75 ユリウスのペンダント
「じゃあ、そろそろ打ち込みに移ってみましょうか」
「えー、まだ早いです」
「大丈夫です。俺はここに立っているだけで動きませんから、危なくないですよ」
俺は、二階の自室の窓から庭を見下ろしていた。
木剣を構えた勇ましいザックと対照的に、拓海はすっかり腰が引けている。
杉咲との夕食会の翌日、ザックの指導による剣術の稽古が始まったのだ。
運動が得意ではない拓海にとって、剣術は皇子教育の中でもひときわ気が進まない科目なのだろう。
朝食のあとで、俺が「しばらく魔法の授業はお休みにして、今日から剣術を始めましょう」と告げたところ、拓海はこっそり家を抜け出そうとした。
しかし、その企みはコディの密告によって、あっさりと阻止されることになる。
その結果、午前中は剣の構え方と足さばきをみっちりと習い、午後からは実際に木剣を打ち込む稽古へと進む段取りになった。
俺は、庭に面したテラスから、その様子を眺めていた。
コディも俺の肩にちょこんと乗り、まさしく高みの見物を決め込んでいた。
そのとき、不意に射し込んだ陽光を受けて、俺のペンダントがきらりと光った。
コディはそれが気になったのか、チェーンへ手を伸ばしてくる。
「おい、引っ張るなよ」
制止するより早く、チェーンがぷつりと切れ、ペンダントが床へ落ちかけたところを、ぎりぎりで受け止めた。
まずいと思ったのか、コディはそそくさと家の中へ逃げ込んでいった。
まったく、コディのやつ……。
俺は小さくため息をつき、ペンダントを手に自分の部屋へ向かった。
チェーンに目をやると、途中で鎖が切れている。これは素人の手には負えそうにない。
そこでふと脳裏に浮かんだのは、ホテル・マーサの住人のひとり、ビルの顔だった。
確かジュエリーの販売と加工を生業にしていたはずだ。修理を頼んでみるとしよう。ただし、隣の住人と顔を合わせないよう、十分に気をつけなければならないが……。
俺は、机の中から空き箱をひとつ見つけ出し、ペンダントをそっと収めた。
ちょうどそのとき、窓の外からひときわ大きな声が響いてきた。
「すごい、上手、上手ですよ、拓海さまー」
「え、そうですか」
「はい。初めてだなんて思えません。剣の才能ありますよ。筋がいいし、飲み込みも早くて、フォームもきれいです。俺が言うんですから、間違いないです。こんな身近に金の卵がいたなんて。いやあ、教えがいがあってうれしいなあ――だから、これから毎日やりましょうね、剣の練習。拓海様なら、すぐに上達しちゃいますよ」
やたらと大げさに褒めちぎる声を聞いているうちに、ふと、自分が剣を教わり始めた頃のことを思い出した。
俺も、まさにあれをやられたんだよな。ザックがこれでもかというくらい持ち上げてくれるものだから、ついその気になってしまって。
だがあれは、最初は褒めて油断させておいて、気がついたときにはスパルタ指導に切り替わっていて、もう逃げ出せなくなっている――ザック流の戦術なんだ。
まあ、拓海の場合は、基本の型をひととおり身につけたところで解放されるだろう。王族みずから剣を振るう必要はないのだから。
苦笑いを浮かべながら引き出しを閉めると、俺は部屋を後にした。
静かになったユリウスの部屋で、風もないのにレースのカーテンがふわりと揺れた。
次の瞬間、カーテンの陰から、にゅっとコディが顔をのぞかせる。
静かに床へ飛び降りると、抜き足差し足で音を立てないように歩き、ユリウスの机の前までやって来た。
椅子をよじ登ったコディは、先ほどユリウスが箱をしまっていた引き出しを、じっと見つめる。
コディは、昨日ルルに呼び出されたときのことを思い出した。
「コディ。ユリウスが身につけてるペンダント、見たことあるか?」
コディは、こくんと頷く。
「それを、持ってきてほしいんだ」
「?」
「理由? あー、それはこっちの事情だからな、知らなくていい……。え? いつも身につけているから、難しいって? じゃあ、外させればいいだろう」
ルルは、コディにちょっとした知恵を授けた。
コディは、そっと引き出しを開けた。中には、小さな箱が入っている。
箱を見つけたコディは、一度手を伸ばしかけて、ためらうように引っ込めた。
ユリウスが大切にしているのは、近くで見ているから知っている。それを勝手に持ち出してしまっていいのか。コディの胸にふと罪悪感がよぎった。
けれど、自分に体をくれた術者の命令を拒むことがあれば……縄で縛られていたエマの姿が脳裏によみがえる。
コディは意を決して箱に手を伸ばした、そのとき。
「おい、何をしている」
背後からユリウスの声が落ちてきた。
驚いたコディは飛び上がり、そのまま机の上に跳ね乗る。
震え出した足を必死に踏ん張りながら、コディはユリウスを見上げた。
冷たい光を帯びたユリウスの青い瞳と、真正面からぶつかった。
「引き出しが開いているな……何をしようとした?」
驚きで固まって動けないコディに、「答えろ、コディ」とユリウスは重ねて問いただす。
コディは、斜め掛けにしているポシェットから、愛用のペンとメモ帳を取り出した。
自分を射抜くように見つめてくるユリウスの圧を全身で感じながら、さらさらと何かを書いた。
そして、その紙片をユリウスの前に差し出した。
「剣の練習を頑張っている拓海に、差し入れをしたい? ほう。それはいい心掛けだな」
ユリウスが、感心したように口元をほころばせた。
コディは、なんとか誤魔化せたと、ほっと息をつきかける。
「でも、それがなぜ、俺の机の引き出しを探ることにつながる? 説明しろ、コディ」
やっぱり誤魔化せていなかった――。
絶体絶命のピンチに、「もう駄目だ」と絶望しかけたその瞬間、ルルの顔が浮かんだ。
「いいか、コディ。見つかったときは、こう言い訳しろ」
それを思い出したコディは、再びペンを走らせ、書きつけた紙をユリウスへ突き出す。
一読したユリウスは、呆れたように小さくため息をつく。
「そんなもの、拓海様に必要ない。俺の部屋にもない。……もう勝手に部屋に入るな。わかったか」
コディは、大きく頷くと、ドアノブに飛びついて器用に扉を開け、そのまま部屋を飛び出していった。
人気のない台所で、コディはようやく胸をなで下ろした。
それにしても、あんな言葉で本当に不問に付すことになるなんて、あれは魔法の言葉なのか?
コディが首をかしげていると、休憩に入った拓海とザックが台所へやってきた。
「あれ、コディ、こんなところにいたんだ。ザックさんが、僕がよく出来たご褒美だって、ホットケーキ焼いてくれるって。コディも食べるよね?」
拓海の言葉に、コディは嬉しそうにくるくると回る。
「あ、そうだ」
拓海は廊下に出て、二階へ向かって大きな声を上げた。
「ユリウスさん、お茶にするから下りてきてください」
拓海の呼びかけに、「わかりました。今、行きます」と返事が返ってくる。
ユリウスは部屋を出ようとして、机に残されていたコディのメモが目に入り、それを手に取った。
そこには「大人の絵本」と書いてあり、ユリウスは無言でメモをぐしゃりと丸めてごみ箱へ放りこむと、今度こそ本当に部屋を出た。




