90 戻ってきた日常
拓海が家に戻ると、玄関先でザックと寝間着姿のユリウスが待っていた。
「え、ユリウスさん、起きて大丈夫なんですか。熱は下がったんですか?」
拓海が驚いたように目を見開き、ユリウスの頭からつま先まで、無事を確かめるように視線を素早く走らせる。その様子に苦笑しながら、ユリウスが口を開いた。
「ご心配をおかけして、本当にすみませんでした。熱もすっかり下がったし、たっぷり眠ったので、もう大丈夫です」
少し痩せたようにも見えるが、青い瞳は力強く輝き、身体からはいつものように自信があふれている。
その姿を見て、拓海は「よかったです」と、ほっとしたように笑った。胸の奥につかえていた不安が、ようやく消えていく気がした。
「さて、晩飯はもうちょっとかかるので、それまで拓海様は勉強。ユリウス様はシャワーを浴びて着替えてきてください」
ザックの提案で、三十分後に、夕食にすることになった。
約束の時間となり、三人は台所に集まってきた。
短い時間しかなかったのに、ザックは食卓いっぱいに美味しそうな料理を並べてくれた。
三人で囲む久しぶりの食卓に、拓海のテンションは上がりっぱなしだ。ユリウスがいつもの席に座っているだけで笑顔がこぼれ、部活のことや、もうすぐある中間テストの話など、とにかくしゃべり続けた。
食事が済んで、ザックがみんなにお茶を淹れてくれた。
湯気の立つ湯呑を手に、一息ついたところで、
「拓海様。怪我をした指を、あとで診せてもらえますか?」
拓海の手元に視線を落としながら、ユリウスは静かに声をかけた。
「あー、大丈夫です。病院で手当てをしてもらいましたから」
拓海がさっと右手を動かし、問題の指を隠した。
「遠慮することないですよ、拓海様。ユリウス様に治癒魔法を使ってもらえば、すぐよくなりますよ」
「いいえ!」
拓海がぴしゃりと言い切った。
「僕が病院で手当てしてもらったことは、大勢の人が知っています。それなのに、すぐに治ってしまったら、どうでしょう。みんな、不審に思うはずです」
「なるほど」
「確かに、商店街の人も見てましたね」
ユリウスとザックは顔を見合わせて、そろって納得したように頷いた。
よし。守り切った!
先輩が触ったこの包帯。たとえユリウスさんにだって、触ってほしくない。
拓海の頭には、愛する姫を守る騎士になった自分が、誇らしげに胸を張っていた。
お茶を飲もうとしたとき、ユリウスの目に台所の隅に置かれた紙袋がとまった。
ユリウスは席を立ち、紙袋をのぞいてみる。中には、色とりどりの果物が入っている。
「ずいぶん、買ったんだな、ザック」
「あ、それは、貰い物です」
「貰い物?」
「杉咲先輩が、たくさんあるからっておすそ分けしてくれたんです」
拓海が満面の笑みを浮かべながら、うれしそうに教えてくれた。
「へえ。あの子が……」
ユリウスは何とはなしに袋から赤いリンゴを取り出し、それを眺めた。
次の瞬間、拓海の低い声が響いた。
「……駄目ですから」
「あ、大丈夫ですよ。勝手に食べるようなことはしませんから」
勝手に触ったのが気に障ったのだろうかと、ユリウスは内心で焦る。しかし、拓海は不機嫌そうに続けた。
「リンゴのことじゃありません」
「え?」
「ユリウスさんは……ユリウスさんは、かっこいいから――。だから、駄目です」
拓海が固い表情のまま、口元をぎゅっと引き結んだ。
ユリウスは何を言われているのか、さっぱりわからない。助けを求めるように、ザックに顔を向けた。
ザックが口パクで何かを伝えようとしている。しかしその意味が理解できず、ユリウスはただ戸惑うばかりだった。
ああ、もう。本当にユリウス様は間が悪い。
ザックはじれったくて、心の中で地団駄を踏んだ。
病院を出てからの帰り道、俺は拓海様に、あることを教えたんだ。
「狼族は、山奥で暮らしているんで、果物ってすごく貴重なんです」
「あー、だからザックさん。先輩が持ってきてくれた果物を見て、目がきらきらしてたんですね」
「あ、わかっちゃいましたか」
ザックが少し照れたように笑った。
「それで俺、思い出したんです。魔界には、花言葉ならぬ果物言葉っていうのがあるって」
「へえ、面白いですね。例えばどんなものがあるんですか?」
「バナナだと友情。オレンジは、いつも一緒にいたい。イチゴは家族同然。そして、リンゴは――」
リンゴの意味は、君に恋をする。
多分、ユリウス様がそのリンゴを手にしたのを見て、拓海様は不安になったんだと思う。ユリウス様は大人で、容姿も整っている。子供の拓海様じゃ歯が立たない。万が一、ユリウス様が恋のライバルになったらと、胸騒ぎを覚えたんだろう。
まあ、たかが果物一つの話だともいえるけど、こういう感覚って、案外馬鹿にできない。
ユリウス様が杉咲先輩を好きになるなんて、ありえないけどな。
とは言え――。
俺はちらりと拓海様を見た。体を強張らせて、左の指を押さえている拓海様に本当に必要なのは、はっきりと否定してやること。それなのに。
あー、もう、なにきょとん顔してるんですか、ユリウスさまー!
相変わらずの唐変木ぶりに、ここは俺が仕切らなきゃと、俺は口を開いた。
「大丈夫ですよ、拓海様。ユリウス様には、気になる子がいるんですから」
「は?」
「え、そうなんですか?」
「はい。前に会った、仮面をつけた子です。ユリウス様は、ああいうちょっと変わった――お転婆で元気いっぱいな女の子が好みなんです」
「お前、なにを言って――」
反論しようとしたユリウスを、ザックがぎろりと睨む。狼に変化したときに見せる、野獣のような迫力だった。ユリウスは、ぴたっと口を閉じた。
「そうだったんですか……ユリウスさんは、あの人が……」
拓海の固かった表情が、少しほぐれてきた。ザックが「ほら、何か言って!」と口パクしてくる。
ユリウスは、なんの茶番だと半ば呆れたが、様子のおかしい拓海のために、とりあえず肯定することにした。
「はい。私は、あの子が……」
言いかけて、ユリウスはちらっとザックを見る。言いたくない。しかしザックは「いいから早く」と身振りでユリウスを急かしてくる。
くそ。もうどうにでもなれ!
「はい。私は、あの子を好ましいと思っています。今度、ゆっくり話がしたいと考えています」
胸の中にくすぶる「お仕置きしてやる」という黒い感情を隠し、ユリウスは優雅に微笑んでみせた。
それを見て、拓海は安心したように緊張を解く。ザックも、いつものザックに戻った。
一体このやりとりはなんだったんだ、と遠い目になりながら、ユリウスはリンゴを元の袋へ戻す。
そのとき、拓海はユリウスの右手にあった傷がきれいになっていることに気がついた。
あれ、僕をかばってムチで怪我したときの痕と、魔界で喧嘩したときに増えた傷が、消えている。良かった。寝ている間に、回復したんだ。
でも、それってなんだか、面白いな。ユリウスさんの傷が治ったら、今度は僕が傷を作って。先輩が早くよくなるように、おまじないをしてくれて……。
ふいに、二人の影が近づいたことを思い出して、拓海の顔が真っ赤になった。
「拓海様、顔が赤いです。気分でも悪いですか?」
ユリウスが異変に気づき、声をかける。
「だ、大丈夫です。体が、そのちょっと熱くなっただけで……」
すかさず拓海の額に手を当てたザックが、声を上げる。
「た、大変だ。今度は、今度は拓海様が、発熱だー!」
突然の声に、つまみ食いしようとしていたイチゴを、コディが喉につまらせた。
ザックの誤解を解こうと拓海が、意味不明な言い訳を繰り返す。
ユリウスが寝込んでいる間、火が消えたように静かだった嶌村家に、いつもの賑やかさが戻ってきた。




