリーが口に出した。しかしルーカス殿下はそれに関して何も言わずに立ち上がる。
「もう少しゆっくりしたいところではありますが、僕は急ぎ王都へ戻らなければなりません」
はっとした。
「では、本日はここで失礼します」
「お待ちください、大したものはありませんが食事くらい……」
家を出て行こうとするルーカス殿下をお兄様が追いかける。家から出て行く2人をただ見つめた。
「お姉様? どうしましたか?」
「……厳しいお顔だったわ」
優しくて穏やかな方。だけどあの一瞬、鋭い目をしていた。そこに見えたのは強い意志と、疲労。
そうでしょうね、とお母様が立ち上がった。焼き上がったパンを切り、いくつかを綺麗な布に包む。
「あなたが引き受けていた第一王子の仕事も、あなたの下で働いていた貴族の仕事も、全てをあの殿下の下でやっているのよ。もしかしたら王のところも機能していないかもしれないわね」
「え……?」
ライナー様の仕事を? わたくしがやっていた仕事を、ルーカス殿下が1人で?
「考えなかったの? あなたの復讐で本当に困るのは誰か。まさかあの第一王子が真面目に仕事をするようになるとでも思ったの?」
その言葉で頭が真っ白になった。
思っていた。ライナー様はあれでも王子なのだから、誰も仕事をしてくれない状況になったらするものだと思っていた。
「だけど気にする必要はないわよ。あなたとの婚約が破棄された時点でこうなるのは時間の問題だったから。それにしてもあの方、よくこんなところまで来る余裕があったわね」
お母様はそう言いながら、包んだパンをローズマリーへと渡す。
「これあの方へお渡ししてもらえるかしら?」
わたくしはローズマリーが出て行くのを、呆然と見ることしかできなかった。




