78 ついに翼が?
よく晴れた日曜日の午後。
嶌村家の庭では、ザックの指導で剣術の稽古が行われていた。
木剣が打ち合わさるたび、カンッという乾いた音が庭に響く。
「今のいいですよ」「そう、その調子です」
昨日と同じように、ザックがかける声のおかげで、拓海のモチベーションは落ちることなく、打ち込みが続いている。
俺は、庭に面したテラスから二人の様子を眺めていたが、休憩用の飲み物を用意しようと台所へ向かった。
食器棚からグラスを取ろうとして、ふと、ビニール袋に入った大量の空き缶が目に入った。
ザックのやつ、昨日あれだけ飲んだっていうのに、けろっとした顔で起きてきたっけ。しかも、俺の不機嫌そうな顔を見るなり、
「あれ、昨日、何かありましたか?」
「……あれだけくだを巻いてたのに、覚えてないのか」
「あー、すみません。拓海様の翼の話までは記憶があるんですが……それ以降はさっぱりで」
苦笑いして頬をかくザックに、俺は呆れるしかなかった。
「それより、ユリウス様、顔色がよくないですよ。眠れなかったんですか?」
「ああ、アンドリューさんが持ってきた本をずっと読んでたから、あまり寝てない」
「焦る気持ちも分かりますが、魔界から人間界にやってきてからというもの、休みなしですし。あまり無理しないでください」
ザックが心配そうな顔でそんなことを言うので、俺はつい嫌味を言ってやる。
「そうだな。俺はデリカシーがないから、気をつけないとな」
「え? デリカシーがない? なんですか、それ……。ひょっとして、昨日の二人に言われたんですか? もしそうなら、俺、抗議してきます。うちのユリウス様に、失礼だって!」
「そうか、いつか頼もうかな……」
鼻息を荒くするザックを、俺は思わず生温かい目で見てしまった。
木の盆に、氷を入れたグラスと麦茶のポットを載せて、俺は居間に向かった。
ちょうどそのタイミングで、拓海とザックが休憩にやって来たので、俺はグラスに麦茶を注ぎ、二人に出した。
「わあ、ありがとうございます。ユリウスさん」
「いただきます」
二人は喉を鳴らしながら、美味しそうに麦茶を飲んだ。
「拓海様、剣術の稽古は慣れましたか?」
「えっと、僕は運動が苦手なので、正直どうかなと不安だったんですが、意外に楽しいです。ザックさんの教え方も分かりやすいし」
「いやいや。昨日も言いましたけど、拓海様、筋がいいんですよ。教えたことはすぐできて、百点満点です。このままいけば、拓海様に俺、あっさり抜かれちゃうかもしれませんね。あははは」
休憩時間も拓海をよいしょするのを欠かさないザックに、俺は本日二度目の生温かい目を向けた。
ザックに褒められて照れていた拓海が、思い出したように俺を見る。
「あ、そうだ。ユリウスさんに聞きたいことがあったんです」
「はい、なんでしょうか?」
「こうして剣術を習うっていうことは、魔界での、その、戦いっていうのは……剣を使うんですか? 魔法じゃないんですか?」
拓海は首に巻いたタオルで汗を拭きながら、そんなことを聞いてきた。
「答えは、イエスでありノーです」
「え、ええ。どういうことですか?」
「人間界のように、ただ刃を交わすのとは違って、魔界人は剣に自分の魔力を込めて戦うのです」
「剣に魔力を……へ、へえ。そうなんですね」
絶対に理解できていなさそうな拓海の顔を見て、俺はそっとため息をつく。
魔界の戦闘スタイルは、今も昔も変わらない。自分の剣に全身の魔力を注ぎ込んで、相手を倒す。
だが、それを行うには、とにもかくにも翼が必要なのだ。
ビクトールさんに根を詰めすぎるなと言われたが、本当にこれから、どうしたものか。
俺の気持ちが沈みかけた、そのとき、コディが拓海の頭に飛びついた。
「わ、ちょっと、何するの、コディ」
ザックがコディを引きはがしてテーブルに乗せると、コディが携帯を耳に当てる仕草をした。
「あ、ひょっとして、携帯が鳴ってるってこと?」
拓海がコディに話しかけている間に、ザックがすばやく台所に置いてあった拓海の携帯を取ってきた。
メッセージを受信したようで、拓海がその内容に目を走らせていると、
「わ、わわ。大変! ザックさん、僕と一緒に来てください!」
拓海は強引にザックの腕をつかみ、テラスに置いてあった靴をつっかけて、外に出るよう促す。
何があったんだ。俺は、走っていく二人の背中を、あっけにとられたように見送った。
居間に取り残された俺は、ソファーに腰を下ろし、麦茶を一口飲んだ。二人がいたときには気づかなかったが、体が重い。いったん座ってしまうと、もう立ち上がるのが面倒になる。
それでも、拓海とザックの姿が見えたので、俺はサンダルをはいて、庭に出る。
拓海は、赤い顔で紙袋を抱きしめていた。
その姿には、どこか見覚えがあるような気がする。俺がそんなことを考えていると、ザックが弾んだ声で包み掲げてみせた。
「杉咲先輩と、そのお姉さんが、金曜日の食事のお礼にって来てくれたんですよ」
どうやら、嶌村家から少し歩いた先の車通りで、待ち合わせをしたらしい。
「俺が好きだって話したのを覚えててくれて、わざわざ商店街で塩豆大福を買ってきてくれたんですよ。ほんと、礼儀正しくていい子ですね。あんな料理しか出してないのに」
「悪かったな。あんな料理しか用意できなくて……」
俺がむすっとした顔で言うと、ザックは慌てて、
「ああ、すみません。嬉しくて、本当のことを」
と、悪びれるふうもなく言うので、はったおしてやろうかと拳に力が入った。
そんな俺に、拓海は、きれいに包装された包みを渡してきた。
「これは、ユリウスさんにって、先輩が言ってました」
「俺――私にですか?」
「はい。食事を用意してくれたからって」
ふーん。塩入り紅茶なんか出してくるから、てっきり嫌われてるかと思ったけど……。ザックの言う通り、礼儀正しくていい子なのかもしれない。
俺は包みを開けて、中身を確かめた。
「わあ、料理本だ。しかも、『基本の料理はここからだよ』シリーズだ。これ、料理初心者の間で、とっても人気の本なんですよ」
「そうなんですか」
俺は手にした本から、料理の通知表でも突きつけられた気がして、乾いた笑いが出そうになった。
「拓海様は、何をもらったんですか?」
ザックが興味津々といった顔で、拓海の紙袋をのぞき込む。
「開けてみますね」
包みを開けると、中からスポーツタオルとタオルハンカチのセットが出てきた。
「あ、いいですね、そのタオル。普通のよりちょっと長めだから、首から落ちにくそうです」
「はい。これ、剣術の稽古のときに使います! もう、今の僕にぴったり。うれしいなあ」
拓海は、満面の笑みを浮かべた。
「あれ、袋の中にカードが入ってますよ」
ザックにそう指摘され、拓海が手書きのカードをつまみ上げた、そのときだった。
嶌村家の庭を、いきなり突風が駆け抜けた。思わず目をつぶってしまうほどの、鋭い風だった。
「あ、先輩のカードが!」
拓海の指先にあった杉咲先輩直筆のカードが、ふっと風にさらわれる。白い一枚の紙片は、庭の大きな木のてっぺんを目指すように、高く高く舞い上がっていく。
次の瞬間、ばさ、ばさ、ばさと羽音が辺りに響いた。
「え?」
俺の目の前で、拓海の体がふわりと宙に浮き上がった。指先からすり抜けていったカードを空中でひょいとつかみ取り、そのまま元いた場所へと軽やかに降り立つ。
「あー、失くさなくてよかったあ」
拓海は、まだ気づいていないのだろうか。さっき、ほんの一瞬だけ、彼の背中に翼が現れていた。
カードを取り戻すために、拓海は翼をひらめかせて、空へ跳んだのだ。
「嘘だろ……」
俺は絶句した。
睡眠時間を削って、何十冊もの本を読み漁った。わずかな可能性にすがって、民間に伝わるまじないにまで手を伸ばした。それほどまでに、心の底から願い続けてきた。
その拓海の翼が、魔界の皇子の翼が、今、目の前で姿を現したのだ。
けれど、それは魔界人の持つはずの黒ではなかった。魔界と敵対する天界の者が背負う、あの純白だったのだ。
「ユリウス様、顔が真っ青ですよ」
「本当だ。気分が悪いんですか」
二人の声が、やけに遠くから聞こえる。
ザックの観ていたドラマをさんざんけなしていた。子供の模試の結果だけで寝込むなんて、と馬鹿にしていたあの母親のように、今の俺は立っていられなくなっていた。
そして、いつ以来か思い出せないほど久しぶりに、俺は熱を出して床に伏すことになった。




