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94 厄介事の予感

「では、ユリウス様。例の件、よろしくお願いいたします」


 ヨアヒムさんは俺の手を取り、まるで念でも込めるみたいにぎゅっと握りしめた。


「あ、はい。できるかぎり、その、やってみます」


 俺はなんとも頼りない返事しか返せなかった。マックスの恋愛の手伝いなんて、考えただけで、胸のあたりが重くなる。でも、ヨアヒムさんは俺が引き受けたことに満足したように、目尻にしわを寄せて笑うと、上機嫌な足取りでホテル・マーサを出て行った。


 俺は、ちらっと受付カウンターに視線を送る。

 そこに座る、がめつい老婆は、名門オステルマン家の家紋入りの小切手を、まるで宝物みたいに眺めては、ほくそ笑んでいる。


 くそ。ヨアヒムさんの申し出を断る間もなく、備品の弁償の話はさっさと片がついてしまった。これで、完全に逃げ道を塞がれたのだ。


 俺はため息をつくと、マックスに会うため、ホテルの階段を上り始めた。

 ホテルには一応エレベーターが設置されているが、若者は使用禁止となっている。勝手に使うと、マーサからすぐにクレームが飛んでくるのだ。お小言を聞かされるのが面倒な俺は、断然階段派だ。


 一段踏み出すたびに、ぎしっと軋む音がする古い階段を上っていき、俺は三階にあるマックスの部屋へとたどり着いた。


 マックスの部屋は、俺の部屋の隣にある。一瞬、先に自分の部屋へ入って一息つこうかとも思ったが、嫌なことは先に片づけようと思い直し、ドアを叩いた。


「おい、マックス。いるか?」


 返事はない。だが、ヨアヒムさんからマックスは在室中だと聞いていたので、もう一度声をかける。


「いるんだろ。ちょっと話がしたいんだ」


 しばらく待っていると、きいっとドアが開き、目の下にクマを作ったマックスが、顔を覗かせた。


「……話ってなんだ?」

「中で話そう。入るぞ」


 俺は、マックスの返事を待たずに部屋へ入った。

 相変わらず本の山だが、室内はきれいに掃除されていて、ほこりひとつ落ちていない。まあ、執事のヨアヒムさんが毎日通ってきているのだから、当然といえば当然だが……。

 室内は整っているものの、肝心のマックスは、仕事から戻ってそのまま文官服で寝転んでいたらしく、服はしわだらけになっている。


 俺は簡易ダイニングの小さな椅子に腰を下ろし、マックスはベッドにどさりと座った。


「……どうせ、爺やに何か言われてきたんだろうけど、僕は別に病気じゃない。だから病院には、絶対行かないから」


「その話じゃない。……お前、探したい人がいるんじゃないか? もしそうなら、力になれるかもしれないぞ」


「な、なんで、人を探しているってわかるんだ?」


 マックスが驚いたように目を見開き、しわだらけの文官服の胸元を、ぎゅっと握りしめた。


「はは。お前の机を見たらわかるさ」


 俺は笑いながら、部屋に備えつけられた机を指さした。

 机の上には、書きかけの魔法陣と、捨てようとして丸められた用紙がいくつも置かれている。そのどれにも、人探しの術式を書きかけた跡が見て取れた。

 何度も書き直しているのだろう。マックスの手も、インクで黒く染まっていた。


「あ、その。……実は、ある人に、もう一度会いたいと思って。それで、魔法陣で探せないかと思って……」


 顔を赤くして話すマックスに、俺は「マダムの言う通りなのか」と内心で軽く衝撃を受けたが、表情には出さずに続けた。


「じゃあ、その人のこと、俺に話してみないか」


「ユリウスに?」


「ああ。俺は仕事柄、人探しなんかもしたことがあるから、役に立てるかもしれないぞ」


「ユリウスー!」


「わあっ!」


 いきなりマックスに抱きつかれて、俺は慌てた。こんなふうにスキンシップをしてくるようなやつじゃないのに。恋って、人を変えるのか? 俺は、内心で首をひねった。

 それから俺は、時間をかけてマックスから相手の情報を引き出した。


「なるほど。商店街の通りで、散らばった本を一緒に拾い集めてくれたのが、最初の出会いなんだな。それで、相手の名前は聞いてないと」


「ああ。そんなの、思いつかなくて……」


 当時を思い出したのか、マックスが悔しそうに唇を噛んだ。


「まあ、一瞬の出来事なら仕方ない。それより、相手の容姿についてはどうだ? 顔立ちとか、服装や持ち物に目立った特徴はなかったか?」


 俺の問いを受けて、マックスは「うーん」としばらく悩んだあとで、ようやく口を開いた。


「目と鼻と口がついていたのは、見た」

「……そうか。ちゃんとついていたか。良かったな」


 俺の頭の中に、「前途多難」という文字がくっきりと浮かぶ。そのとき、マックスが声を張り上げた。


「思い出した。目の下に黒子があった」


「そうか、黒子か。他に思い出したことは?」


「目が……。瞳孔が赤かった。見たことのないくらい美しい瞳だったから、見とれてしまったんだよ」


 思い出して顔を赤くするマックスの前で、俺は黙り込んだ。

 瞳孔が赤かったって、それはコウモリ族の特徴だ。名門オステルマン家の嫡男のマックスが恋をした相手は、魔界で嫌われ者とまでいわれている種族の女性だなんて……。


 俺は、その事実を告げるべきか判断できず、マックスの様子をそっとうかがった。

 マックスは、すごく楽しそうだった。まるでこの世の幸運をすべて手に入れたみたいに、瞳が輝いている。


 そのとき、俺は気づいた。マックスが恋をしているとマダム・デリアから聞かされたとき、胸がもやもやした理由に。

 それは、俺がこんな顔をしたことがないからだ。誰かを好きになって、会いたいと思う気持ち。そんなふうに胸を焦がす思いを、まだ一度も感じたことがない。だから、うらやましいと思ったんだ。


 だが、友人の初めての恋は、間違いなくいばらの道だ。

 俺が協力してどうにかなる話じゃない。拓海の特別授業に続き、また厄介事が増えてしまい、俺は深いため息をひとつ漏らした。


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