72 お祈りは最後?
リリアーナは部屋のドアをそっと開け、すやすやと眠るエリンを残してキッチンへ向かった。
だめだわ。お腹が空きすぎて眠れない……。何か食べよう。
お腹をさすりながらキッチンに入ると、そこには先客がいた。
「え、ルル? 寝たんじゃなかったの?」
「あー、お嬢か。ちょっと小腹が空いたから、スープを作ってるのさ」
コンロにかけた鍋から、ぐつぐつと煮える音が、静かな部屋に広がっている。
「わあ、ナイスタイミング。ねえ、それ、あたしの分もある?」
「え? お嬢は、皇子の家で美味しいもの食べてきたんじゃないのか?」
「それがね、ほとんど食べられなかったの……ううん。食べる物がなかったの」
リリアーナは、今にも泣き出しそうな顔で訴えた。
だろうな。エマの報告じゃ、千切りキャベツと桃の缶詰くらいしか口にしていなかったという。
だからきっと、空腹で眠れなくなるだろうと踏んで、こうして夜食を作っておいたのさ。
「椅子に座って待ってな。お嬢の分も持って行くから」
「はーい」
ダイニングテーブルで待っていると、ルルが野菜と春雨のスープを運んできた。立ちのぼる湯気に、リリアーナは満面の笑みを浮かべる。
「すっごく美味しそう」
「お嬢の好きな卵サンドもあるぞ」
「もう、ルルってすごすぎるぅ」
感激したようにうるうると潤んだ瞳で見上げてくるリリアーナの頭を、よしよしと撫でて言う。
「ほら、早く食べな」
「うん。いただきまーす」
大好きな卵サンドを頬張りながら、リリアーナは思う。
ルルって、あたしが食べたいものとか欲しいものを、いつも絶妙なタイミングで叶えてくれるのよね。
それって、やっぱり、あたしたちが姉妹みたいなものだから、なのかな……。
ルルには、その言葉を口にするのは禁止されているけれど、たまにはいいよね。
じっと見つめてくる視線に気づいたルルが、少し首をかしげる。
「なんだい。あたいの顔に何かついてる?」
「ううん。言いたいことがあって……」
「なに?」
「いつもありがとう。ねーね」
ルルは一瞬、目を大きく見開いたが、すぐにリリアーナの頭をぽんと叩いた。
「あたいはお嬢専属の侍女なんだから、そういう言葉は使っちゃだめって言ってるだろ」
「そうだけど……でも、言いたかったの」
幸せそうに笑うリリアーナに、思わず口元がほころびそうになる。けれどルルは、わざと難しい顔をつくってみせた。
「明日は魔界に戻るんだから、間違っても、あたいのことをねーね呼びしないでくれよ。お屋敷の誰かに聞かれでもしたら、大変だ」
「あ、明日は、一度戻るんだったわね。わかった、気をつける。ポーリンに会えるのはうれしいけど、本邸のほうで昼食会の予定があるんだった……はあ。気が重いな」
笑顔はすっと引っ込み、リリアーナは肩を落とす。
「まあ、お嬢の苦手な大旦那様が来る日だからな」
「それ言わないでえ……行くのが嫌になる」
リリアーナがテーブルに突っ伏す。
まあ、リリアーナがこれだけ嫌がるのも無理はない。
あたいと出会ったころは王都近くの街に住んでいたけど、あのあと奥様が亡くなり、今は旦那様――リリアーナの父親と一緒に帝都で暮らしている。
けれど、祖父にあたる大旦那様が一緒に住むのを大反対して、リリアーナはひとり、離れで暮らしているんだ。
まあ、そのほうがリリアーナも、あたいも気楽なんだけどね。
落ち込んでいる様子のリリアーナの気分を変えようと、別の話題を振ってみる。
「お嬢、あの家庭教師はどうだった?」
「家庭教師ぃ?」
リリアーナが嫌そうな目をして、顔を上げる。
「そう。正体はバレなかった?」
「うん。それは大丈夫。傷がないから、違うって判断したみたいよ」
「へえ。それなら安心だ」
本当は、エマの報告で知っている。
いきなり傷の確認をされたこと。会話がまったく弾まなかったこと。塩入の紅茶を出したこと。
そして、チェザーレ一族の習わしを聞いて、ひどくショックを受けたこと。
でもね、お嬢。それを知らなくたって、仕方ないんだ。
だって、教えてくれる人は、もうそばにいないんだから……。
「さ、片づけはやっておくから、お嬢は歯を磨いて寝る支度をしな」
「うん。ご馳走様でした。じゃあ、あとはお願いね」
リリアーナは歯磨きを済ませると、自分の部屋へ戻った。
エリンは一度だけうっすらと目を開けたものの、リリアーナがそっと撫でてやると、安心したように再び眠りについた。
リリアーナは音を立てないよう、そっと窓際へ歩み寄り、恒例のお祈りをしようと指を絡めて手を組んだ。
けれど、いつもの言葉が出てこない。
ユリウスの頭髪が寂しくなって、女性と縁遠くなりますようにという、あの決まり文句が。
あいつ。意味もなく髪を伸ばしてるんじゃなかった。一族の伝統を守るためだって……。そんな話を聞かされたあとで、お祈りなんてできるはずがない。
リリアーナは、窓の外に広がる街の夜景にいったん背を向けた。
だけど、すぐにまた視線を戻す。
今夜の特別バージョンを最後に、お祈り生活も終わりにしようと決めたのだ。
「魔界の偉大なる魔王様。どうかお願いです。あのふざけた――こほん。……あの家庭教師をしている人が、早く伴侶を見つけて、髪を切ることができますように。……一族のしがらみに縛られず、自分の人生を生きられますように。どうか、わが祈りをお聞き届けください」
ほんの少しだけ、リリアーナの中でユリウスへの見方が変わった静かな夜だった。




