92 秘書官室で決まったこと
翌日。
ユリウスは、魔王城の静まり返った廊下を歩いていた。
ブラッドフォード卿の執務室に近いこの一角には、一般職員の姿はなかった。
磨き上げられた床の上を進むたび、こつ、こつ、と靴音だけが長い廊下に反響する。
不意に差し込んだ光に足を止め、ユリウスは窓の外へと目を向けた。
整えられた樹木の緑が光を柔らかく受け止め、石畳の上に葉影をこまかく落としている。その上空を舞う小鳥たちが、楽しげにさえずっている。
この城の内側に漂う重苦しさとは無縁に、窓の外にはのどかな風景が広がっていた。
「ザックはどう思うかな……」
風景を眺めていたユリウスの口から、ぽつりとつぶやきが漏れた。
つい先ほどまで、ブラッドフォード卿付きの秘書官たちと皇子教育について話し合っていたのだ。
秘書官室には、簡易応接コーナーがある。革張りのソファーに座っている第一秘書官のビクトールが、難しい顔つきでユリウスを見てきた。
「翼の色が白だったというのは、見間違いじゃないんだね?」
さっき顔を合わせたときには「彼女がいれば優しく看病してもらえるのに。ザックにしてもらうとか、ほんとさみしいねえ」などと茶化していたのが嘘のように、いまは真剣な表情だ。
「はい。これは、翼が現れたときに落ちていたものです」
ユリウスは、小さな丸テーブルの上に、一枚の白い羽をそっと置いた。
ビクトールがそれを手に取り、しげしげと眺めてから、隣にいるアンドリューへと渡す。アンドリューも同じように羽を観察したが、首を小さく左右に振ると、羽をテーブルに戻した。
「キャロル。ちょっと、来てくれる?」
ビクトールが、第五秘書官のキャロルを呼んだ。
ほかに第三、第四秘書官もいるが、本日は定例会議に出席しているブラッド卿のお供で不在だった。
尊敬してやまない上司に呼ばれて、キャロルは上機嫌でやってきた。
「何かご用ですか、ビクトールさん」
「ちょっと、この羽の魔力を鑑定してくれる?」
「わかりましたー」
渡された羽を右手に持ち、キャロルが自分の魔力を流し込む。淡い光が羽に満ちた瞬間、電気がショートしたみたいに、ばちっと光った。
「あ、反発してますね。これ、天界のほうの魔力です」
「やっぱりかあ……。ありがとう。仕事に戻っていいよ」
キャロルは「はい」と返事をし、ゆっくりと席に戻っていく。
「キャロルは、大学で天界と魔界の魔力の違いを研究してたから、こういうのは僕らより詳しいんだよ」
ユリウスにそう説明するアンドリューの横で、ビクトールは足を投げ出し、ソファーの背もたれで思いっきりのけぞって叫んだ。
「どうするんだよ、これー」
「ちょっと、ビクトールさん。ユリウスがびっくりしますから、ちゃんと座ってください。それと、声が大きいです」
だらしない姿には慣れているアンドリューも、さすがにこれはないと注意した。
けれど、ユリウスも「自分も同じ気持ちです」とでも言いたげな目を向けてくる。
「ねえ、アンドリュー。転生した皇子様の翼が真っ白でしたーって、魔王様に報告できそう?」
「いえ。そういう重要事項の報告は、第一秘書官の仕事かと……」
「ほーら。嫌な役は、ぜんぶ僕にお鉢が回ってくる。こんなの報告してみなよ、どんな目にあうかわかったもんじゃない……。僕には、愛する奥さんと三人の子供がいるんだよ。路頭に迷わせるわけにはいかないでしょうがー」
「お子さんたち、ビクトールさんにそっくりですもんね」アンドリューが相槌を打つ。
「そうだよ」
ビクトールは姿勢を正し、
「写真あるけど、見る?」とユリウスに尋ねた。
「あ、いえ。今は遠慮しておきます」
穏やかな笑みを浮かべながらも、内心では脱線しすぎだろとつっこんでいた。すると――。
「あのー、ひょっとして、さっきの羽って、例の方のものなんですか?」
席に戻ったはずのキャロルが、すぐ近くに立っていた。
「あー、聞こえちゃった? うん、そうなんだよ。でも、ここだけの秘密にしてね」
ビクトールにそう言われて、キャロルはこくこくと頷いた。
「キャロルさんは、魔力について研究していたんですよね。白い翼を黒に変えることって、可能でしょうか?」
ユリウスが、真剣な目でキャロルを見つめた。
「黒から白に変化した事例は聞いたことがありませんが、逆に白から黒になった例ならありますよ」
「え、本当ですか。それは一体、どういう経緯でそうなったんですか?」
ユリウスが身を乗り出して、キャロルに問うた。
「やだなあ、皆さんも知ってるでしょ。魔王様ですよ、魔王様はもともと天界の大天使だったんですから、その頃の翼は白だったはずです。魔界に下ったときに、黒に変わったんです」
キャロルの言葉に、その場が静まり返った。
「……アンドリュー、魔王様に面会して、その方法を聞いてきて」
「なっ。無茶言わないでくださいよ。そんなの聞けるわけないでしょう。部下を殉職させる気ですか!」
「だよねー。はあ……どうしたもんかなあ」
秘書官室にあきらめムードが漂い、ユリウスの表情も暗くなった。
そのとき、キャロルがおそるおそる手をあげる。
「あのー。それなら、ちょっとご提案したいことがあるんですけど」
三人の視線を集めたキャロルが口にしたのは、とんでもない話だった。
◆◆◆
庭を眺めていたユリウスが、はあっと大きく嘆息した。
拓海の背に翼が現れた瞬間を、ザックは見ていない。持っていた和菓子の包みにちょっかいを出してきたコディを追い払っていたからだ。
今回の話し合いで、拓海の翼の色を変化させるための特別授業を行うことが決まった。
俺が以前、拓海を崖から突き落としたときと同じくらい危険なものだ。
ザックがそれを知れば、猛反対するだろう。悪くすれば、拓海に話してしまうかもしれない。それを防ぐために……ザックには内緒でことを進める。それしかない。
心を決めたユリウスは、まっすぐ前を向いて歩き出した。そのとき。
「おい、ユリウス」
背後から名前を呼ばれた。
「あ、アンドリューさん。どうしました?」
「伝言があったのを忘れてた」
「伝言ですか?」
「ああ。オステルマン家の執事のヨアヒムさんが、連絡をほしいそうだ」
「ヨアヒムさんですか?」
「ああ。何か相談したいことがあるみたいだ」
相談というのは、おそらくマックスのことだろう。だが、それを俺にするとは珍しい、とユリウスは思った。
「わかりました。連絡とってみます。じゃあ、アンドリューさん、これで失礼します」
ユリウスが歩き出そうとすると、
「ユリウス!」
「はい?」
「えっと、僕が持って行った本は読んだ?」
「あ、はい。全部じゃないですが、あらかた目は通しました」
「そうか……。貴重な本もあったはずだから、なるべく全部読んだほうがいい。ほら、勉強になると思うし……」
「わかりました。ご忠告ありがとうございます」
笑顔で去っていくユリウスの背を見ながら、アンドリューは、ふうっと息をついた。
魔界貴族年鑑を読んだか気になって聞いてみたが、どうやら未読のようだ。安心したと同時に、もどかしくも思う。だからといって、背中を押すのも違う気がする。
悪いな、ユリウス。もうレースは始まっているんだ。誰がブラッドフォード卿のご息女を射止めるか。僕は、このレースに参加することを決めた。だから引く気はない。
そう強く思いながら、銀色の長い髪を揺らして歩いていく姿に、アンドリューは自嘲気味につぶやいた。
「まあ、顔も名前も、まだ知らないんだけどね……」
アンドリューが漏らした声は、魔王城の廊下に静かに消えていった。




