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ヤバマーズ ~毒喰らい男爵の人生逆転劇~  作者: 裃 左右
第二章:破滅迫る、ハッタリ男爵投資劇。 ~“君がためのサキオン”になりたい~

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第67話 女心の算数なんて出来ない。不均衡な天秤にかけて。

 リュスが去った執務室は、酸素を失ったみたいに息苦しい。


 左手には、細い指の痕がくっきりと。赤紫色の鬱血痕(うっけつこん)


「……強く握りすぎだろ、リュス」


 脳裏に焼き付いて離れない、リュスの表情。

 

『見て見ぬフリをしたでしょう』


 呟いた彼女には、かつての公爵令嬢としての誇りなど微塵もなく。


 ――己の潔白さを呪う、暗い炎が宿っていた。


(あの顔は……なんだ。あんな顔をさせるために、僕は彼女を救ったのか?)


 僕は、いったい何を間違えた?

 どうにもならない気分のままで、翌朝を迎えた。



***



「皆様、おはようございます。ご朝食の準備が整いました」

「おっ、アスタ先輩! おはようっす! 見て下さいよ、このスープ。具が入ってないっす!」

「あわわわ! ジルっ! 男爵閣下がご用意した食事に失礼ですよ!」


 騒がしい食堂を仕切るのは、いつものリュス。

 パリッとアイロン掛けされた執事服を隙なく着こなし、濡羽色の髪は一本の乱れもなく結い上げられている。


 昨夜の、はだけた白シャツ姿も。

 理性を焼き切るような、縋る眼差しも。


 ……すべては月夜が見せた幻だったかのように。


 食卓を共に囲うこともなくなり、一緒にいた時間が消えていく。


「なあ、リュス」


 ――スッ。


 ろくに目を合わせようともしない。


 明らかに避けられている、と思った。


(前は休憩の時間には、傍にいたのに……?)


 僕が、いったい何を間違えたと言うのだろうか。


 そんな日が続き。

 コーヒーを啜るオノレが、僕の顔を見るなり片眉を上げた。


「やあ、アスタ。どうにも酷い顔だね。いや、君の顔が酷いのはいつも通りなのだがね」

「……放っておけ。僕は、今、忙しいんだ」

「ふーん」


 オノレの透徹した視線から逃げるように、机に向かう。


「リュシエンヌとなにかあったかい?」

「なっ、なぜそれを!?」

「隠し事が下手過ぎるだろう。前までは、コソコソ陰でベタベタくっつき合って、甘ったるい空気を垂れ流していたじゃないか」

「……見られていたのか」

「逆に、なぜ見られていないと思ってたんだい? この狭い屋敷で」


 オノレは、前髪をいじる。


「……数日前、夜に少し、リュスと話をしたんだ」

「そうなのか。じゃあ、君が悪いに決まってるから、四の五の言わずに今すぐ謝ってきたらどうだい?」

「話を聞く前に決めつけるなよな!?」


 いや、たぶん僕が悪いのだろうけれど!

 理不尽だが、反論できないのが辛い。


「何が悪かったのか、さっぱりわからないんだよ! リュスがいきなり、卑下を始めたんだ。お前やジル達を比較して、自分なんか友達ですらなかったって」

「やれやれ。……俺、痴話げんかの解説なんて、頼んだ覚えはないんだけど」

「いいから聞けって! 女の扱いなら、お前の方が何倍も詳しいだろうが!」

「君の経験不足を理由に、俺に迷惑を掛けないでくれたまえよ」

「経験不足だと!? 王都の令嬢たちなんて、近付くだけで扇子で顔を隠され、揃って不快そうな顔をするんだぞ! 辺境男爵ってだけで、ひどすぎんか!?」

「……君って、嫌な女性経験が豊富だね。それは俺の人生に必要ないデータだ」

「僕だって、そんな経験したくなかったよ! 酒場の町娘たちの方が、よほど人間らしい温もりがあったね!」


 オノレに、ものすごく嫌そうな顔をされた。

 でも、話すのは止めてやらん!


「――で、しまいには『もしも、私が無能だったら傍に置かなかったか』なんてまで言い出すから、僕は事実を言ったんだよ。『もしも』なんて無意味だと。本来の道を進んでいれば、僕らは交わらなかっただろうから、今ある現実を大事にしようって。前向きだろ?」


 今、僕が、高根の花だった公爵令嬢ではなく。

 泥にまみれた祓魔女(エクソシスター)リュスと一緒にいられる。


 それは――もう、奇跡のようなものだから。


「本当に、それだけかい?」

「ああ。僕は、そのつもりだったが……」

「……アスタ。君は、本当に救いようのないバカだね」

「なんだよ、何が悪かったんだ」

「いいかい。女性が『もしも』の話を持ち出すとき、それは論理的なシミュレーションや正解を求めているんじゃない。感情の肯定を求めているんだよ」

「感情の肯定? だが、彼女は感情だけで物事を判断するような、浅はかな人じゃないぞ」

「困ったものだな……さすがに、リュシエンヌを神格化しすぎだ。こういうのも、愛は盲目というのかな」


 オノレは、めんどくさそうにする。


「アスタ。君は、リュシエンヌが無能だったら、傍に置かなかったのかい?」

「いいや、それは因果が逆だ。再び、リュスとなって巡り合えた彼女が、たまたま有能だったに過ぎない」

「つまり、彼女が無能の極みだろうが、世界中を敵に回す覚悟で守り抜くわけだね?」

「当然だ。語るまでもない」

「語るまでもない、じゃなくてね。……それを改めて、脳髄に響くほど甘い言葉で語るべきだったんだよ」

「甘い言葉って……僕とリュスはそんな関係じゃないぞ。それに……そんなことはもう知ってるはずだ」


 どうにも納得がいかない。

 何度、僕が、リュスの目の前で啖呵を切ったことか。


「……さては、その調子で何か余計なことを言ったね。なにか、変な例え話でもしただろう」

「なぜわかる?」

「口が達者な人間は、その口数の多さで墓穴を掘るものだ」

「……そうだ、僕はこんな例え話をした」


 僕は、改めて口にする。


「仮定の話など意味がない。もしリュスが王妃になっていたなら、没落した僕を見捨てただろう。……だが、そうならなかった今、僕らはここにいる。だから未来を見ようってね」


 聞いたオノレは、コーヒーを盛大に吹き出した。


「げほっ! ごほっ、ごほっ……! あ、ははは! 君、本気で、大真面目にそれを言ったのかい!?」

「何がおかしい。事実だし、論理的だろ」

「まあ、論理的だよ。王妃という存在が、一介の没落男爵を贔屓にできるわけがないからね」

「だろう?」

「だが、代わりに。君は“女心の算数”を数百桁単位で間違えてるね」

「女心は……算数で解けるのか? 頼む、その公式を教えてくれ!」

「……感動した顔をしないでくれ、今の皮肉が理解できない時点で、もう手遅れだよ」


 オノレはハンカチで口元を拭い、哀れむような目を向けてきた。


「『君が正しく輝いていたなら、僕を見捨てていたはずだ』と宣告するのは……リュシエンヌにとって“今の自分を支える過去の善性”を、否定されたも同然じゃないのかい?」

「そんなつもりじゃないっ! 王妃となったリュシエンヌがそのように判断しても、立場上、正しいことだ!」

「ああ、そういうことか。……君は、リュシエンヌに見捨てられても『立場上仕方ないね』と笑って許せるから言えるんだな。実に問題だ」

「……何が問題なんだよ」


 僕は、首を傾げた。


「アスタ。俺もまた、君にどう説明していいかわからない。今のリュシエンヌは、君を拠り所にしている。わかるかい?」

「ああ、さすがにな」

「そして、君は自分が安泰でも、リュシエンヌのために立場を危うく出来る」

「……今はな」

「でも、リュシエンヌは、かつての自分が、今の君がしてくれるほどには尽くせなかったと――そんな不均衡に気付いてしまった」

「そりゃ当然だろう。だって、王妃候補だぞ? あの尊き貴婦人(リュシエンヌ)なのだから!」


 オノレは、もうつける薬がないと首を左右に振った。


「わかった、こうしよう。もし話せる機会があったら、正直に、君の胸の奥にある(よど)みを伝えるんだ」

(よど)み?」

「君がこの二年間、ずっと心臓を焼かれ続けてきた、あの後悔を」

「…………なぜ?」


 僕の、唯一と言っていい……ないものねだり。

 もしも、あの弾劾の日に、僕が立ち上がっていれば。


 領民も、立場も、未来も。

 なにもかもを、殴り捨てて。


 三代目サキオン以来。

 「ヤバマーズはやっぱり色ボケの血筋だ」と国民から親族たちにまで、軽蔑される覚悟さえあれば。


 僕は――すべてを投げ打ってでも、リュシエンヌの手を取るべきだった。


 当時、十七歳(・・・)だった、アスタ・ド・ヤバマーズのそんな後悔。


「たぶんね、アスタ。君が語るべきなのは未来じゃなかった。今も疼いている、『臆病だった過去の告白』だ」

「……僕の不実を。臆病さを伝えろ、と?」

「たぶんね。かといって……仲直りできる保証も、関係が良くなる保証もないんだが」

「……今の僕は、あんな後悔をしないように、ようやく前を向こうとしていると言うのに?」

「でも、リュシエンヌは……それを知らない。だから、不均衡に見えている」


 不均衡。

 まるで、意味の分からない理屈だった。

 僕には読み解けない、女心の方程式。


「アスタ。きっと、その後悔を知ってさえいれば。君の、例え話は……より、違った響きで聞こえたはずだよ。リュシエンヌの心にね」


 結局、何も理解できないまま。

 出されてしまったのは、途方もなく恐ろしい宿題。


(もし、今度こそ軽蔑されたら。……僕は、どうしたらいい? ああ、でも。もしかしたら――)


 どうにも僕が、誰かの裏切りについて責める気になれないのは。

 僕自身が、「何もしなかった」という最大の裏切りを犯した自覚が、あるからだ。


 果たして、僕には――彼女の傍にいる資格があるのか?


 オコトギを思い出す。

 もしかしたら、僕は……裏切りを、裁かれるべきなのかもしれない。


 他にでもない、リュスに。

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