93 ヨアヒムの相談
ダウンタウンにあるカフェバー「狼と三日月」のカウンターに、ユリウスと白髪の老人が並んで腰かけていた。
木目の美しいカウンターには、淹れたばかりのコーヒーが置かれ、白い湯気が静かに立ちのぼっている。
「お時間を割いてくださり、ありがとうございます。ユリウス様」
魔界の名門貴族のひとつ、オステルマン家で執事を務めるヨアヒムが、深々と頭を下げた。品のいい白髪の老人のそこまでかしこまるのを見て、ユリウスは慌てて口を開く。
「そんな、どうか顔を上げてください。……それで、相談というのは、やはりマックスのことでしょうか」
マックスの名前を口にした途端、ヨアヒムは嗚咽をこらえるように口元を真っ白なハンカチで押さえ、そのまま泣き出してしまった。
「だ、大丈夫ですか、ヨアヒムさん」
ユリウスは小さな背中にそっと手を添え、なだめるように優しくさすった。
「も、申し訳ありません。坊ちゃまのお名前を聞いて、少々取り乱してしまいました……。実は、最近の坊ちゃまは、あまりお召し上がりにならず、夜も十分に眠れておりませんで」
「……その、それは、マックスにとってはいつものことなのでは?」
俺の知っているあいつは、食事や睡眠よりも魔方陣の研究に没頭する男だ。だから、いつも顔色が悪くて、不健康そうな見た目をしている。なので、そんなに心配しなくても――と思う。
口が裂けても言えないけど。
「いいえ。いつもとは、まったく違うんです。私には、わかるんです!」
ヨアヒムが思わず声を張り上げたので、カウンターの向こうでグラスを磨いていた、マダム・デリアが、ちらりとこちらと見た。
ユリウスは慌てて声を落として、「どんなふうに、いつもとちがうんですか」と尋ねる。
「大好きな魔方陣の研究も上の空だと、職場のメイリンさんが教えてくれました」
「え、魔方陣の研究が上の空? マックスが、ですか?」
ユリウスが驚いたように問い返すと、ヨアヒムは小さく頷いた。
それは、驚いたな。あの、魔方陣命のマックスが……。
「それで、ほかに変わったところはありますか?」
「はい。ぼんやりしていたと思ったら、何度もため息をついたり、ときには理由もなく顔が赤くなったりして。ユリウス様……坊ちゃまは、お体がどこか悪いのでしょうか? お恥ずかしながら、坊ちゃまは大の病院嫌いでして。何度受診を勧めても、まったく行こうとはなさらないのです。そこで、ユリウス様から病院に行くよう、ぜひ説得していただきたいのです」
「確かに、心配ですね。ぼんやりして、ため息が多くなって、顔が赤くなって、研究にも集中できないとなると、やはり何かの疾患なのかも――」
「何を言ってるのよ、あなたたち」
ユリウスの言葉を遮るように、マダム・デリアが口を挟んだ。
「そんな症状に当てはまるものなんて、一つしかないでしょう」
「え、マダムはその症状に当てはまるものを知っているんですか?」ユリウスが尋ねた。
「ぜ、ぜひ、教えてください!」
すがるような眼差しでヨアヒムがマダム・デリアを見る。
「恋よ」
「は?」「え?」
ユリウスとヨアヒムの声が、ぴたりと重なった。
「マックスさんは、誰かに恋わずらいをしているのよ」
ウィンクしながらさらりと言い切るマダム・デリアに、ユリウスとヨアヒムは唖然とした顔で、互いを見合わせた。
◆◆◆
ユリウスは、「狼と三日月」を出ると、ホテル・マーサへ向かって歩き出した。
普段と変わらない顔つきをしているが、さきほどマダム・デリアから聞いた言葉が、頭の中で何度も繰り返されている。
マックスが恋わずらい? 魔方陣以外にほとんど興味を示さなかった、あの天才肌の変わり者が?
友としては喜ばしく思う。なのに、胸の奥では何かがくすぶっている。けれど、それが何なのかは、俺自身もわからない。
だが、ヨアヒムさんから、マックスの想い人について聞き出してほしいと頼み込まれてしまった。無下に断れなかったので、これからマックスに会いに行かないといけない。
なんだろう。ひどく、気が重い。
そのとき、目の前を歩いていた老婆が、窪んだ道に足を取られ、持っていた買い物袋を地面に落とした。缶詰や果物が、歩道の上を勢いよく転がっていく。
「ああ、買ったばかりの食料品が」
老婆は慌てた。ここダウンタウンでは、落ちていた物を拾った者がそのまま持ち去るなど、日常茶飯事なのだ。
だが、老婆に代わり、ユリウスが素早くそれらを拾い集め、袋に戻して老婆に差し出した。
「はい、どうぞ。全部入っていると思いますよ」
「まあ、ありがとう。こんなイケメンに親切にされて、今日はとってもいい日になりそうだよ」
「はは。それは、良かったです。じゃあ」
「あ、待って。これ、お礼だよ」
立ち去ろうとしたユリウスに、老婆は袋からリンゴを一つ取り出して、ぐいっと押し付けてきた。
「あ、いえ。結構です」
「遠慮なんてしないの。親切なお兄さんに、魔王様のご加護がありますように」
老婆は笑顔でそう言うと、元気に歩いて行った。
ユリウスは、もらったリンゴをじっと見た。
昨日からやたらと、こいつと縁があるな。
赤い顔をしたそいつを袖で軽くこすると、がぶりと齧りつく。口の中に甘い果汁が広がるのを感じながら、ユリウスも歩き出した。
◆◆◆
「待ってたよ、ユリウス」
俺がホテル・マーサに足を踏み入れた途端、受付カウンターに座っているオーナーのマーサが声をかけてきた。
いつもは愛想の悪いマーサが、別人のように明るい笑顔だった。
ホテルのロビーに流れるレコードの曲はいつも通りなのに、この老婆だけは普段と違う。俺はすごく嫌な予感を覚えながらも、カウンターに近寄った。
「ジェフリーが問題を起こしたって聞いたけど、何があったんだ?」
「ああ。あの男ったら、大声で叫びながらホテルじゅうを走り回ったんだよ。そりゃあ、うるさいのなんのって」
マーサはその騒ぎを思い出したのか、眉をひそめながら言った。
「そうか……。騒がしくして、悪かったな」
一応、このホテルに入居にあたって、俺が身元引受人になっているので、頭を下げた。
「謝罪なんていいんだよ」
そう言ってマーサは、一枚の請求書をカウンターの上を滑らせるように、俺の方へと寄こしてきた。
「これは?」
俺はそれを手に取り、金額を見て、息を飲んだ。車が一台買えるだろ、これ。
「それはね、あの男が走り回って壊した、ホテルの備品代だよ」
「それにしたって、この金額はないだろ。どう考えたって、高額すぎる! それに、請求するなら、俺じゃなくてジェフリーにだろうが」
さすがに身に覚えのない弁償を求められて、俺は食ってかかった。
「おやおや、ユリウス。あんた、あの男を入居させるときに一筆書いただろ? 何かあったら、あんたが責任を負うと」
にやにや笑ってそう言うマーサに、俺は、言葉に詰まり、黙った。
俺がどうしたものかと悩んでいると、横から皺の刻まれた手が、俺の持っていた請求書をさらっていった。
「こちらの代金は、オステルマン家でお支払いいたします」
さっき別れたはずのヨアヒムさんが、そこに立っていた。
「さすが魔界の名門貴族だけあって、太っ腹だねえ」
俺よりもよほど金払いのいい人物の登場に、マーサは目を輝かせている。
「そんな、ヨアヒムさんに、オステルマン家は何も関係ないじゃないですか」
俺が唖然として言うと、
「いいえ」
ヨアヒムさんが、きりっとした表情になった。
「ユリウス様には、これから大切なお役目があります。……それの前払い金と思えば、このような少額、大したことではありません」
にこにこと笑うヨアヒムさんの顔を見て、俺は悟った。
マックスの想い人を聞き出すだけじゃなく、その恋を成就させるために、俺も巻き込むつもりなのだと。
……正直言って、俺はそんな役目に、まったく向いていないのに。




