60 崖の上の荒療治
居間で向かい合う拓海とユリウスの間に、微妙な空気が流れていた。
「……すみません、ユリウスさん。僕、出来なくて」
「謝らないでください。始めたばかりです。焦らずやっていきましょう」
とはいえ、翼が出現しなければ、魔法が使えない。
「では、魔法の授業はここまでにして、歴史の続きをやりましょう」
平静を装ってはいるが、ユリウスは行き詰っていた。
魔界の子供ならたやすく出来ることが、拓海には出来ない。
翼を持たない狼族や獣人なら、まだ分かる。
だが、拓海は魔王様の一人息子だった皇子の生まれ変わりだ。
他の者より、圧倒的な魔力を内に秘めている……はず。
その力を引き出すには、とにかくまず、翼なのだ。
それなのに、一週間たっても翼が出現しない。
うーん。どうしたものか……。
初めての授業で貧血になってしまい、それがトラウマになっているのかもしれない。
なら、それを打ち消すような出来事で、上書きするしかないか。
休憩時間になった。ザックが飲み物を持ってきてくれたので、それを飲みながら一息ついていると、
「ユリウスさん。友達を呼ぶ約束、覚えてますか?」
「はい。お友達を一人、食事に招待することになっていましたね」
「それでですね、孝太君からリクエストがありました」
「夕食のメニューですね」
「はい。孝太君、とんかつが食べたいって言ってました」
「とんかつですね。了解です」
拓海のために、ザックは和食に洋食、中華まで、日々いろいろな料理を作っている。とんかつも以前作ったことがあるので、大丈夫だろう。
ふと、ユリウスはマントルピースに置かれた時計へと視線をやった。
「拓海様。今日はいつもより早い時間に帰宅されたので、まだ夕食まで時間がありますね」
「そうですね。先生たちの研修があって、半日授業でしたから」
「たまには気分を変えて、外で授業をしませんか?」
ユリウスの提案で、二人は庭に出る。
その珍しい光景が気になったのか、サンダルをつっかけたザックも顔を出した。
「何が始まるんですか?」とザックが聞いた。
「僕も、わからないです」
二人から先を促すような視線を向けられたユリウスが、ザックの方を見て言う。
「少し、出かけて来る。夕食までには戻るから」
「あ、はい。わかりました。行ってらっしゃい」
「え? 授業をするんじゃないんですか」
急な話に戸惑う拓海の足元が光った。と思った次の瞬間。信じられない光景が飛び込んできた。
「な、なんですか、ここはー!!!」
目の前に紺碧の海が広がっている。白波が岩肌に打ち寄せ、海面には太陽の光がきらきらと反射している。旅行のパンフレットに載っていそうな、極上の景色だ。
そして二人が立っているのは、切り立った断崖の上。サスペンスドラマのクライマックスみたいな場所だ。おまけに、さっきまで傾きかけていた太陽が、今は高い位置でまぶしく輝いている。ここは、どう考えても日本じゃない。
「なんで? どうして? さっきまで庭にいたのに」
拓海は頭を抱えて、ユリウスと海を交互に見た。
「狭い部屋の中では、翼が出しづらいと思いまして。なので、思い切って遠出することにしたんです」
「遠出って……」
いや、遠くに行きすぎでしょ。と、拓海が心の中で突っ込んでいると――。
「拓海様。飛んでみましょう」
「え? 翼を出すんじゃなくて、飛ぶ?」
「そうです。現在の拓海様は、何らかの心理的要因で翼が隠れたままです。ならば、多少強引でも、翼が出現せざるを得ない状況を作り出すべきだと」
「作り出すって、まさか……」
僕はちらりと崖下に視線を送り、青くなる。
「すぐやらないと怖くなってしまいますよ」
「そ、そんなこと言われても、む、無理です」
「さあ、トライしましょうね」
ユリウスさんが、一歩だけ近づいてきた。伸ばされた手が、ためらいなく僕の肩を押す。僕は、ユリウスさんの唇が、「ね」という形をしているのを見つめたまま、宙に放り出された。
「ぎゃあーーーーー!」
僕の絶叫が、あたり一面に響いた。だけど、周囲に人なんて誰もいない。
落ちていく僕を、ユリウスさんが崖の上から見下ろしている。
風が耳元でびゅうびゅう音を立てる中、僕の体は仰向けのまま風を切り裂いて落ちていく。
崖の上のユリウスさんの顔が、みるみる遠ざかる。
ああ、死んじゃう。崖に叩きつけられて、体がばらばらに――。
その時、今までの出来事が、走馬灯みたいに脳内をよぎった。
両親の姿。おばあちゃんのご飯。友達との思い出――その中に、ピンクの髪の女の子がいた。
ああ、もっと先輩と話がしたかった……。
そこで、僕の意識は途切れた。




