69 コディの報告
ユリウスは、台所にひとり残されていた。
拓海とザックは、夕食を終えた杉咲を家まで送り届けるため、少し前に出て行ったところだ。
皿洗いをしようと食器を流しまで運んだところで、ふとあることを思い出し、ユリウスは振り返った。
「コディ、いるか?」
呼びかけに反応して、食器棚の上からコディがぴょんと飛び降り、テーブルに着地する。
「来客があったから、今日の報告がまだだったな。見せてくれ」
コディは斜めがけにしたポシェットの中をごそごそと探し、一枚の用紙をユリウスに手渡す。
それには、本日の拓海の行動が細かく記録されている。ユリウスは、いつもより念入りに目を通した。
うーん。これを読む限り、孝太君が急用で来られなくなったのは事実で、たまたま通りがかったあの子が嶌村家を訪ねることになった経緯も、表向きは自然だ。
それでも、どこか引っかかる。
「おい、コディ。拓海様と杉咲先輩の、差し入れのお礼を今夜の食事にしたいっていうやり取り以外に、他に会話はなかったか? 俺に報告すべき会話は本当にこれで全部か?」
ユリウスは、テーブルの上に乗ったコディを、探るようにじっと見つめた。
コディはその視線に一瞬だけ体を強張らせるが、すぐに胸を張り、こくんと頷いた。
「そうか。他に気になる会話はなかったか……分かった。もう好きにしていいぞ」
ユリウスが最後まで言い終える前に、コディの姿はもう消えていた。
「まったく……」
ユリウスが呆れたようにため息をつく。
最近のコディは、すっかり自由を謳歌している。
家に戻ってからは、基本的に好きにしていて構わないことになっているからだ。
庭でタヌキのぽん介と遊んだり、ザックの手伝いと称して台所に入り込み、よくつまみ食いしているらしい。
そのくせ、ユリウスの前では、やたらと行儀がいい。
エイドスを依り代に定着させる際には、術者の性格も反映されるという。コディを送ってきた秘書官のキャロルがその術者だとすれば、実のところ、彼女自身がああいう気まぐれな性格なのかもしれないな。
ユリウスがそんなことを考えていると、
「ただいま」と、拓海とザックがそろって台所に戻ってきた。
「あれ、早いですね。杉咲先輩を送っていくのは、どうしたんですか?」
「送っていきたかったんですが……」
拓海は小さくため息をついた。
「車通りに出たところで、ちょうど杉咲先輩のお姉さんの車がやって来たんですよ」ザックが苦笑まじりに残りを引き継いだ。
「タイミングがいいな」ユリウスが言った。
「携帯で、帰るって連絡したら、すぐに迎えに来てくれたみたいです」
拓海が本当に残念そうな顔をするので、ユリウスは笑いをこらえるのに苦労する。
「でも、拓海様。先輩のお姉さんと猫にも会えましたから、杉咲先輩と話すときの話題には困りませんよ」
「あ、確かにそうですね」
ザックのフォローに気を取り直した拓海は、
「ユリウスさん。お皿洗うの、手伝います」と申し出る。
「いえ。今夜の皇子教育はお休みですが、中学校の宿題がありますよね? そちらを優先してください」
「あ、そうだ。今日は、まだやってません。それじゃあ、僕、部屋に行きますね」
拓海が台所を出ようとしたとき、ユリウスが思い出したように声をかけた。
「あ、拓海様。その……こほん。杉咲先輩をまた招待することは可能ですか?」
「え」
「今日の料理は出来が悪くて……拓海様と杉咲先輩の口には合わなかったようなので」
「えー、でもユリウス様。杉咲先輩は、刻んだキャベツは美味しかったって、ちゃんと褒めてたじゃないですか」
「それは、料理じゃない」
むっと言い返すユリウスの前で、ザックが拓海にそっと耳打ちする。
「リベンジしたいんですよ。ああ見えて、ユリウス様は結構負けず嫌いなんです」
「聞こえてるから」
「あはは。わかりました。またご飯を食べに来てくれるように、先輩に話してみます」
「はい。お願いします」
すごい。先輩をまた招待する口実ができた。
これって、ユリウスさんの、あのとんかつの、おかげだ。
ありがとう。ユリウスさん。
心の中でそっと礼を言いながら、拓海は部屋へ向かった。
その足取りは、羽が生えたみたいに軽やかだった。
◇◇◇
「まったく、勝手なことするなよ。心配するだろう、お嬢」
運転席でハンドルを握るルルが、深いため息まじりに、後部座席のリリアーナへ声をかける。
「だって、急に決まったんだもん」
「だとしても、敵地にひとりで乗り込むなんて、危ない真似はもうしないでくれよ」
「大丈夫よー。ルルだって見てわかったでしょ。あたし、すっごく歓迎されてたって」
「まあ、皇子は別にしても、あの狼さんもにこにこしてたから、気に入られたみたいだな」
「そうなのよ。でも、ひとりだけ、そうじゃない人いたけどね」
リリアーナは、塩を入れた紅茶を無理に飲み干そうとしていたユリウスの顔を思い出して、「くくく」と喉の奥で笑った。
ルルはルームミラー越しにその様子を捉え、呆れ半分に視線を戻した。
「お嬢は、楽しかったみたいだけど、そうじゃない子もいるみたいだよ」
「え、誰のこと?」
「ほら、隣」
ルルに言われて、リリアーナは隣にいるエリンに目をやった。
拒絶するようにリリアーナに背を向け、トラを思わせる縞模様のしっぽが、ぷんすかと揺れている。
顔を見なくとも、エリンの不機嫌さが、びりびりと伝わってくる。
「やだ、どうしたの、エリン。え、……まさか、さっきの気にしてるの?」
「そりゃあ、とっさとはいえ、あんな名前をつけられちゃね」
ルルは、リリアーナを迎えに行って、拓海たちと遭遇した時のことを思い出す。
車を止めて、まず拓海たち一行とお互いに自己紹介を交わした。それが済むと、ルルがにっこり笑った。
「今日は、妹が突然おじゃましてしまい、すみません。何かご迷惑はおかけしていませんか?」
「いえいえ、迷惑だなんて、とんでもない。お行儀のいいお嬢さんでしたよ」
ルルの言葉に、ザックがよそ行きの顔で答えた。
そのとき、車の窓から子猫が顔をのぞかせた。
毛並みは上品な薄桃色で、細い縞模様がやわらかく体に流れている。
まだ体つきは小さくて、宝石みたいな目が驚くほど綺麗だった。
「にやぁー」
「わあ、猫がいる。かっわいい。先輩。この子なんていう名前ですか?」
「名前? この子は、エ――」
「こほん、こほん。あら、やだ。ちょっとむせちゃいました」
ルルの視線を受けて、リリアーナははっとした。
以前、拓海の家に侵入したとき、うっかりエリンの名前を呼んでしまったのだ。
あの一件以来、正体がバレないように、エリンの名前は教えない約束になっていた。
「え、えっと、この子は……」
拓海にじっと待たれて、リリアーナは焦って答えた。
「名前は、とら……そう、とら子っていうの!」
「へえ。純和風な名前ですね。よろしくね、とら子ちゃん」
横を向いて肩を震わせるルルの前で、うまくごまかせたと、リリアーナは胸をなでおろした。
「あ、あれはとっさにそう言っただけで、エリンはエリンだから」
リリアーナは必死に機嫌を取ろうとしたが、当のエリンは、気に入らない名前で呼ばれたことに腹を立てて、帰ってからも、リリアーナとは目も合わせてくれなかった。
そこで、仕方なく高級猫缶を献上することにして、ようやくエリンは機嫌を直したのであった。




