第156話 もうダメそうだな、寝たほうがいい。だって、そんな生き物いるわけがないから。(前半)
屋敷へと帰還し、ようやく一息ついた執務室。
だが、漂っているのは安堵ではなく、淹れたてのコーヒーが放つ芳醇な香りと――僕の正気を疑う、緊張感だった。
投影された、謎の幾何学模様が明滅。
オノレは眉間にしわを寄せたまま、特殊な解析用眼鏡を外して一息ついた。
「……なるほど。脈拍、瞳孔の反応、脳波も正常。魔素の異常蓄積による錯乱かと思ったけれど、生体反応は問題ないね」
「おいおい、ガチの診察じゃん」
「そりゃ、診察されてしかるべきだと思うけど? なんらかの精神干渉を受けている可能性も否定できないし、病気の兆候かもしれない」
「病気? 例えばどんなさ?」
「脳の損傷。君、あちこち派手にぶつけてるだろ」
「まあ……否定はできないな」
なんで、お前に診察なんて出来るんだよ。
そうは思ったが――。
「……そういえばお前、精神魔術もかじってるんだっけか」
「基礎だけね、あくまで魔導貴族の嗜みレベルだよ」
「そんな嗜みあってたまるか」
その上、毒物への対処も一級品。
逆にこいつ、なにが出来ないんだ? 天は二物も三物も、この容姿端麗な天才に与えすぎだと思う。
「で、つまり……アスタ。君はそこに、時代遅れのコートを着た不審者が見える。そう本気で主張するわけだね?」
「そうだ」
僕が、指し示す先。
オノレは、ふぃっと顔を向けた。
「お前の目線の先に、ドッカリ居座っているぞ。自分の名すら思い出せないくせに、態度だけは一丁前な幻影がな」
「『幻影』、ね……」
そこには、ふてぶてしく足を組む例の男。
僕は、こいつを幻影と呼ぶことにした。
古代哲学における、心が生み出す像。
俗に、幽霊を指す言葉でもあるが……そんなオカルト解釈は、後世の人間が作ったくだらない後付けである。
しかし、オノレはどこまでも素っ気ない。
「で、アスタ。まさか頭が変異したのかい?」
「バカにすんなよ!?」
「いや、今回は本気で心配してる。……極度のストレスが原因かな? あ、魔物食が原因かな?」
「それはそれで傷つくんだよなぁ!? 僕も、この現象を冷静に分析しようとしてるだろ?」
「弱っていても、責任感や自制心が働くんだな。……と、見えなくもない」
オノレは、哀れみを強めるばかり。不本意すぎる。
「ふーむ。深層心理の具現化、か……?」
「僕は、こんないけ好かない男を侍らせたい願望なんて持ってない!」
「……改めて聞くけど、その不審者の特徴は?」
「顔は無駄に整ってるけど、とにかく態度がデカくて傲慢な奴だ」
「ふんふん?」
「で、どんな絶望が相手でも、最後には自分が勝つ! そう言わんばかりの、自信満々な笑みを絶えず浮かべている。そんな不愉快極まりない野郎だよ」
「よし、結論が出たぞ」
「おおっ! さすがは、オノレだな!」
オノレは、青い前髪を指でいじりながら述べた。
「――まさしく、君の特徴じゃん。自分自身を具現化しちゃってるね」
「僕じゃねえよッ!?」
「そうだね、君は顔が良くない。あ、つまり美化してるのか。……ナルシシズムの末期症状かな?」
「ぶっ飛ばすぞ、マジで!!?」
すると漂う男が、クツクツと喉を鳴らした。
「その青髪の若造……オノレと言ったか。なかなか思考の筋は悪くない。成程、己を幻覚と見做すならば、案外、説得力がある」
「お前、存在を真っ向から否定されてるくせに、なんでそんな嬉しそうなんだよ」
「真理とは、時に残酷だ。己の正体が『無』であるならば、其れは其れ、一つの発見だろう?」
「黙れ、変態っ! こいつ、さてはややこしい輩だなっ!?」
僕が毒気づくと、オノレがビクリと肩を跳ねさせた。
「……今、誰もいない空間に向かって“黙れ、変態”と叫んだね。うん、この興奮状態……もうダメそうだな。アスタ、寝たほうがいい。睡眠薬を処方しよう」
「オノレ! 信じてくれよ、僕がこれまで虚言を振りまいたことがあったか!?」
「君は、ハッタリと称した嘘をまき散らす常習犯だろう。呼吸するように、人を担ぐじゃないか」
「確かにそうでした、それはすまん! でも、今は信じてくれ!(素直)」
「……別に、虚言を疑ってるわけでもないんだけどなあ」
僕が必死な形相で謝ると、わずかにオノレは身を引いた。
熱々のコーヒーを啜りつつ、考えこみ始める。
「なら仮に、それが精神症状じゃないとしよう……こういう仮説はどうかな?」
「仮説? どんな?」
「先日の戦いで、君は『鉄仮面のヤン』に左手を砕かれた」
「……ああ」
「そして今、異能の源であるウロコにはヒビが入り……自己修復しようとしている。その真っ最中だよね」
「そうだな。ズキズキ痛むが、だいぶ直ってはきている」
「魔素は、情報を蓄積する性質があると言われている。その情報の海に漂う、歴史の断片を、不完全なウロコが読み取ろうとしてしまった……としたら?」
「……ん? どういう、ことだ?」
オノレの立てた仮説は、いささか僕には難し過ぎた。
「ようするに、君の異能と脳が作用して、勝手につなぎ合わせて作り出した錯覚ってことだよ。大昔の誰かの記憶……その残響といったところかな?」
「魔素が生んだ……錯覚」
「まあ、そういうこともありえるのかなって」
あまりに論理的で……そして、救いがない仮説。
僕の異能が、たまたま場に残っていた古い記憶に共鳴して起きた不具合。
となれば、この男、幻影は――やはり生きてすらいないし、死んですらいない。
結論は、存在しない『無』から変わらなかった。
より説得力が……増しただけ。
「興味深い仮説だ。……己に、否定する証拠は出せんよ。己自身が、何者かを思い出せずにいる以上はな」
しかし、幻影は揺らがない。
自分の存在が“歴史の断片”かもしれないと言われても、なお不敵な笑みを崩さなかった。
「おい、野暮ったいの」
「……その悪口をやめろ、アスタって呼べ」
「そこの青髪、オノレとやらに伝えてやれ。せっかくだ。錯覚にしては、有益なことを教授してやる」
「……なにをだよ」
僕は促されて、しぶしぶ通訳を始める。
「あのさ、オノレ。その幻影が言ってるんだが」
「なんだい、アスタ。まさか俺にかい?」
「そうだ、いいから聞け。……クラーケンが噴出した水流だが――」
「いきなり、何の話かと思えば……」
「――アレは本来、攻撃用途じゃないらしい」
呆れたように、コーヒーを啜っていたオノレだが。
さすがに、その動きを止めた。
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