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8 拓海がいない皇子教育

 ユリウスの部屋には、小さな洗面台が設置されている。青い小花が描かれた洗面ボウルは上品で、壁には小ぶりな鏡が掛かっている。一階の洗面所に行く手間が省けるので、なかなか便利だ。


 皇子教育の初日、ユリウスは予定していた時間よりも早く目が覚めてしまった。二度寝する気にはなれず、顔を洗って着替えることにする。

 人間界のごく一般的な服に着替え、鏡を見ながら、長く伸ばした髪を手際よくゴムで結ぶ。

 周囲からはよく、切らないのかと聞かれる。短い方が楽なことは分かっている。だが、ユリウスの一族には、未婚の男は婚姻するまで髪を伸ばすという慣習があるのだ。


 とはいえ、チェザーレ一族は今や俺一人だけ。口うるさい親戚がいるわけでもないし、切ってしまっても構わないのだが……。

 鏡の中の自分の姿を見つめながら、「まあ、そのうちに」と呟いて、部屋を出る。


 ユリウスは足音を立てないよう静かに歩き、階段を下りる。すでに朝食の準備を始めていたザックを手伝おうと、台所のドアを開けた。すると、拓海がすでにいて、朝食を食べていた。

 随分早いな。眠れなかったのか。


「おはようございます、ユリウス様」


 ユリウスに気づいたザックが声をかける。ザックは昨日購入したエプロンを着けていた。拓海が選んだもので、胸の所に狸のワッペンが付いた、なんとも可愛らしいものだ。


「ああ、おはよう。拓海様、おはようございます」


「お、おはようございます」


 ユリウスの姿に気づくと、拓海の食べるスピードが上がる。

 今朝の献立は、目玉焼きにサラダとスープ。拓海が食べている厚切りトーストには、いちごジャムが塗られている。


「ユリウス様、コーヒーをどうぞ」


「ありがとう」


 ユリウスがテーブルに着くと同時に、拓海が立ち上がった。


「ご馳走様でした!」

 いつになく大きな声で言い、流しまで食器を運ぶ。


「僕、歯磨きしてきます!」

 またしても大声で宣言すると、一目散に台所から出て行く。


 ユリウスは、あっけにとられたように、その姿を見ていた。いくらなんでも、緊張しすぎだろう。思わず苦笑してしまった。

 さあ、コーヒーを飲もう――ユリウスの手が、ぴたりと止まった。

 あれは本当に、緊張しているからなのか。

 昨日、皇子教育の話題が出たときの、拓海の表情が脳裏によみがえる。


 そのとき、玄関で声がした。続けて、ドアの閉まる音がする。

 ユリウスがはっとして、ザックを見る。


「今の声は拓海様だな?」


「えっと……そうですね」


「行ってきますと聞こえたが、拓海様はどこかへ出かけたのか?」


 その問いかけに、ザックの目がきょろきょろと泳ぐ。明らかに何かを隠している様子だ。


「ザック。何を知っている。拓海様はどこへ行った?」


「は、はい。実は、拓海様は中学校に行きました」


「中学校?」


「そうです。今日は授業があるからと……それで、その、夕方には帰ると」


 ユリウスが駆けだした。

 玄関ドアを開け、急いで外に出る。周囲を見渡すが、誰もいない。薔薇が、凛と美しく咲いているだけだった。


「すみません。ユリウス様……」

 追いかけて来たザックが、体を小さくして言う。


「ザック……今日が何の日か分かっているのか? 皇子教育の初日だぞ。それなのに当の本人が不在でどうするんだ。どうして止めなかった!」


「本当に、すみません……俺、拓海様のお願いをきく約束をしてしまって……」


「約束?」


「はい……実は」


 それは昨日の夜、買って来た荷物を前に、はしゃぐ拓海とザックを残し、ユリウスがお茶の用意のため居間を出て行ったときのことだ。さっきまでにこにこしていた拓海の顔が、急に真顔になった。


「ザックさん。僕は、おばあちゃんに早く良くなってもらいたいんです」


「分かります。初音さん、良い方だし、早く元気になってほしいですよね」


「だから、協力してください!」

「勿論です! で、俺は何をしたらいいですか?」


「明日、僕は学校に行こうと思います。そのことをユリウスさんには黙っていてほしいんです」


 拓海が真剣な目でザックを見る。


「学校って……それは、人間の学校ですか? でも、拓海様はユリウス様から皇子教育を受ける予定ですよね?」


「そうです。でも僕が学校に行かないと、おばあちゃんが心配します。おばあちゃんによけいな心配をかけて、病気を悪化させたくないんです」


「その気持ちは……分かりますが」


「ザックさん!!」

 拓海がザックの手を、がしっと握った。


「皇子教育は受けます! ちゃんと受けます! でも、それは学校から帰ってからやるつもりです……でも、今、ユリウスさんを説得するのは無理だと思うんです。なので、この件は、明日学校から戻ったら話し合います……だから、ザックさん。明日、僕が学校に行くのを見逃してください」


「えー、それは、ちょっと……」


 ザックは眉間に皺を寄せて、難しい顔をする。それを見た拓海が、大きなため息をついた。


「こんなこと、言いたくはなかったんですが……ザックさんが狸を咥えてきたとき、僕、心臓が止まりそうなほど驚きました。ええ、人生で一番の衝撃でした」


「!」


「あのとき、ユリウスさん、すごく怒っていました。ものすごーく。……それを止めたの、僕ですよね?」


「そ、そうですが……」


「ザックさんのピンチを僕は助けました。だから僕のお願いも聞いてください!」


「で、でも、ユリウス様が……」


「明日、一日だけ。一日だけで、いいんです。帰ったら、ユリウスさんと話し合いをします。だから、お願いです。僕を、明日、学校へ行かせてください!」


 捨てられた子犬のように瞳を潤ませ、必死に懇願してくる拓海を、ザックは拒絶できなかった。


 庭に咲く薔薇の輪郭をなぞっていたユリウスが、大きく嘆息した。事の顛末を聞いてみれば、呆れるほかない。これは、病気の祖母や狸の件を持ち出してきた拓海のほうが、一枚上手だったのだ。


「まったく、やってくれる」


「すみません。止められなくて……」


「……もういい。行ってしまったのだから、仕方ない」


「じゃあ、強引に連れ戻すことはしないんですね?」


「ああ……ただし、帰ってきたら、きっちり話をつけないとな」


 そう言って、ユリウスが薔薇の花を手折った。

 棘が刺さり、指から血がにじむ。

 冷静な表情とは裏腹に、胸の内では怒りの炎が燃えている――。そう感じたザックは、今宵吹き荒れるであろう嵐を思い、胃が痛くなるのだった。


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