91 白い翼の意味
拓海様は就寝のため、自室へ向かった。
本当は、まだユリウス様と話していたかったようだが、「中間テスト」という言葉を出すと、大人しく二階へ行った。
俺は今、拓海様がいなくなり静かになった台所で、ユリウス様と向かい合って座っている。
ユリウス様はさっきのリンゴの件でへそを曲げたのか、頬杖をついたまま横を向き、こちらを見ようともしない。
まあ、とりあえず進めるか。俺はユリウス様の不機嫌には触れず、口を開いた。
「拓海様のことは、玄関で話した通り、特に変わったことはありませんでした。ジャガイモの皮むきの最中に、指を切っちゃいましたけどね。実はあれ、杉咲先輩に見とれて、手元が狂っちゃったんです。まったく、かわいいったらありませんよね」
俺が、いかにも微笑ましいとばかりに目を細めるが、返ってきたのは棘のある声だった。
「おい。さっきのなんだよ」
「え? 何がです?」
「俺が、仮面の娘を、その、気に入ったってやつ……。なんで、そんな嘘をつかなきゃいけなかったんだ」
ユリウス様は不機嫌を隠そうともせず、俺を睨んできた。
「本当に、ユリウス様は……」
「おい。そういうのはいいから、きちんと説明しろ」
「はあ、わかりました。ユリウス様には、順序立てて説明しないと、こういうのは理解できませんからね。……だから、恋愛ドラマも観た方がいいって勧めてるんです。少しは恋愛の機微もわかるようにならないと」
ぼそっと俺が言うと、ユリウス様が、じっと、無言の圧で先を促す。
「あのときユリウス様は、たくさんあった果物の中から、リンゴを手に取りましたよね?」
「リンゴ? ああ。取ったな」
「魔界にはですね――」
俺は拓海様に話したときと同じように、果物に込められた意味を教えた。
「はあ? リンゴの意味が『君に恋をする』? あほらしい。いいか。俺がリンゴを取ったのは偶然だ。特に何か考えての行動じゃない。それに、俺……あの子のこと苦手だし」
「まあ、向こうにしたら、ユリウス様はセクハラ男ですけどね」
「おい! 違うって言ってるだろ!」
ユリウス様は語気を荒らげ、大声を出したので、俺は慌てて口の前に指を当ててみせた。
「大声は出さないでください。拓海様が起きちゃいます」
「あ、ああ。すまん……。でも、セクハラなんてしてない。本当に違うんだからな」
「あー、はいはい。わかってますよ」
ユリウス様は恨めしそうな目を向けてくる。さすがに、ちょっとふざけ過ぎたか……。俺は少しだけ反省し、気持ちを切り替えることにした。
「雑談はここまでにして、魔界からいくつか連絡がきているので、お伝えますね」
おどけた様子から一転、真面目な表情に変わったのを見て、ユリウスも居住まいを正す。
「その前に、一つだけ……」
俺はザックに向かって頭を下げた。
「寝込んでいるあいだ、ザックには迷惑をかけたな。すまなかった」
「そんなのはいいんです。具合が悪かったんですから。でも、本当に体は大丈夫なんですか? 食事だって、病み上がりだから胃に優しいものをって提案したのに、普通食でいいって言うんですから」
ザックが困惑したような目でこちらを見る。まあ、それも無理はない。あれだけ高熱が続けば体力が落ち、元の状態に戻るには、ある程度の時間を要するだろう。
けれど、夢でアウローラに会ったせいか、俺の体は病気になる前よりも、むしろ元気になっていた。疲労で動けなくなっていた体の細胞一つひとつが、急に息を吹き返し、一斉に活発に活動を始めたみたいだった。
「ああ、すっかり元通り。今なら、はぐれドラゴンも簡単に退治できそうだ」
俺がにやりと笑う。それまで半信半疑だったザックも、俺が軽口を利かせるくらいには、いつも通りに戻ったと、ようやく納得してくれたようだ。
「それなら良かったです。じゃあ、話しますね」
ザックがズボンのポケットからしわくちゃの紙を取り出し、読み上げ始める。
「えっと、まずは……。第一秘書官のビクトールさんからです。病気が治ったら、顔を見せに来るように、とのことです」
「わかった。明日、さっそく行ってくる」
「第二秘書官のアンドリューさんは、病院への入院、あるいは医師の派遣を希望するかどうか、という問い合わせでした」
「もう治ったから、それは不要だな。明日、ついでに話してくる。他には?」
「ちょっと面倒ごとがありまして……」
ザックが言いにくそうに声を落とした。
「なんだ?」
「新しく入居したジェフリーのことで、マーサからユリウス様に話があると」
ザックが気の毒そうにユリウスをちらっと見る。ユリウスはその名前を聞くと、眉根を寄せ、天井を仰いだ。
ジェフリーとは、ユリウスの情報屋まがいの仕事をしている、魔王城勤めの文官だ。宿舎で問題を起こして家なき子になっていたところを、ユリウスの口利きで、ホテル・マーサに住まわせてもらっている。
「……あいつ、何かやらかしたのか?」
「いえ、どっちかって言うとジェフリーじゃなくて、パーシーのやつが騒いだみたいです。その……ユリウス様と、俺がどこに行ったか知ってるんじゃないかって部屋に押しかけたらしくて。驚いたジェフリーがホテルの中を逃げ回って、ちょっとした騒ぎになったらしいです」
ユリウスは大きなため息をついた。
「わかった。マーサに会って、俺からも謝罪してくる……」
まあ、ペンダントの修理を頼みにビルに会いに行くつもりだったから、ホテル・マーサへ行く予定はもともとあった。それにしても、パーシーのやつ。ホテル・マーサのトラブルメーカーの顔を思い出し、内心げっそりする。
◇◇◇
まだ眠くはなかったが、俺は早めに部屋へ引き上げた。
熱が出て、さんざん寝たんだから、本当は起きていたかったが、ザックが「今夜は早く休んだ方がいい」とうるさいので、大人しく意見を聞き入れることにしたのだ。
俺はベッドに腰を下ろした。
そのとき、ベッドサイドテーブルに置かれた一枚の絵を手に取る。
「これか。ザックが言っていた絵は」
薄桃色の花が描かれていた。色鉛筆で描いたというが、写真と見紛うほどだ。芍薬という名の花だそうだが、俺が谷から家に帰るときに摘んだ花に、どこか似ている気がした。
ふっ。だから、夢の中にアウローラが出てきたのかな……。
絵を机に飾ろうとして、山積みになった本の山が目に入った。
まるで現実に引き戻そうとするみたいに、無言の圧を感じる。
「翼に関する本を整理しないとな」
机と、その周囲に積み上がった本の量に、思わずため息が出た。
とりあえず、机の上に出しっぱなしになっていた本から片付けようとして、ひときわ装丁の立派な一冊が目にとまる。
「魔界貴族年鑑か……。皇子教育で使おうと思って、頼んでいたんだったな」
片付ける手を止め、魔界貴族年鑑のページを開こうとした。そのとき、背後でがちゃりとドアが開いた。
振り返ると、ドアの隙間からコディが顔を覗かせている。俺は本を元に戻し、ドアの方へと近寄る。
「どうした、コディ」
コディは、あらかじめ用意していたらしい紙を、俺へと差し出した。
「俺が寝込んでいたときの報告書か?」
コディが、こくんと頷く。
「渡しに来てくれたのは感心だ……でも、前にも言ったぞ。勝手に部屋に入るな。まずは、ドアをノックして、確認しろ。わかったか?」
口調は穏やかだが、厳しい光を帯びた瞳で見つめられ、コディはぱっと敬礼してみせた。そして、静かにドアを閉めて、いなくなった。
閉じたドアの向こうから、小さく息を吐く気配がした。
俺は、コディに渡された報告書に目を通したが、翼についての記録はなかった。拓海の翼は、あのときの一回きりで、再び現れてはいないようだ。
翼を自由に使えるようにするには、これから訓練が必要だ。だが、それよりも早急に解決しなければならないのは、あの白い翼だ。
魔界人とは違う色。それは、魔力の根本が異なることを意味し、今後の皇子教育を左右する重大な問題なのだ。
明日、魔界に戻って、ビクトールさんたちに知恵を絞ってもらおう。
すっかり仕事モードに入ってしまった俺は、魔界貴族年鑑のことなど、もう目に入らなくなっていた。




