第155話 己の名は――。
「今度は、地に足すら付いてねえのかよ」
やはり我ながら、相当心身にキているらしい。
ゆらゆら揺れるこの男は、たちの悪い幻覚。
数十年は時代遅れなロングコート。
鼻持ちならない、ふてぶてしい笑み。
たとえ、どんな絶望が訪れても、最後には自分が勝つと信じて疑わない。
……そんな自信に満ち溢れた笑みだ。
「時に貴様。アレを……まさか本気で仕留めたいのかね?」
男の足が、ふわり虚空を蹴った。
重力を馬鹿にするように、軽やかに。
「はあ、まだ話しかけてくるよ……無視だ、無視をしろ。こいつは、疲労で生まれた不具合だ」
「こちらは至極真面目に質問を呈しているのだ。答え給えよ。貴族の端くれならば、最低限の礼儀を弁えよ」
「いいか幻覚。消えろよ、消えろ、今すぐ消えろ。帰ったら、しっかり寝ると誓うから、そのふわふわ浮いた足を片付けてくれ」
僕は、祈るような心持ちで口にする。
すると、男は大層面白がった。
「ほほう。貴様、己が幻覚の類だと断じるか。……これはこれは、妙なる迷言を聞いたものだ。ふはは……実に面白い」
カラカラと、男は笑う。
その高笑いが……やはり、どうにも不愉快だった。
「ならば、よろしい。その“幻覚”に零してみよ。……何故、あのような怪物を仕留めんとする? 武勲を誇示したいがため哉? あるいは、奴めに莫大な賞金でも懸かっているの哉?」
正直、これ以上相手をしたくない。
しかし、なぜだろうか。
忌々しくもヤバマーズの血が――僕の背中をドンと押した。
『こいつに話せ』
確信に満ちた、血の囁き。
逃げ場がないほどの、強い直感。
「……はぁ、わかったよ。話せばいいんだろ、話せば」
「おや、ようやく物分かりが良くなった」
「どうせ、僕の脳が見せる幻覚なら、自問自答と大差ないしな。思考を整理する壁打ちに丁度いいだろ」
「なかなか合理的な解釈だ。己を壁扱いする不敬には、目を瞑ってやろうではないか」
幻覚に褒められてもな。
実質、僕が自画自賛してるようなものじゃん。
それってバカみたいじゃん、虚しいだけだ。
「僕が、なぜあの怪物を狩ろうとするか、だって? そんなもの、わかってんだろ。僕の願望なら、お前は知ってるはずだ」
「知らぬから問うている」
「そんなわけないだろ」
視線を遥か遠く、とうに見えなくなった湖の方角へとやった。
僕の新兵器を嘲笑い、せっかくの作戦を無効化した挙句、仲間まで傷つけた。
その上……“リュスによる花嫁運び”なんて羞恥プレイまで強いた、あの憎きヌメヌメ生物。
なぜ、あのクラーケンにこだわるのかと言えば――。
「――魚が食べたいんだよ」
沈黙。
白けた風が、ひゅるりと虚しく吹き抜けた。
「…………は?」
余裕たっぷりだった顔が、見事なまでに引き攣った。
僕の幻覚の癖に、なんだその「こいつ、頭大丈夫か?」とでも言いたげな反応は。
「聞こえなかったのか? 僕は美味しそうな魚を、領民たちと一緒に腹いっぱい食べたいから戦ったんだよ」
「それだけ、なのか? そんなことのために命を賭けたのか?」
「そんなことって、それが一番大事な事だろ。そりゃ水源確保とか、拠点の発展とか、黒銀結晶の事業も重要だけどな。僕は領主だぞ?」
僕は、はっきりと言ってやった。
「腹を空かせる領民がいて、平気なわけないだろ!」
「……ほう」
男は、宙に浮いたまま腕を組み、顎を撫でた。
「それほどまでに、日々、糊口に窮しているというのか?」
「当たり前だ、ここは呪われた不毛の地ヤバマーズだぞ」
「ヤバ……マーズ……?」
「土を掘っても出てくるのは石ころ、森を探してもよくわからん猛毒キノコばかり。領民は芋を齧り、僕はタンポポで命を繋いだ。……そんな状況で、最近、急に食い扶持が増えたんだ」
これから発展すればどうなる?
そりゃ、どんどん人が集まるさ。
でも、そしたら……もっと食べ物が必要になるってことだ。
「そんなもの、外から買えば済む話ではないか」
「輸入したら高くつく、そしたら貧しい奴が困るだろ! ……なるべく安く、腹いっぱい食わせてやらなきゃどうすんだよ」
「だから湖を狙う、と」
「そうだ。目の前にぶら下がった水産資源……ヤバい怪物の棲み家だからって、諦められるか!」
「……誠に名誉なぞは無用、とでもいうのか。クラーケンを打倒した英雄として名を残すより、一皿の焼き魚が魅力的だと?」
「そんなものは、ゲップが出るほど腹が膨れたら考えればいいんだよ。僕が欲しいのは、そんな食えもしない宝石箱じゃない。領民たちが“もう食えねえ”と下品に笑い、不安なく眠りにつける……そんな生活だ」
すると、男はぽかんと僕を見つめて。
「ふふ……ふふふ、ははははははっ!!」
最後には腹を抱え、涙を流さんばかりの勢いで笑い転げる。
その豪快な笑い方を……僕はどこかで、知っている気がした。
「な、なんだよ……」
「実にいい、実に下らんな! 民に飯を食わせたいがために、天災にも等しき怪物に挑むか。とんだ、うつけではないか!」
「うっせーな。本気なんだよ、僕は」
「だが……嫌いではないな。ああ、気に入ったぞ。――笑える野心は、良き野心だ」
男は、どこか眩しいものを見るような眼差しで。
僕を、高き処から見下ろした。
「宜しい。どれ、退屈しのぎだ。己が直々に指南してしんぜよう、このまま同行してやる」
「嫌だよ!? なんかお前、気味が悪いじゃん!?」
「なにを言う。己はこう見えて、海洋生物には精通しているのだ。……かつて、研究していたからな」
「幻覚に、僕の知らない知識が教えられるわけないだろ!!?」
「ふふ、光栄に思い給え。己がタダ働きを買って出るのは、随分と珍しいことなのだから」
幻覚の癖に、妙に設定がしっかりしている。
まるで、確固たる人格があるみたいに振舞うじゃないか。
「……タダ働きが珍しいってなんだよ。お前、その――ああ、もうっ! うざったいな、なんで呼べばいいんだ! この浮遊不審者!」
「己の呼び名か……? くくく、教えてやろう。己の名は――」
男は役者のように、胸を張って名乗ろうとした。
が、動きがぴたりと止まる。
「……はて? ……己は一体、誰だったかな?」
「なんで、本人がわかってないんだよ!? やっぱり、設定があやふやじゃねえか!」
自信満々にふんぞり返っていた男は、今や、手のひらを見つめて、本気で戸惑っていた。
「あの、アスタ様……? 先ほどから、どなたとお話しされているのですか……?」
背後から震える声。
……あ、やば。
見れば、リュスが今にも泣きだしそうな顔で僕を見ていた。
他のみんなも、いつになく気遣う表情。
「アスタ、そんなにショックだったんだね。わかるよ、同盟を背負った初陣で負けたら、俺だって発狂する。でも、虚空に怒鳴り散らすのは……さすがに見ていられないよ」
「ち、ちがう! 僕は負けてない!」
「……アスタ。うん、そうだね。負けてないよ」
「そうじゃないってば!? 現実を認識したくないとかじゃなくて――今、そこに! 浮いてるんだって! 変なロングコートの男が!」
必死に指を指すが、みんなの目はますます悲しげになるだけ。
「アスタ先輩。……その、うちも頑張るっすから。ね?」
「……吾輩も敵がヌメヌメしていても、我慢して戦う。だから……正気に戻れ、ヤバマーズ男爵」
ちがーーうっ!? まって!??
そんな目で見ないでぇえええっ!!?
こうして、僕の尊厳がぶっ壊されたのだった。まる。
マジ、許さんからな。あのヌメヌメ生物!!
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