夜明けのはじまり
地下から上がってきた三人に相川がお疲れ様ですと微笑みかける。相川は手に小さなかごを持っていて、その中にはカフェマシンに入れるカプセルがごろごろしていた。お好きなものをどうぞと相川がいうので、夜見はカフェラテを三ノ宮は抹茶ラテ、倉橋はブラックコーヒーをそれぞれ選んだ。
「お二人もお茶にしませんか?」
と相川は、パソコンに向かっている富永と村雨に声をかけた。
「あたしぃ……ココアがいいなぁ」
「じゃ、俺はブラック」
と二人は答えて、すぐに作業を続ける。
頭巾とマスクを外した倉橋は、その身を投げ出すようにソファーに座った。
(とうとう、俺も犯罪者か……)
倉橋は知らず知らずにため息を漏らした。不意に肩をつかまれてびくっとする。
「何してんだよ。お前」
夜見はニヤニヤ笑いながら、まあまあといいながら、倉橋の肩をもむ。
「こんなにがちがちだと後がもたないよ。先輩」
「大きなお世話だ。そんなことしなくていい」
「気持ち悪い?うちのじじいは喜んでたけどなぁ」
倉橋はがっくりと力が抜けた。気持ち悪くないし、むしろ気持ちがいいのは確かだ。こわばった肩が楽になっていく。倉橋は、勝手にしろとつぶやく。夜見は鼻歌まじりに、肩や首をもみほぐす。
(なんだか……眠いな……)
倉橋は体がじわじわと温まり、ほぐされる心地よさにふっと意識を飛ばしてソファーに沈み込んだ。夜見は一丁上がりとつぶやいて、倉橋の体をソファーに横にした。
「比良坂……何した」
村雨が厳しい顔で夜見を睨む。
「少々、寝てもらっただけですよ。村雨先輩。どうせ、三ノ宮のことだからあれで終わるわけじゃないだろうし」
そういわれて、会長席にいた三ノ宮は当然と答えた。そのタイミングで相川がお茶をそれぞれに差し出す。
富永と村雨は、カップを手にパソコンから離れてソファーに座った。夜見は、自分の分を持ち、会長の机に腰かける。相川は備品室から毛布とパイプ椅子をもってきて、手際よく倉橋に毛布をかけた。自分はそのそばにパイプ椅子を置いて着席した。
「で、どうすんの?」
夜見はラテをすすりながら、三ノ宮に問う。
「そうだね。佐久間君には性癖が歪むまで、お仕置きだね」
「鞭だけで性癖がかわるか?」
「アメは用意してあるよ」
そういって、三ノ宮は倉橋を指差す。
「……お前。あれ、ストッパーじゃなかったのか?」
「ストッパーだけど、今回は良心の呵責を持つ人じゃないとアメにならないだろ?」
夜見はかわいそうにと心底、憐れむように倉橋を見た。
「そんで、岸崎の方はどうすんの?直接の接点なさそうだったけど」
「そこだよね。富永先輩、なんかわかりました?」
富永はうんとうなずく。
「えっとねぇ。やっぱり、【レディ】が仲介してたみたいなのぉ」
「じゃ、佐久間君は岸崎さんとやりとりしてたわけじゃないってことになっちゃいますね」
「そぉなのよねぇ。あとで、佐久間君のメールにぃハッキングしてみるぅけどぉ……」
「メールは削除されてる可能性が高いだろうな」
と村雨が補足するようにつぶやく。
「【レディ】の正体は?どうなんですか?」
「千尋ちゃんのぉ話だと、石田光男って人物らしいよぉ。お金で動くタイプだってぇ。恐喝でぇ逮捕されたけど、証拠不十分で不起訴になったらしいのぉ。ハッキングよりクラッキングの方が得意みたいだってぇ」
「あの、それって千尋先輩が危険になりませんか?」
相川は心配そうに尋ねた。
「大丈夫ぅ。千尋ちゃんはぁ、もっとハイレベルだからぁ」
富永はふわっと笑った。夜見は少し考えるようにつぶやく。
「やっぱり、アヤメ本人とぶつけるしかないか……」
「あの、真田さんは岸崎礼子さんが首謀者だと知っていらっしゃるんですか?」
「佐久間がそう口走ったらしいけどね。アヤメはちゃんと礼子と話したいらしいんだ」
「それってぇ、あんまりぃよくないと思うよぉ」
「まあ、あたしもそうは思うけど。アヤメなら大丈夫な気がするんだよね。冷静な判断ができる状態にもどれば……」
「比良坂は知ってるのかな?岸崎さんの前科」
「ああ、一応。聖から聞いてる。友人のふりして一人の少女を苛め抜いたあげくに自殺未遂にまで追い込んだって話だろ?」
三ノ宮は、そうそうとうなずく。
(比良坂と柚木は、つながってるんだったっけ。親の仕事関係ではなかったようだけど、いったいどこで?)
夜見がどうしたと三ノ宮を見る。三ノ宮は思っていることとは別のことを口にする。
「動揺してないんだなぁと思って」
「動揺?何に?」
「佐久間君への愚劣なお仕置き」
夜見はあんなもんたいしたことじゃないねとつぶやき、ラテをすする。
「そういえば、比良坂はヤクザつぶしたことがあるんだったな」
ふいに、村雨がそういう。夜見はかすかに不愉快そうな顔をしたが、まあ、そんなこともあったかもしれませんねと答えた。
「理由もなしにつぶしたってわけじゃないんだろう?」
「たいした理由じゃないですよ。村雨先輩」
夜見はにこりと笑うが、目がそれ以上の追及を許さないというほどに冷たかった。
「えっとぉ。アヤメちゃんの方はぁどうなってるのぉ」
富永はピリピリし始めた空気を弛緩させるように尋ねる。
「専門家にケアを受けてます。有栖川の話だと心的外傷後ストレス障害。いわゆるTPSDってやつで、特に日常生活にもどってからのほうが強く症状が出るらしいけど。だから、今のところ、強い反応は出てないって言ってたなぁ。今晩は妃奈子がいっしょにいるからなんかありゃ、連絡くるとおもいますけどね」
夜見はちらりと三ノ宮を見た。三ノ宮はその視線に気が付かないふりで、抹茶ラテを飲んでいた。
「それじゃあ、真田さんは当分学校をおやすみするんですね」
「いや、明日には登校したいってのが本人の希望だよ。その辺は、有栖川たちの判断がどうでるかだけど。長引くとかえってよくないかもしれないってのもある」
時間が礼子に有利に動く可能性もなくはない。
(どのみち、証拠隠滅に関しては徹底してるようだしな。アヤメが礼子にどれくらい信頼を置いているかっていうのが問題かもしれないけど……)
夜見は一気にラテを飲み干した。
一時間後、三人は再び地下の佐久間のところに下りて行った。倉橋は自分がなぜ眠っていたのかわからないまま、二人のあとに続く。
(核弾頭と死神……ねぇ……)
二人とも自分がしていることが犯罪であると自覚があるのだろうかと倉橋は思った。ただ、夜見は確実に強姦未遂の件について怒っている。
佐久間を殴りつけたときの夜見の冷たい声は、機械音のせいではないと倉橋は直感的に思った。だが、三ノ宮の方は、1ミリグラムも同情や憐みなどないだろう。むしろ、何らかの変化が生じるのを楽しんでいる節はある。
(なんで俺はとめられなかったかなぁ……)
佐久間のしてきたことは、犯罪だ。それは法の下で裁かれるべきものだとわかっている。だが、夜見の言っていた常習化した性犯罪に対して、この国の刑罰は軽い。被害者は傷を背負って生きなければならない。場合によってはセカンドレイプという二重、三重の苦しみを味合わなければならないのだ。
(矛盾してるなぁ……俺……)
倉橋が一人葛藤しているうちに、佐久間のいる部屋へたどり着いた。扉をあけると、佐久間自身が流した体液でどろどろの体を晒し、がたがたと震えていた。倉橋は、すぐさま手足を拘束している紐をほどいて、彼をシーツにくるみシャワー室へ連れて行った。
『おや、手早い処置だな。お前ら打ち合わせしてたのか?』
夜見が三ノ宮に尋ねるといいやという答えが返ってきた。
『遼は君に見せたくなかったんだよ。君は女の子だからね』
『ああ、なるほど。それでアメはさらなる効果をはっきするわけだ』
三ノ宮はまあそんなところと笑った。とりあえず、夜見と三ノ宮は新しいシーツを敷く。
体をきれいにしてもらって、突っ込まれていたおもちゃもとってもらい、佐久間は少しほっとした顔でもどってきたが、シーツを変えたベッドの前でウサギと黒子がおもちゃを手に、次はどれにするかというような態度で彼を見たとき、その表情は一瞬にして凍りついた。
結局、佐久間に対するお仕置きは、真夜中まで続いた。そして三ノ宮の目論見通り、悲鳴を上げていた佐久間が最終的にあえぎ声をもらすようになり、グレコ君に熱い視線を向けるようになっていた。
三ノ宮はとどめを刺すように、最後に佐久間の首輪と手錠を外して何かをささやいた。佐久間は顔を真っ赤にしながらも、抵抗することはなく、自らヘッドホンを身に着けテレビに向き合う。三ノ宮がビデオを再生しはじめるとしばらくして、佐久間は自慰行為を始めた。倉橋はあわてて、夜見を部屋の外にだす。
夜見は部屋の外で一人苦笑した。こうして佐久間の性癖は一夜にしてゆがめられたのである。
◆
真っ暗な闇の中をひたすら走る。
逃げなきゃ。
追いつかれたら、何をされるかわからない。
怖い。怖いよ!
でも、どこに逃げるの?
もう、帰る場所なんてないのに……。
「アヤメちゃん?どうしたの」
礼子ちゃん……。
『岸崎に金払ってんだよ』
『施設育ちのくせに!』
嘘だよね。
嘘だよね。
礼子ちゃんはそんなひどいことしない!
けれど……
あの男は、佐久間は知っていた。
礼子ちゃんにしか話していないことを……。
「アヤメちゃん。どうしたの」
怖い。
礼子ちゃんが怖い。
この手を取っていいの?
本当に彼女を信じていいの?
わからない。
怖いよ。
先生、助けて。
『人を信じて裏切られることはあるよ。それでもね。人を信じられない人間になるのはさびしいことだよ』
先生!どこにいるの?
『大丈夫。もう大丈夫』
暗闇の中じゃ、何にも見えないよ!
『本当に?』
だって、暗くて、怖くて……
『アヤメ、よく見てごらん。僕はここにいるよ』
先生!
ああ、先生だ。
あの大きな手は先生の手だ。
暖かい……
『アヤメ、君はひとりぼっちじゃないんだよ。僕たちのことを忘れないで……』
うん、ごめんなさい。
みんな、いる。
ここにいる。
あたしの胸の中に……
アヤメはそっと目を覚ました。
(ああ、夢か……)
少しさびしいのに、なんだか暖かい。そう思って、ふと誰かが手を握っているのに気が付いた。左を見ると比良坂夜見が静かな寝息を立てている。
いつ帰ってきたのだろう。小鳥遊先輩は、多分今夜は戻らないと言っていたのに。それになんで隣に眠っているのだろうか。
(部屋間違えたのかな?それとも……あたし、うなされてたのかな?)
アヤメはそっと夜見の手を離して、ゆっくりと起き上がる。カーテンの隙間から、こぼれる光。目覚ましはあと五分で七時だ。アヤメは、目覚ましが鳴る前にスイッチを切った。
まだ、知り合って三日と経っていないのに、夜見はまるで昔からの友達のようにアヤメに安心感を与えてくれる。不思議な人だとアヤメは思った。
大した言葉も交わしていないし、お互いのことなんて何も知らないのに、そんなことたいした問題じゃない気がする。
礼子とはたくさん話をしたのに。今はなんだか遠い気がした。アヤメはそっと深呼吸して、部屋をでる。
(今日は学校へ行こう。彼に会うのは怖いけど……礼子ちゃんには会って話をしなきゃ)
これ以上逃げたくないとアヤメは思った。