第66話 嫉妬は、星のない夜に溶けて。僕らに、もしもなんてない。(後半)
――ありえない話ではない。
中央から来た、聖騎士と祓魔女。
僕はそんな二人に不信感を抱いていたし、領民だってそうだった。
もし、なにかが、ほんの少しでも違っていたら……領地の平穏を乱す二人を、始末しただろう。
ああ、そうだ。魔物に食われたことにでも、すればいい。
正面から勝てずとも、僕にはやりようがいくらでもあるだろうから。
「そんなの、考えたくもない話だな」
「はい、考えたくも、ありません」
「……」
「思い出したくも、ありません」
リュスは、こてん、と。
僕の肩へ、顎を乗せた。
至近距離。
ランプに照らされた肌は、病的に白く。硝子細工のように儚い。
けれど、触れた箇所からは火傷しそうなほどの、渇望が伝わってくる……気がした。
「わたくしにとって、アスタ様は……昏く昏く沈んだ、海底で……唯一、掴んだ、命綱なのです」
「そう、か」
「今は、村の女たちは、わたくしに従っています。……でも、そうではなかったこともあった。……たまに、わたくしは、どちらが現実か、わからなくなる……っ!」
本当に、想像以上に。
ひどい境遇にあるのだ、リュスは。
こんな苦しみを、ヤバマーズに辿り着くまでにも味わったのか。
――二年間も?
「お願いです。わたくしを……わたくしを、確かめてください」
最初は、なにを言われたか、わからなくて……迷いが生じた。
けれど、結局は僕からも伸ばした。
重なる、指先。彼女の細指は、驚くほど冷たい。
「――貴女は、ここにいるよ。リュス」
すると、リュスは応えるように。
僕の左手――漆黒のウロコを、慈しむように。けれど、決して逃さないと強く握りしめた。
(けれど、貴女は、ここにいない方がいい。いるべきではない。必ず、あるべき姿、あるべき場所に戻してあげるから)
僕の、高嶺の花よ。憧れの女よ。
必ずや、貴女を……本来の姿。
公爵令嬢リュシエンヌへと、戻してみせる。
「……アスタ様」
「うん?」
「これからは……食卓は、あの方々ともご一緒になさりますか?」
「え、ああ。たぶん? これからは――」
二人きりの食卓ではなくなる、だろう。
「……あの方々にも、手ずから魔物肉をお与えになるのですか?」
えっ、僕らの会話を聞いてたのか?
……いや、まさかな。そんなはずはないな。
リュスは屋敷を取り仕切るのに、大忙しだったはずだ。
「みんなが望めば、そうするんじゃないか」
「……そう、ですか」
「というか、ゆくゆくは手順を効率化して……より、安全性を確認したら、魔物肉を広めるつもりですらある」
「…………広める」
「領地発展のためには、必要じゃないか? えっと、ダメか?」
「いいえ。……しかるべき手順を踏むのならば、わたくしが、お止めする理由などございません」
そんな肯定とは裏腹に、リュスの指先はピクリと跳ねていたが。
「ねえ、アスタ様」
「うん」
「わたくしには、研究のお話がわかりません。……ジル様のように、お手伝いが出来ません」
「それは――」
至極、当然だ。
公爵令嬢の仕事ではなく、学ぶところでもなかったからだろう。出来なくて良いことだ。
「リュスには、リュスの得意なことが別にあるだろう?」
「でしたら、アスタ様」
「うん」
「もし、わたくしが、大学を卒業できぬような、無能な身の上であったとしても。……貴方様はお傍に置いてくださいましたか?」
思いもよらぬ、問い。
理解不能。順序が逆なはずだ。傍にいることになったリュスが、自ら力を発揮しただけなのに。
僕は困惑しながらも、問い返した。
「どういう意味だ?」
「わたくしは……アスタ様のご学友にはなれませんでした。あの頃のわたくしたちには、あまりに遠い距離がありましたから」
「……そう、だな」
「でも……見てくださっていることは、知っておりました」
――気づかれていた。
僕が送っていた、淡い思慕の視線に。
薄手のシャツ。伝わる、身体の曲線。
首筋に触れる吐息が、やけにくすぐったい。
「アスタ様。あの者たちは、いつまでここに居るのですか?」
続けられた問いに……。
さすがに、鋭利な棘が混じっていることは理解した。
「ジルは当分、研究に不可欠だし、ヘイホーは僕の部下になった。……これからのヤバマーズに必要な人材なんだよ」
「……そうですか。そう、ですね」
「何が不満だ?」
「いえ、必要なことです、人材はいくらでも必要です、理解しています。……理解しているのです」
痛い。
僕の左手を握る力が、骨を軋ませるほどに強まった。
男の僕を凌駕する握力。
祓魔女としての能力の片鱗。
「本当に。……皆様と仲が、よろしいのですね。……わたくしの知らない、王都での日々を、彼らは共有している」
「ああ。大事な、友達だ」
「目を輝かせては、同じ苦労、同じ話題を共にされています」
「そりゃ……みんな、似てるものが好きだし」
「……わたくしは、友人ですら、ありませんでしたからね」
まさか、嫉妬している?
……そんな性格の女性ではなかったはずなのに。
(可哀想に。こんな見当違いなことを言うなど、よほど追い込まれているのだな。……だが、さっきのは、ちょっとヘイホーに失礼だろう)
『もし、大学を卒業できぬような、無能な身の上であったとしても。リュスを傍に置いたか?』
本当は、世間に照らし合わせれば、脱落者であろうと十分凄いのだ。
でも、悪気がないのはわかる。当てつけたわけではない。
リュスの立場では、理解できないのだ。
なにせ、王妃候補の公爵令嬢リュシエンヌだったんだから。
(でも、どうだろうか。あまりに想像できないことだが、当時のリュシエンヌが劣等生だったなら……?)
当然、王妃候補ではなくなる。
僕との関係も、大きく変わったのではないだろうか。
(そして、僕の好意は……彼女の能力ではなく、在り方に起因している。だから――)
自然と、頭に浮かんだ。
王立大学で、一緒に過ごしたかもしれない時間。
今とは、全然違った距離感。
それはあまりに……僕にとって都合の良い妄想だった。
いや、だが……そんな仮定は無意味なのだ。
『もし、公爵令嬢リュシエンヌが無能だったら』
この世に、そんな“もしも”など、ありえない。
頭を振って……浮かんだ妄想を、振り払う。
「そうは言うが、リュス。君の過去にだって……」
僕の知らない君がいたはずだ。
いや、これも言うべきではないな。
僕は、胸に押し込めていた、卑屈な一面を認めることにした。
僕は、出来ることなら……公爵令嬢リュシエンヌと過去をやり直したい。
でも、それを語るのは、僕らしくなかった。
「色々思うところはあるけど。仮定の話はやめようか、リュス」
「……なぜですか?」
「だって。もしだよ。君が、予定通り王太子と結婚して、あのまま王妃になっていたら――」
「……え?」
「僕が領地を失い、路頭に迷った時。王宮から手を差し伸べてくれていただろうか?」
「――っ!?」
リュスが目を見開く。
僕は、とても当たり前のことを言ったのだ。
本来、あるべき世界では、そうだったろうと。とても可能性の高かった結果だったはずだ。
「没落男爵を助ける。きっと、そんな特別扱いは立場上できなかっただろう」
「それは……」
「だけど、そんな可能性を語っても仕方がないことだ。今、僕らは、こうして一緒にいる。今ここにある現実の先を――未来を見ていこうよ」
結局、僕は“こうだったかもしれない”ではなく。
“そうならなかった”という現実にしか……未来を語ることが出来ない。
(僕はそんな風に、生きて来た。こんな境遇でも、ないものねだりなど、なるべくせずに生きようと)
だが、ひどく。
リュスは、ひどくショックを受けたような顔をして。
「……仰る通りですね。きっと、わたくしは――」
ぷるぷると震えながら、僕の手を離すと。
「アスタ様を、見て見ぬフリをしたでしょう。正しい王妃が、特定の誰かを贔屓にするなど……許されぬことですから」
受け入れ難いといわんばかりに、後ずさりし。
リュスは逃げ出すように、執務室を去った。
「どうして、そんな顔をするんだ。……リュス」
残されたのは、左手に食い込んだ痕。
細指の、冷たい感触。




