95 テストと休暇と、特別授業
嶌村家の台所では、ザックが夕飯の支度に取りかかろうとしていた。
冷蔵庫から野菜を取り出して流しで洗っていると、魔界へ行っていたユリウスが台所に入ってくる。
「今、戻った」
「お帰りなさい。秘書官室の皆さんに、すごく元気になったって驚かれました?」
「ああ。ビクトールさんにはちょっとからかわれたけどな」
ユリウスは、いつもの席に腰を下ろしながら言った。
ザックが冷たい麦茶が入ったグラスをユリウスの前に置くと、自分も腰を下ろす。
「魔界で何かあったんですか? 暗い顔してますけど……。まさかまた熱が?」
「さすがに、もう治ったよ。……実は、皇子教育のことで決まったことが――」
ユリウスが話しだそうとしたとき、ドアが開いて、拓海がやってきた。
「あ、ユリウスさん。お帰りなさい」
「拓海様。ただいま戻りました」
「用事はもう終わったんですか?」
「はい。大体片付きました。それより、拓海様」
ユリウスは姿勢を正すと、まっすぐ拓海の目を見た。
「私に休暇を取るように進言してくださったと伺いました。お気遣い、ありがとうございます」
ユリウスがブラッドフォード卿付きの秘書官室から辞去しようとしたとき、そのことを聞かされたのだ。
拓海がユリウスに休みをあげてほしいと手紙を送っていたことを。
そして、その手紙を読んだブラッドフォード卿から、正式に休暇の許可がおりたのである。
「えっと、ザックさんにお願いして、ユリウスさんの上司さんに伝えてもらったんです。人間界に来てからずっと休みがないなんて、あまりにもブラック過ぎますからね」
拓海が、すこし怒ったように唇を尖らせた。
その様子に、ザックが目を細めながら後を続ける。
「それで、休暇は取れることになったんですか?」
「ああ。三日ほど休むことになった」
「え! たった三日ですか? 一週間とかじゃないんですか? ザックさん。僕、もう一度手紙書きます!」
想像より短い日数に、拓海は今にも部屋に戻って手紙を書きそうな勢いだ。
「落ち着いてください、拓海様。多分、ユリウス様のほうで休暇の日数を減らしたんだと思います」
ザックが慌ててなだめると、拓海は「そんな……」と力なくつぶやいて、足元に視線を落とす。
納得がいかない顔の拓海に、ユリウスが口元をゆるめながら説明する。
「熱で三日も寝ていましたから、休暇は三日で十分なんです」
「でも、僕はもっと、ユリウスさんに休養してほしかったです……」
「お気持ちうれしいです。あ、ちなみに、休みは来週の木曜から土曜の三日間の予定です」
「来週の木曜日って……え、それって!」
「はい。中学校の中間テスト期間に合わせて取ることにしました」
にっこり笑うユリウスに対して、拓海は今いちばん聞きたくない言葉を耳にして、「うっ、その言葉は心臓に悪いです」と顔をしかめて胸を押さえた。
その大げさな様子に、ザックが思わず吹き出した。
夜になり、三人は一緒に夕食をとった。
食事が終わると、拓海は中間テストに向けての勉強をすると言って、部屋へ戻っていった。
残ったユリウスとザックは、食器を二人で手際よく洗い終える。
そのあと、ザックがコーヒーを淹れてくれたので、一息つこうと二人は食卓についた。
「じゃあ、ジェフリーの奴、パーシーを部屋に入れたんですか?」
ユリウスの話を聞いたザックが、うわーっと気の毒そうな顔をした。
「ああ。女性だと勘違いしたらしい」
ホテル・マーサいちのトラブルメーカー、パーシーは占い師だ。
自称売れっ子の彼は、ときおり貴族のマダムたちが集まるサロンに呼ばれて占いをしている。
そのたびに、「きちんとした身なりで」と念を押されるので、彼は女装して出かけていくのが常だ。
化粧をしたパーシーは、誰が見ても色気たっぷりの美女になる。
おまけに仕草まで妙にこなれていて、それがかえってマダムたちにも好評らしい。
「まあ、確かに、化粧したあいつはすごい美人になりますからね。ジェフリーが、すけべ心で部屋に入れたのも……まあ、分からなくもないですが……」
ザックが、どこか同情を滲ませながら言う。
「でも、パーシーは俺たちの行方を知りたかっただけだ。何と言っても、パーシーの本命はザックだからな」
「やめてください! そんな言葉、聞きたくありません!」
おどけて言うユリウスの前で、ザックは自分の腕で自分を抱きしめ、ぶるりと大きな体を震わせた。
ホテル・マーサで起こった騒動の顛末はこうだ。
帰ってこないザックの行方を知りたがったパーシーは、ジェフリーの部屋を訪ねた。突然の美女の訪問に舞い上がったジェフリーが、もっと親しくなりたい一心で強引に迫ったらしい。
だが、好みでもない男にいきなり手を握られて、パーシーは激怒した。
その場で女装を解き、「なにするんだ。この野郎」とドスの利いた声で怒鳴りつけると、ただのおっさんに戻ったパーシーを見て、ジェフリーは仰天。
逃げ出したジェフリーを、パーシーがホテルじゅう追いかけ回した――。
というのが、今回の騒動の真相だ。
「それにしても、本当、ジェフリーって迷惑な奴ですね」
「ああ。おまけに逃げ回って、ホテルの備品をいくつか壊したらしくてな。その弁償を俺にするよう、マーサに言われたんだ」
「え、ユリウス様が? それで、いくら払えって言ってきたんですか」
ユリウスが請求書に記されていた金額を口にすると、「ひっ」と小さな悲鳴を上げ、ザックが口元を覆った。そのまましばらく固まってから、ゆっくりとユリウスのほうへ振り向く。
「ま、まさか。それ、本当に払う気ですか……」
「いや、実はヨアヒムさんが支払いをしてくれて、その代わりに――」
ユリウスは、ホテル・マーサで起こったことを順に話した。
その流れで、狼と三日月のマダム・デリアの話も付け加える。
すると、ザックが腹を抱えて笑い出した。
「あははは。ユリウス様が、恋のお手伝いなんて。そ、そんなの、無理ですよ。くっ、くく」
「……おい。笑いすぎだぞ!」
涙を流して笑うザックを、ユリウスの青い瞳が氷のように冷たく射抜いた。
「はは……すみません。でも、あまりに高難度の依頼だったので、つい」
「まあ、相手はどこの誰かもわからないし。多分、進展はしないと思う……」
「そうなんですか?」
ザックは残念そうな顔をしたが、マックスと話をしたあと、ユリウスは自分の部屋に戻ると、ヨアヒムに電話をかけて報告した。
「ああ、ユリウス様。それで、坊ちゃまのお相手のこと、分かりましたか?」
受話器の向こうから、興奮した様子のヨアヒムの声がした。
「名前や住所などの詳しい情報は得られませんでしたが、彼女の種族はわかりました」
「種族?」
電話の向こうの声が、わずかに緊張を帯びたのが分かった。
「コウモリ族の女性です。瞳孔が赤かったというので、間違いないと思います」
ユリウスが一息で告げると、しばし受話器の向こうは沈黙した。
「……情報をありがとうございました。あとのことは、私のほうで処理をいたします。ユリウス様も、この件はどうかお忘れください」
そう言い残し、電話は切れた。
「あの、俺でよければ、お手伝いしますけど」
恋愛ドラマ大好きなザックが、腕まくりしながら言う。だが、マックスの恋愛はもう終わったも同然だ。少し罪悪感はあったが、ユリウスはこの件から手を引くことに決めている。
それになにより、自分たちには、やらなければならないことがある。
「マックスのことは、ヨアヒムさんがどうにかするはずだ。……それよりも、ザック。拓海様への特別授業が決まった」
「特別授業? なんですか、それは」
首をかしげるザックに、ユリウスの表情が真剣になる。
「実戦だ」
「え?」
「魔獣を召喚して、戦ってもらう。拓海様の初めての実戦が決まったんだ」
穏やかだが、有無を言わせぬ気迫をまとったユリウスに圧倒されて、ザックは何もしゃべれなかった。




