9 ユリウスの治癒魔法
重苦しい日中が過ぎ、夕方になっても拓海は帰ってこない。
ザックは廊下を何度も行き来し、落ち着かない様子だ。
ユリウスも居間で本を開いてはいるが、内容はまるで頭に入ってこない。
今回の件、ザックは自分を責めているが、責任は俺にもある。拓海の様子に違和感を覚えながらも、放置してしまった。
それは始末屋として、あってはならない判断ミスだ。小さな違和感を見過ごせば、現場で命を落とす危険がぐっと増す。人が持つ感覚を侮るなと、先代にも口酸っぱく言われてきた。
それなのに、俺はそれを怠った。理由は明白だった。
俺は……拓海と、必要以上に関わり合いたくないのだ。家庭教師と生徒という表面上の付き合いだけでいい。拓海の悩みや本音なんて、知りたくないし、聞く気もない。
けれど、こうなっては、そうも言っていられない……。はあ。
ユリウスは、マントルピースに飾られた写真立ての中で笑う拓海を、どこか恨めしそうに見る。
そのとき、ザックの大声が響いた。
「どうしたんですか、拓海様!」
ユリウスは、はっとして玄関に向かう。
「拓海様……」
そこに無残な姿の拓海がいた。髪は乱れ、口の端には血がにじんでいる。制服には泥が付いていて、誰かに暴力を振るわれたのは明らかだった。
拓海はユリウスの姿に気づくと、気まずそうに目を伏せた。
「帰りが遅くなって、ごめんなさい……」
「怪我の手当をします。こちらへ」
ユリウスは拓海の肩をそっと抱き、居間へと連れて行く。その後を、心配そうな顔のザックがついてきたが、「拓海様に温かい飲み物を」とユリウスに言われると、慌てて台所へ走っていった。
拓海をソファーに座らせ、ユリウスも隣に腰を下ろす。
「失礼します」と声をかけ、ユリウスは傷の様子を確かめた。美形に接近されて、拓海は傷の痛みを忘れ、心臓が早鐘を打つ。
「あ、あの。救急箱はそこの引き出しに」
「いえ。そんなものは必要ありません」
拓海の言葉を遮り、ユリウスは拓海の口元に手をかざした。その瞬間、ずきずきとうずいていた鈍痛が霧散する。その不思議な感覚に驚き、拓海は、自分の顔をそっと触って確かめた。
「え、え、え? ユリウスさんが治してくれたんですか」
「そうですよ、拓海様。うちのユリウス様ね、魔界では珍しい治癒魔法が使えるんです」
盆に飲み物を乗せて居間に入ってきたザックが、誇らしげに胸を張る。
「治癒魔法? ゲームとか漫画によく出てくるやつだ! すごい。そんなのが使えるなんて!」
拓海は瞳に星を宿したようにきらきらと輝かせた。
「いえ、それ程でも。私が使う治癒魔法は自己流ですし」
「さ、拓海様。温めた牛の乳です」
ザックがにこにこしながら、拓海の前にマグカップを置く。ザックの言い方が面白くて、拓海は思わず笑ってしまった。
そのとき、ユリウスがじっと自分を見ていることに気づき、拓海の笑顔が引っ込んだ。
「心配かけて、ごめんなさい……急いで帰ろうと思って、走ってたら、転んじゃって……だから、遅くなったのも、怪我したのも、自分のせいなんです」
「でも、拓海様、泥は背中に」
不自然な様子の拓海に、ザックは疑問を口にするが、ユリウスが目で制して、その言葉を遮った。
「ご自身で転んだのなら、仕方ありません。今後は、どうぞお気をつけください」
「……はい。気をつけます……」
「では、夕食にしましょう。と、その前に、拓海様、制服を脱がれては」
「あ、はい。すぐに着替えてきます」
拓海が居間を飛び出すと、ザックはユリウスを見た。
「ユリウス様。拓海様は、なぜ転んだなんて嘘をついたんでしょうか……」
「さあな……とりあえず、食事をとってもらおう。詳しい話はそれからだ」
「わかりました。でも、もしも誰かの仕業なら、俺が黙っちゃいませんけどね」
ザックは不敵な笑みを浮かべ、指をぽきぽきと鳴らした。
「それは頼もしいが、夕飯は出来ているのか?」
「は! すみません。まだです!」
ザックは慌てて、居間を飛び出していった。
ユリウスは、拓海の部屋がある二階へと視線を向けて、ぼそりとつぶやく。
「誰にやられたかは、あとで報告してもらわないとな」




