43 拓海の中には
「こんな低レベルの人間に教える価値など、毛ほども――」
女はまだ何か喚いていたが、ユリウスがパタンと勢いよく本を閉じた。
閉じられた瞬間、「ぎゃっ」と短い悲鳴のような声がしたが、ユリウスはぐっと本を押さえつけて、その声を封じた。
「あの、ユリウスさん。何か、はみ出してます」
おずおずと拓海が声をかける。ユリウスが本に目をやると、本の隙間からドレスの裾がはみ出ている。
押さえていた手を緩めると、ドレスの裾はさっと引っ込み、本は静かになった。
「すみません、拓海様。どうやらかなり古い本だったようです。人間に対して差別的な発言がありましたが、今の魔界ではそのようなことはありません。どうか安心してください」
ユリウスは笑顔を作り、拓海にそう弁明した。
だが、ユリウスの心の中で嵐が吹き荒れていた。
なんなんだ、あの案内人。拓海がようやく魔界の悪いイメージを払拭しかけていたのに、水の泡になるところじゃないか。
「大丈夫です。気にしてません」
拓海の言葉に、ユリウスはほっとしかける。
「だって、前にやって来た魔界の使者さんたちも、『人間は下等生物』だの、『人間界は低俗でレベルが低い』だのって、さんざん言ってましたから」
終わった……。
拓海の前なので平静を装っているが、心の中では、がっくり膝を折って手をついていた。
「大丈夫ですか?」
固まって動かないユリウスを心配する拓海の声で、ユリウスは我に返った。
「あ、その……申し訳ありません。拓海様に嫌な思いをさせてしまいました」
「僕、さっきユリウスさんに言われたこと、思い出しました」
「?」
『何が真実で何が嘘なのか。ねじれたイメージに縛られるんじゃなくて、新しい視点で、魔界の歴史に触れて欲しい』って話です」
「はい……」
何が言いたいんだ? ユリウスは、内心で首をひねる。
「ユリウスさんの言葉って、そのまま魔界の人にも言えると思うんです」
拓海はユリウスをまっすぐ見ながら続けた。
「人間は魔力もないし、寿命だって魔界の人たちよりずっと短いです。それでも、困っている人を見たら放っておけない、そんな人が多いんです。少なくとも、僕の周りの人たちは、みんなそうでした」
そう言う拓海の目には、やわらかな優しさがにじんでいる。
「でも、魔界から来た人たちは、人間のことをちゃんと見ないで、最初から『下等生物』とか『低俗』って決めつけてました。それって、ユリウスさんが言っていた『ねじれたイメージに縛られる』っていうのと、同じじゃないですか?」
そこまで一気に言ってから、拓海は小さく息をのみ、手のひらをぎゅっとにぎりしめた。
「だから、魔界の人にも、新しい視点で人間界を見てほしいんです」
「拓海様……」
「人間のことを……ううん。僕のことを、ちゃんと知ってほしいから」
ユリウスは拓海の目を見つめたまま、その言葉を噛み締める。
拓海の魔界への印象を変えさせようと躍起になっていたが、俺自身が、人間は弱い生き物と決めつけて、拓海の中にある強さを見ようとはしていなかった……。
そうか……俺も、まだまだ未熟者なんだ。そう思い至り、ユリウスはふっと笑う。
「ユリウスさん?」
言い過ぎたかと不安そうな拓海へ、ユリウスが力強く声をかける。
「拓海様。私は、拓海様の家庭教師として未熟であると痛感しました。だから、もしよければ――これからは、共に学び、共に成長していきましょう」
その真っすぐな言葉が嬉しくて、拓海の胸の奥がふわっと温かくなった。気がつけば、拓海の口から「はい」と言う返事がこぼれていた。
そのとき、ノックもそこそこにドアが開いて、ザックが入って来た。
「風呂が沸きましたよ」
「おい。返事を聞いてから、入って来いよ」
「あ、すみません」
ザックが頭をかいた。
「でも、そろそろ切り上げないと、寝るのが遅くなりますよ。拓海様、今朝から運動メニュー増やしたじゃないですか。さすがに疲れてますって、ユリウス様」
ザックにそう言われ、ユリウスも「そうだった」と今朝のことを思い出して、うなずいた。
「ユリウスさん。ありがとうございました」
拓海は元気に礼を言って、ザックと一緒に居間を出て行った。
廊下を歩きながら、ザックが話しかける。
「拓海様、今日は疲れたでしょうから、俺、背中流しましょうか?」
「え、ザックさん。背中を流すだなんて、よくそんな言葉を知ってますね」
「ドラマで見たんです」
「ドラマかあ……でも、ザックさんにやってもらったら、背中が赤くなっちゃいそう」
「そんなことありませんよ。玉ねぎの皮むきより、優しくやりますから」
「玉ねぎの皮むき? なんですか、それ」
拓海はおかしそうに笑った。
廊下からは、二人の楽しげな会話が聞こえてくる。
ユリウスは、授業で使った資料を片付けようとして、ふと手を止めた。
それは、拓海に暴言を吐いた歴史の本だった。
俺が言った言葉を引用して、自分の意見を正々堂々と述べたあの賢さ。
それは、拓海の前世であるあの方も同じだった。
あの方は、幼き頃から、その利発さで周囲を驚かせたという。
やはり、拓海の中には、あの方がいるんだな……。
そう感じたユリウスの胸に、暗い影が落ちる。
その影の正体など、ザックと他愛もない会話を続けている拓海は、まだ知る由もなかった。




