89 月夜のおまじない
「本当に、よかったです。大したことがなくて」
「はは……最初から大したことじゃなかったんですけどね……」
外から、そんな声が聞こえてきた。
玄関が開いて、拓海とザックが入ってきた。
「ただいま」
「お帰りなさい」
拓海とザック、それから杉咲先輩の声が重なった。
玄関ホールに杉咲先輩が立っていたのだ。いつものかつらと眼鏡をつけて。
「あ、先輩。遅くなって、すみません」
「留守番、ありがとうございました。治療が終わって、帰ってきました」
拓海は申し訳なさそうな顔、ザックはほっとした笑顔、杉咲先輩は少し疲れた顔と、三者三様の表情をしていた。
「拓海君、傷の具合はどうなの?」
「先生には苦笑いされたんですが、消毒して絆創膏を貼ってもらいました……」
拓海が、恥ずかしそうに左のひとさし指の包帯を見せた。
「本当に大事にならなくてよかったです。先生も一週間くらいで治るって言ってたし。いやあ、すぐに診てもらえて運がよかったですね」
嬉しそうに笑うザックに、拓海が生温かい目を向ける。
「それは、ザックさんが騒ぐから……」
家から病院までお姫様抱っこで運ばれるところを、大勢の人に見られてしまった。病院の受付では、大怪我だとザックが騒いで、居合わせた人たちを驚かせた。
明日、どんな顔で学校に行ったらいいのか。拓海は、内心頭を抱えている。でも、ザックに悪気はないのがわかるので、咎める気はない。けれど、今後は絶対にやらないでほしい。
「先輩。これからすぐ夕ご飯を作りますから、もう少しだけ待っててください」
拓海の言葉に、ザックがはっとした。
「そうでした。俺が、夕飯を一緒に食べようって言ったのに――。杉咲先輩。超特急で用意しますからね」
ザックの言葉を、杉咲先輩は手で制した。
「お気持ちは嬉しいんですが、拓海君も病院から帰ったばかりで疲れていると思うので、今日は帰ります」
拓海とザックはなんとか引き留めようとしたが、すでにお姉さんに迎えを頼んでいると知り、拓海は肩を落とした。
ならばせめて、車が停めてある待ち合わせ場所まで――と、拓海は杉咲先輩を送っていくことにした。
家から車通りまで、敷地の静かな小径を二人きりで歩く。空に浮かんだ月が、二人の足元をやわらかく照らしていた。
隣を歩きながら、拓海は地面に映る、少し離れた二つの影を見た。そっと一歩だけ後ろに下がり、影をくっつけようとしてみる。
不意に、杉咲先輩が足を止めた。
くるりと振り返り、白い手がすっと拓海の左手を取った。
驚いて目を丸くする拓海の前で、包帯の巻かれた指に、杉咲先輩がふっと息を吹きかけた。
「あ、あ、あの」
薄暗い中でも、隠しようもないくらい、拓海の顔は赤くなっている。心臓の音まで聞かれちゃうんじゃないかと思うほど、胸が早鐘を打つ。二人の影もぐっと近づいていた。
「早く、よくなるように、おまじない。あ、車が見えるから、ここで大丈夫。また、明日ね」
杉咲先輩はそう言うと、月明かりの下を走り去っていった。拓海は、返事もできずに、その後ろ姿をただ見ていた。いつまでも冷めない指先の熱を感じながら。
◇◇◇
「どうだった?」
車の後部座席に乗り込んできたリリアーナに、ルルが尋ねた。
「喜んでたわよ。あげた果物でプリンアラモードを作るって」
かぶっていたかつらと眼鏡を取ると、リリアーナは頭を左右に振り、手ぐしで髪を整えた。
車が静かに走り出すと、後部座席にいたエリンがリリアーナの膝に飛び乗った。
「ごめんね、エリン。帰るのが遅くなって」
「にゃーん」
リリアーナの手が、甘えてくる小さな頭を愛おしそうになでる。
前を向いて運転していたルルが、もう一度尋ねてきた。
「で、どうだった?」
「え、だから、果物たくさんあったから、喜んで――」
「果物じゃなくてさ。皇子さま。……怪我したんだろ」
「ああ。そっち」
拓海が指を切って、慌てたザックに病院に連れて行かれたことは、携帯のメッセージで、ルルには伝えてあった。
「病院で絆創膏貼ってもらったんだって。まあ、あたしが弱めに治癒魔法をかけたから、明日には治ってると思うけどね」
リリアーナがちょっと誇らしげに瞳を輝かせる。
「そっか、お嬢は、優しいね。で、もう一人にも、治癒魔法は使ったの?」
ルルに問われて、リリアーナはふいっと横を向いた。車窓の向こうのビルの明かりを見ながら、小さな声でぼそっと答えた。
「……まあ、暇だったから。時間つぶしに治してあげたわ」
「そう。……ついでに、ペンダントは見つかった?」
「あー、ペンダントのこと忘れてた。やだ、あたしったら、うっかりしてたわ」
見え見えの演技に、ルルは思わず吹き出しそうになるが、ぐっと口元を引き締める。
「まあ、二人だけの家からペンダントがなくなれば、疑われるのはお嬢だから。持ってこなくて正解だよ」
「そ、そうよね。うん。良かった。見つけられなくて」
後部座席で、リリアーナはうまく言い訳できたと、ほっと息をつく。
だって、大切にしてくれていたみたいで、勝手には持ち出せなかった。
いつかは返してもらうけど、今は、あいつに預けておくわ。
そう心の中でひとりごちるリリアーナを乗せて、車は自宅マンションへ続く道に差し掛かった。
そのとき、「ぐうー」という音が後部座席から聞こえてきた。
「お腹空いてるのかい?」
ルルが笑いながら聞くと、お腹を押さえたリリアーナがわめく。
「皇子のうちって、桃の缶詰とかプリンとか、デザートしか出てこないの。治癒魔法使って、こっちはお腹ペコペコだっていうのに。もう、絶対、あの家には行かないから! 絶対に!」
「はいはい」とリリアーナの叫びを軽く受け流しながら、ルルの運転する車はマンションの敷地へと入っていった。




