第65話 嫉妬は、星のない夜に溶けて。僕らに、もしもなんてない。(前半)
――星を失った、孤独な夜空。
重苦しく、べったりとした黒闇がヤバマーズを覆う。
一等星ですら塗りつぶす、漆黒の幕。
雲間に潜む朧月は、不吉な赤銅に染まる。
そう、血のような月。
大気中の魔素が、あまりに濃すぎることによる――いつも通りの異常気象。
「陽が陰れば、すべてが闇夜に呑まれる……ヤバマーズの夜」
屋敷内は、耳が痛くなるほどシンと静まり返っている。
昼間の喧騒。
友人たちの笑い声や実験音、使用人たちの活気が嘘のようだ。
「……いや、ちょっと違うか」
僕と老執事ゲロハルト。
たった二人きりだった時は、常に、死に絶えたような静寂だった。
でも、今の屋敷には、たとえ眠っていても、生きた人間の気配が満ちている。
執務室で、僕は一人。
オイルランプの心許ない灯りを頼りに、ジルが提案した『ゼリー希釈』のレシピメモを眺めていた。
「……本当に、流通している素材だけで作れるんだな」
粘度の高いヒマシ油、獣脂、ミョウバン……。
用途に合わせて炭素や精製水を調整し、均一に撹拌。
あまりに地味な工程だ。拍子抜けするくらい。
高度な魔法触媒も、神秘的な錬金術もそこにはない。
黒銀結晶という超常のエネルギーを、化学的にねじ伏せている。
「ドワーフにとって、“金属が扱える”という言葉は……人間種族とは次元が違うらしいな。遥かに、広範囲を指している」
地中にあるものは、どんなに不安定でも使いこなしてきたのだ。
熱源管理すら、平然と燃料レベルから設計する。
「そりゃそうか。……ハンマー打ってるだけの職人じゃ、地下世界に領土は築けない」
しかも、なぜ、あえて工程に魔術行使を省くのかと聞いたら。
『品質安定を魔術でするのは、めんどうだからっす。なにより――作業として、つまらないっす。量産品を手掛けるなんて、うちの腕が腐るっす』
傲慢で、怠惰だ。
職人としての矜持が、魔導の神秘すら凌駕している。
やりたくないことは、絶対にやりたくない。……だから、能力の低い人間種族にも出来るよう、工程レベルをあえて落としている。
「でも、材料費がなぁ……。これじゃ銀貨を燃やしてるようなもんだ。もっとコストを下げないと、流通には乗せられないぞ」
今のままだと、ひどく高級品になる。
黒銀結晶より、ゼリーの方が値段が高い。
そこに、不意を衝く……控えめなノック。
「入れよ。起きてる」
――カチャ。
静かに開く扉。
「…………アスタ様」
我が家政女代行、リュスだ。
しかし、昼間の毅然とした“男装の女主人”とは、かけ離れた姿。
結ばれていたはずの黒髪が乱れ、こぼれ落ち。
暗渠の瞳は、底知れない熱を帯びて揺れる。
執事服のジャケットは脱ぎ捨てられ、白シャツの襟元から、鎖骨がだらしなく覗いていた。
――目に毒だ。思わず、逸らす。
「こんな夜更けに、何用だ」
「最近、お休みになるのが、遅すぎるのではありませんか?」
「あまり眠れなくてな」
「心配事でも?」
「そうでもない。……だが、脳が勝手に、今後の計画を練ろうとする」
ほんの少し、嘘だ。
研究の目処が立つまでは、不安に押しつぶされそうだった。
今は……人の上に立つのが、改めて嫌になって来ている。
「リュスこそ、もう休んでいいんだぞ。屋敷を切り盛りして、オコトギに、大立ち回りまで演じたんだ。神経を削ったろう」
「ええ、疲れました。……ひどく」
「なら――」
リュスは歩み寄ると、躊躇うことなく――むぎゅ。
もはや、抗議する気すら起きない、いつもの儀式。
けれど、今夜のそれは、いつもより執拗だ。
痛いほどに、抱きつきながら……身体を、撫でまわしてくる。
骨の髄まで、確かめるように。
「リュス、さすがに苦しい。……それに」
「それに?」
「やりすぎだ。……あまりあちこち、触るなよ」
「しかし、休んでいいと仰ったのは貴方様です」
「言ったけど」
「だから……休んでおります」
耳元で囁かれる、震える吐息。
「離しません。……離したら、また、貴方様が消えてしまう」
――また、か。
細い指が、這いまわる。
「……なあ、悪い夢でも見たのか?」
「夢なら、まだ救いがありました。わたくしの記憶に焼き付いているのは、かつて、確かに存在した――現実なのですから」
回帰の呪い。
絶望を繰り返してきた魂が、ようやく手に入れた今という奇跡。
でも、まだ……リュスは、惨劇の記憶に囚われている。
理性が、正気が――削られ続けているようだ。
「何百もの夜を、わたくしは一人で越えてきた。貴方のいない、冷たい朝を迎えて……」
「……なにを、思い出した」
「ヤバマーズの領民と……」
「領民と?」
「殺し合った」
「……なんだと?」
思わず、聞き返した。
「些細な誤解、切っ掛け。わたくしを怪しい余所者と、そう断じた彼らと……血の雨を降らせました。そして……」
「そして?」
「アスタ様。貴方さえも、わたくしたちを『敵』と見なした世界があった」




