59 魔法は翼が重要
授業を始めると言われたものの、プリントも教本も手元にないことに、拓海はそのときになってようやく気づいた。
「あれ、ユリウスさん。教科書とか使わないんですか?」
「はい。今は使いません。それは翼が使えるようになってからです」
「翼? 翼って、あの鳥が空を飛ぶときに使うやつですか?」
「鳥類のそれとは異なります。以前、私の翼をお見せしましたが、本日の課題は、拓海様ご自身の翼についてです」
「え、まさか、僕にも翼があるってことですか?」
拓海は、思わず目を大きく見開いた。
「そうです。まだ自覚していないだけで、拓海様の背にもちゃんとありますよ」
拓海は手を後ろに回し、肩甲骨の辺りを指先で触ってみる。
「……ユリウスさん。ないです。」
「ふっ……。翼はそこじゃなくて、拓海様のオーラ体に内包されています」
「オーラ体? なんですか、それ」
「肉体の外側に存在する、もう一つの体の事です」
「もう一つの体……?」
頭の上にいくつもの疑問符を浮かべる拓海のために、ユリウスがペンを取った。
「魔界人と人間も、基本的な構造は同じです。普段使っている肉体があり、その外側を、オーラで出来た――そうですね、卵の殻のような層が包んでいるとイメージしてください」
ユリウスは紙の上に、さっと人の形を描き、その周囲をなぞるように楕円を描く。
「肉体とは別の、もう一つの体。目には見えない生命エネルギーで形づくられているのがオーラ体です。そして、そこに魔法の核となる翼が存在するのです」
「翼が魔法の核……じゃあ、杖は?」
「杖? えっと、特に道具は必要ありませんが……」
「そ、そうですか」
そうつぶやく拓海は、内心、少しだけがっかりしていた。昨日の晩、歯磨きをしていた時、杖を振る自分を想像しながら、歯ブラシでこっそりイメトレしていたのだ。それをザックに目撃されて、かなり恥ずかしかったことは秘密だ。
「あの、翼って、飛ぶために使うから必要なんですか?」
「いいえ。飛ぶ際、使うのは翼ではなく魔力です」
「へえ、じゃあ翼は、ただの飾りみたいなものなんだ」
「違います」
ユリウスが、きっぱりと否定する。
「翼は、魔力を全身に巡らせるブースターです」
「ブースター?」
「そうです。翼こそが、魔法を行使するための重要器官なのです」
「はあ、そう……なんですね」
いまいちピンときていない様子の拓海に、ユリウスは苦笑いを浮かべた。
「まあ、翼についての詳しい説明は、実際に翼を出現させてからにしましょう」
「あ、はい」
「では、目を閉じてください。そして、背中に意識を集中させてください」
「目を閉じる」
拓海はそうつぶやきながら、そっと目をつむった。
続けて、ユリウスの凛とした声が響く。
「では、大きな翼をイメージしてください。そして、それが自分の背中で羽ばたいていると想像してください」
拓海は頭の中で、ユリウスの言葉を繰り返す。
翼、翼……大きな翼。
それが僕の背中に……。
そう、肩甲骨から翼が生えてくる。ユリウスさんみたいに、大きな翼が……。
拓海は、そこまではスムーズにイメージできていた。
だが、その像は不意にずれる。
それはまるで、前を向いて歩いていたのに、道の窪みに足を取られて、視線だけがぐらりとぶれたような感覚だ。
本来なら、ユリウスの誘導どおり、拓海の背には、初々しい若鳥の翼が出現するはずだった。
だが今、拓海の脳裏には、まったく違う映像が流れ出す。
背中全体が、ぼこぼこと不気味にうごめいたかと思うと、肩甲骨が卵の殻みたいにぱっくりと割れた。
その裂け目から、得体の知れない何かが、ぬるりと這い出した。天へ向かって、耳を塞ぎたくなるような声で咆哮する。
「うわぁーーー!!」
「拓海様?」
突然の絶叫に、ユリウスは拓海へ駆け寄った。
だけど、拓海は言葉を失い、返事ができない。
……うっ、気持ち悪い。えぐい想像しちゃった……。
「大丈夫ですか、顔が青いです。少し横になりましょう」
「拓海さまーー!!」
ドアが勢いよく開き、ザックが雪崩れ込んできた。
「水を持ってきました。ユリウス様、拓海様は、どうしたんですか?」
ユリウスは、拓海をソファーに横たえながら、ザックに言う。
「多分、一時的な貧血だと思う――拓海様、ザックが水を持ってきました。飲みますか?」
「……あ、少ししたら、ください…………すみません、ユリウスさん、ザックさん」
「俺のことはいいんです。ユリウス様、治癒魔法で治せませんか?」
「怪我じゃないから、俺では役に立たない。すみません。拓海様」
「そんな……ユリウスさんが謝ることないです。僕が、悪いんです」
その日、拓海の体調を考慮し、魔法の授業は中止になった。
◇◇◇◇◇
「では、拓海様。ゆっくりお休みください」
ユリウスさんが、優しい声でそう言って、部屋を出ていった。
今夜は早く休むよう勧められて、僕はいつもより早い時間だけど、ベッドに入った。
「ふう」
天井を見上げると、いくつもため息がでる。
あの時……。ユリウスさんに翼をイメージするよう言われた時、僕の中で、誰かの声がしたんだ。
それは、小さな声だった。でもその声が、「翼を出すな」って、僕に警告した。
それで、あの瞬間、
①翼を出すな
②出したらヤバい
③ヤバいものが背中にいるんだぞ
という、よく分からない三段論法が、頭の中で勝手に完成した。
だから、あんな変な想像しちゃったんだ……。
貧血を起こすなんて、初めてで、自分でもびっくりしちゃった。
でも、ユリウスさんとザックさんの方が、もっとびっくりだよね。悪かったなあ……。
そう思いつつ、僕のことを本気で心配してくれる二人の姿は、ちょっと嬉しかったりして。
二人のことに気を取られた僕は、不思議な声のことを頭の片隅に追いやってしまい、その後はもう思い出すこともなかった。
そして、いつの間にか、僕は夢の世界へと旅立っていた。




