86 家に残されたふたり
ユリウスが熱を出して、三日目。
学校が終わって、まっすぐ帰宅したリリアーナを出迎えたのは、テーブルいっぱいに並んだ山盛りの果物だった。
「ちょっとルル。どうしたの、これ」
「商店街に買い物にいったんだけどさ、どれもおいしそうで、気がついたら、こうなってたんだよね」
つやつやしたいちごに、細かい網目のメロン。山盛りのみかんに、房ごとのバナナと真っ赤なリンゴまで。
色とりどりの果物が、今にもこぼれ落ちそうな勢いでテーブルを埋め尽くしている。
二人で食べるには、明らかに多すぎるその山を前に、リリアーナが呆れたような声を上げた。
「それにしたって、二人じゃ食べきれないわよ」
「じゃあ、おすそ分けしないと。……ほら、前みたいに、買い過ぎちゃったってやつ。果物なら、病人でも食べられるだろうし」
そのひと言を聞いた途端、リリアーナはそわそわしはじめた。
「ま、まあ、そうよね。食べられなくて捨てるのはもったいないわよね。うん。ルルの言う通りだわ。帰ってきたばかりだけど、ちょっと行って、おすそ分けしてくるわね」
「ほんと悪いね、お嬢」
ルルは笑い出しそうになるのをこらえながら続ける。
「ただし、かつらと眼鏡は忘れないように」
「わかったわ。すぐ、支度してくる」
リビングを飛び出していったリリアーナに代わって、ルルは紙袋に果物を詰めはじめた。
エリンだけは、待っていたリリアーナがまた出かけてしまうと気づいて、悲しそうな目で「にゃあー」と鳴いた。
◇◇◇
「拓海様、今日はプリンを作ったんです」
帰宅した僕に、ザックさんがおやつを運んできてくれた。
「わあ、ザックさん特製のおっきめプリンですね。僕、これ大好きです」
「本当は、料理本で見たプリンアラモードっていうのにしたかったんですが、果物を切らしていて、プリンだけになっちゃいました」
果物がないせいで目当てのものが作れず、ザックさんは少し残念そうだ。
けれど、僕は気にしない。ザックさんのプリンは、ちょっと固めで、甘すぎないのに味は濃厚。とってもおいしいんだ。
台所のいつもの席に座ると、コディもちゃっかりやってきた。
「いただきます」
食べようとしたそのとき、テーブルの上の携帯が震えて、メッセージが届いた。
誰だろうと思って画面を開くと、なんと杉咲先輩だった。
メッセージには、こんなふうに書かれていた。
「姉が、果物を買いすぎて食べきれそうになくて。よかったら、食べてもらえませんか? 家にいるなら、これから届けにいきたいんだけど、どうかな?」
僕は、弾かれたように立ち上がった。椅子が背後で、がたんとひっくり返る。手に持っていた携帯に向かって、思わず叫んだ。
「もちろんです。待ってます!!」
「た、拓海様?」
何が起きたのかわからないザックさんは、目を白黒させている。
その横でコディは冷静に、僕のプリンを自分のほうへ引き寄せ、スプーンですくって、勝手に一口食べた。
それから、およそ十五分後。インターホンが鳴って、杉咲先輩がうちに来てくれた。
前回と同じように、かつらと眼鏡は掛けていたけど、服は私服だった。
白いワンピースの上に、透かし編みのカーディガンを羽織っていた。色も形もシンプルなのに、とても上品で、思わずみとれてしまった。
僕は、この姿を絶対にスケッチブックに描かなきゃ、と胸の中でこっそり決めた。
先輩は、持ってきた果物を渡したら、すぐに帰るつもりだったみたい。
けれどザックさんが、「ぜひ夕飯を食べていってください」と熱心に勧めて、うちにあがってもらうことに成功。
グッジョブ、ザックさん!
張り切っているザックさんを、僕も手伝うことにした。
ただ、そうなると先輩が居間でひとりぼっちになってしまう。
だから先輩には台所に来てもらって、ザックさんが作ったプリンを食べてもらうことにした。
台所には、どこか和風めいた空間が広がっている。白い壁と、木目のテーブル。窓ぎわには小さな観葉植物が置いてあって、部屋を落ち着いた雰囲気にしていた。
先輩は背筋をすっと伸ばして、静かに椅子に腰を下ろした。
「あ、このプリン、おいしい。ちょっと固めで、あたし、これ好きです」
プリンを一口食べた先輩が、ぱっと顔を明るくしてザックさんに話しかける。
「ほんとですか。気に入ってもらえて、嬉しいなあ」
ほめられたザックさんも、にこにこ顔だ。
「そのプリン、僕も大好きなんです。すごくおいしいから、ユリウスさんにも食べてほしいんですけど……」
僕はジャガイモの皮をむく手を一瞬止めて、いつもユリウスさんが座る椅子に視線を送る。そこに誰もいなくて、胸の奥にさびしい風が吹いた気がした。
そのとき、はっと息を飲んだ。先輩のかつらのすき間から、本当の髪――ピンク色の髪が、少しはみ出しているのが見えた。注意してあげないと、と思った瞬間、手がすべった。
「あ、痛っ!」
使っていた小さな包丁で指先を切ってしまい、じわっと赤い血が滲んできた。
「拓海君、大丈夫?」
先輩が立ち上がって、心配そうに声をかけてくれた。
けれど、その声をかき消すように、ザックさんの大声が響いた。
「拓海様――!」
「ちょっとよそ見をしてて、切っちゃいました」
僕は、横で傷をのぞき込むザックさんを安心させようと笑ってみせたけれど、その努力は無駄だった。
「え?」と思った次の瞬間、足が床から離れて、ふわりと視線が高くなる。
気がついたら、ザックさんにお姫様抱っこされていた。
「ちょっと、ザックさん。下ろしてください!」
僕は驚きと恥ずかしさで、必死に下ろすよう訴えた。顔が熱くて、耳まで真っ赤になっているのが自分でもわかる。だって、先輩の前でこれはないでしょ。
でも、残念ながら僕の声は届かない。
「杉咲先輩。これから、拓海様を病院まで連れて行くので、留守番お願いします!」
ザックさんが、焦った声で先輩に頼んだ。
「わかりました。任せてください」
「落ち着いて、ザックさん。これくらい、絆創膏を貼っておけば――」
僕は最後まで言えなかった。ザックさんが、僕をお姫様抱っこしたまま台所をあとにし、そのまま家を飛び出したからだ。
ザックさんが全速力で駆ける。風景が、車に乗っているみたいに、後ろへ流れていく。
な、なんで。ちょっと、指を切って血が出たくらいで、こんなの――。
そのとき、ユリウスさんが言っていたことを思い出した。
『ザックは、自分が怪我をしても平気なくせに。他人が傷つくと、異常に心配するんです』
あー、あの言葉を実体験するなんて。
人間離れした速さを全身で感じながら、僕は心の底から絶望した。
拓海とザックがいなくなった嶌村家には、留守を任された杉咲先輩だけが残された。いや、二階には、熱で寝込んでいる人物がいる。
杉咲先輩は静かに席を立ち、台所を出る。廊下を歩き、玄関ホールで立ち止まった。見上げた先には、二階へと続く、踊り場から左右に分れた両階段がある。
その階段を、杉咲先輩は一歩ずつ、ゆっくりと上り始めた。




