85 婚約のウラ話
「やっと、やっと帰って来た。助けて、お兄ちゃん。お願い、僕を助けて、このままじゃ、明日、あの怖い女の人と結婚させられちゃうよー」
明日という言葉だけで、僕の足はぶるぶる震えちゃうんだ。
婚約式に参加するために帰省したお兄ちゃんに抱きついて、僕はわんわん泣きじゃくった。
お兄ちゃんは、自分の部屋で荷ほどきをしようとしていたところを邪魔されたのに、嫌な顔ひとつせず、僕の背中を優しく撫でてくれた。
お兄ちゃんは、僕が困っているときはいつも助けてくれる。道に迷ったときも、お母さんに怒られたときも、「大丈夫だぞ、ユリウス」って、その大きな手で頭をくしゃっと撫でてくれる。
そんなお兄ちゃんが、少しだけ困ったように笑いながら言った。
「ユリウス、間違ってるぞ。結婚じゃなくて、婚約だ。お前は、まだ結婚できる年齢じゃない」
「同じだよ。婚約したら、いつかはあの怖い人と結婚させられるんだからー」
さらに激しく泣く僕に、お兄ちゃんは、はあーっと深いため息をついた。
「お前が婚約者に選ばれたのは、お前がまだ子供で、すぐに結婚する必要がないからなんだよ」
「え、それってどういうこと?」
顔を上げた僕は、涙と鼻水でぐしゃぐしゃだった。お兄ちゃんは何も言わず、そっとティッシュで顔を拭いてくれた。
「ね、ねえ。さっきの、どういうこと? 僕が子供だから選ばれたって、それ本当なの?」
「……ああ、本当だ。お前との婚約は、結婚を先延ばしにするための苦肉の策なんだ。このことは、大人たち、みんな知っている」
にわかには信じられないけど、あの怖い女の人が、僕を気に入ったからじゃなかったって知って、ほっとした。あんな乱暴なお嫁さんなんて、絶対にごめんだ。胸をふさいでいた重しがはずれたみたいで、気持ちが少し軽くなった。
でも、同時に疑問が湧いてきた。
どうして大人たちは、そんなのを見て見ぬふりしてるんだろう。聖なる乙女は、一族の中で一番大切にされるべき人のはずなのに。
そんな僕の表情を見て、お兄ちゃんが静かに話し出した。
「実は、国からアウローラの婚姻について催促があったんだ」
「国から?」
「そうだ。チェザーレの治癒魔法は国が管理しているからね。聖なる乙女の結婚は国にとっても、軽視できないんだ。それで、相手が見つからないのなら、国のほうで斡旋すると言い出した」
「あっせん?」
「あ、難しいか……。簡単にいうと、相手を用意しましょうかって、話さ」
「ええー。それすごくいい。僕なんかより、もっといい相手に出会えるはずだよ」
僕が目をキラキラさせるものだから、お兄ちゃんはぷっと吹き出した。
「はは。それだと、聖なる乙女が国に取られてしまう。ご当主様は、なんとしても一族の中から婚約者を出したいと、アウローラに話したんだ。けれど、拒否したんだ」
「え、なんで? うちの一族って、けっこうかっこいい男の人多いよね?」
「そうか? 普通だろ」
お兄ちゃんは否定するけど、村の人もそう話しているのを、聞いたことあるんだからね。
「それで、とりあえず婚約者を選んで、国を黙らせようということになって、選ばれたのが――」
「僕なの?」
お兄ちゃんが頷いた。
「だったら、なんでそのことを教えてくれなかったの? お父さんも、お母さんもひどいよ」
「あれ、話したって言ってたぞ。仮の婚約だから、大丈夫だって」
「うそ。そんなの聞いた覚えなんて……」
お兄ちゃんの目はまっすぐで、とても嘘をついているようには見えない。不安になった僕は、記憶を一生懸命たぐってみる。
お茶会から帰ってきて、自分の部屋に閉じこもった。そのとき、お父さんたちはドアの向こうから、僕にいろいろ話しかけてきた。
「あ!」
たしかに、「大丈夫。仮の婚約なんだ。ユリウスは、自分が婚約者ですって、顔をしているだけで、いいんだ」と言ったお父さんの声が、頭の中でリプレイされた。
「じゃ、じゃあ。本当に、あの怖い人と結婚しなくていいんだね?」
「だから、結婚じゃなくて、婚約だ。ユリウスは、一族を守る大役に選ばれたんだからな。しっかり頼むぞ」
お兄ちゃんが、真剣そうなのに、どこかからかうような目をしている。
いい迷惑なんですけど。僕のほっぺが、ぷうっと膨らんだ。それを、お兄ちゃんがおかしそうに指でつっつく。
「……お兄ちゃんのほうが、適役なのに」
「いやあ、俺は――」
口ごもるお兄ちゃんに、僕は秘密の切り札を出した。
「そうだよね。お兄ちゃんには、学校に彼女がいるから、駄目なんだよね」
「え! ユリウス、お前、なんで知ってるんだ」
「ふふーん。寝る前に、写真にキスしているの、見ちゃったもんね」
僕に見られていたと知って、お兄ちゃんの顔がリンゴみたいに赤く染まる。僕に大役を押しつけることを、これで許してあげるんだから、感謝してよね、と心の中でつぶやいた。




