96 魔獣に挑む理由
「拓海様の特別授業は、来週の土曜日に――」
黙り込んでしまったザックにかまわず、ユリウスが話を続けようとした、そのとき。
どん、と鈍い音を立てて、ザックの拳が食卓のテーブルに叩きつけられた。
めり込んだ拳のあたりから、みしりと木が軋む音が響く。きれいだった木目が、ぐにゃりと歪んでいた。
「……正気ですか?」
きつく噛みしめた歯の隙間から、押し殺した声がにじむ。背中越しに、ゆらりと怒気が立ちのぼる。
「ああ。秘書官室で話し合いをして、決定したんだ」
ユリウスの落ち着いた声に、ザックは、ばっと顔を上げて怒鳴った。
「まだ剣を習い始めたばかりですよ! おまけに、魔法だって習ってない。そんな状態で魔獣と戦わせるなんて、あの子を殺す気ですか!」
ふう、ふうと荒い息を吐きながら、ユリウスを睨みつけるザックの瞳は、憤怒の炎で燃えている。
もし他の者がいたなら、そのあまりの形相に腰を抜かしていたかもしれない。
やっぱり。こうなるよな。
ユリウスは内心で、そう思った。
本来なら、特別授業は水面下で準備し、ザックには知らせないつもりでいた。この家に戻ってきたときも、当然そのつもりだった。
だが、マックスの話をしているうちに、気が変わったのだ。あることを思い出してしまったから――。
ユリウスは、鬼気迫る表情のザックに対し、あくまで冷静な顔のまま向き合った。
「お前は見ていないが、一度だけ、拓海様の背に翼が現れた」
「え! それは、本当ですか?」
「ああ。風にさらわれたカードをつかもうとして、翼を使って飛んだ。ほんの一瞬だけどな……」
「拓海様が飛んだ……」
翼が現れずに、どうにかしようと本を読み漁っていたユリウスの姿を見てきただけに、ザックは一瞬、言葉を失う。
だが、同時にそんな重大な出来事を隠していた主に、鋭い疑念が胸に浮かんだ。
「なんで、俺に教えてくれなかったんです」
低く押し殺した声には、怒りよりも裏切られたような痛みが滲んでいた。
「翼が……拓海様の翼の色が、純白だったんだ」
ザックが、はっと息をのんだ。
唖然とした表情のまま、つぶやくように言葉を絞り出す。
「純白って……そんなの、天界の連中の翼と同じじゃないですか」
ザックは、はっきりと動揺していた。
狼族である自分に翼はない。だが、一般的な魔界人は、背中に漆黒の翼を持っている。
そのどちらにも当てはまらないのが、天界の住人と妖精族。
つまり、魔界とは本来、敵対関係にある者たちだ。
ザックが少し落ち着くのを待って、ユリウスが口を開く。
「魔法は、大きく二種類に分けられる。黒魔法と白魔法だ。魔法は、翼の色を見れば、どちらの力を持っているかがわかる」
「……じゃ、じゃあ、拓海様は白魔法の使い手ってことですか?」
「そうだ。魔界人とは魔法の力が根本的に異なる」
「そんな! 拓海様はどうなるんですか? 翼の色が違うなら、魔王様と親子として対面できないってことですか?」
「ああ。難しいだろうな」
「そんな……拓海様、頑張って皇子教育を受けているのに、ひどいじゃないですか」
ザックは、がっくりと肩を落としてうなだれた。
学問は教えられなくても、剣術や体力づくり、生活面を支えようとザックは頑張っていた。
突然やって来た自分たちを温かく迎え入れ、家族のように接してくれる拓海のことを、いつの間にか心から大切に思い始めていたからだ。
「それよりも問題なのは、俺が魔法を教えられないってことだ。俺は黒魔法を使うから。それがどういうことかわかるか?」
「……拓海様は、魔法を習得できない……そういうことですか?」
「そうだ。拓海様は魔法が使えないから、危険な目にあっても、自分の力だけではその身を守れない」
「でも、だからって、それがどうして実戦になるんですか?」
「それは――」
口にすれば、もう後戻りはできない。そう悟りながら、ユリウスは、その理由をゆっくり語り出した。
◆◆◆
秘書官室で拓海の翼について頭を悩ませているとき、キャロルがある提案を口にした。
それを聞いた全員が、そろって仰天した。
「ちょっとキャロル、皇子様を魔獣と戦わせて、わざと危険な目に遭わせるって……それ、本気で言ってるの?」
さすがのビクトールも、呆れたように目を瞬かせた。
「はい。本気です」
キャロルは、きりっとした顔で全員を見渡した。
「実は、私たち魔界人の翼は、もとは白だったという説があるんです」
「え、本当ですか」
ユリウスは、思わず目の前に座るアンドリューと顔を見合わせた。
「……たしか、古代の文献にそういう話が書いてあるもの、あったね」
ビクトールが顎に手を当て、何かを思い出したように言った。
「はい。住む地は違えど、翼を持つ者たちの背は、みな白い色をしていたと」
「キャロルさん、その説が真実であると仮定して、では、どうして魔界人の翼は黒に変化したんですか?」
質問するユリウスの目には、半信半疑の色が滲んでいた。
キャロルは、ひと呼吸おいてから言葉を継いだ。
「それは、ずばり魔獣です。天界には、魔獣や魔物は存在しません。魔界にのみ生息する存在です。その魔獣こそが、問題解決の糸口になるんです」
落ち着きを取り戻したビクトールがお茶を一口飲みながら尋ねた。
「で、その魔獣が翼の色と、なんの関係があるの?」
「それが、なんと恐怖なんです。危険な魔獣に囲まれて生きなければならない魔界人たちの心は疲弊し、やがて闇に紛れられる色へと変化していった。そう、文献には記されていたんです」
熱く語るキャロルの言葉に、誰一人として口を開く者はいなかった。
ただ、静かな恐怖と、これこそが打開策になるのではという希望が、部屋の中に漂っていた。
◇◇◇
話を聞いていたザックは、眉をひそめた。
「そんな本当かどうかも分からない話を信じて、魔獣と戦わせるんですか? 俺は、反対です!」
「俺は……」
ユリウスは一度言葉を切ってから、まっすぐザックの目を見つめた。
「俺は、可能性があるのならやるべきだと思う。このまま何もしなければ、拓海様は魔法を学べない」
「それでもいいじゃないですか。拓海様は、拓海様です! それに拓海様は、人間として暮らすことをのぞんで――」
「俺たちは、いつまでもそばにいられないんだぞ!」
ユリウスの言葉に、ザックがはっとした。
「俺たちが魔界に戻ってしまえば、拓海様はひとりになる。そこへ、魔界から刺客がきたらどうするんだ」
その言葉に、ザックの胸に鈍い不安がじわりと広がる。
「で、でも、拓海様のことは秘密なんですよね? だったら、刺客に襲われることなんて――」
「前に来ただろ。しょぼい奴が」
ユリウスとザックの頭に、仮面をつけたうるさい少女の姿が浮かんだ。
「……ユリウス様。実戦には俺も参加して、拓海様をサポートしてもいいですか?」
「もちろんだ。ザックだけじゃなく、俺もいる。それに拓海様を守るため、魔界から応援が来る予定だ」
「応援? どんなやつが来るんですか?」
「ビクトールさんのほうで選抜するらしいから、詳細は未定だ」
「わかりました。やるしかないなら、俺は全力で拓海様を守りますよ」
「ああ。任せた」
拓海の特別授業に向けてザックの同意を得られ、ユリウスは、ほっと胸をなでおろした。
その先にどれほどの危険が待っているのかを、まだ誰も知らないまま。




