29 魔法陣といえば、マックス
ユリウスは、ひび割れや凹みが目立つ荒れた舗道を、慣れた様子で歩き、目当ての店にやってきた。
ダウンタウンと一般エリアの境目にある『狼と三日月』だ。
この店は、昼はカフェ、夜はバーとして営業している。ドアの隙間から、コーヒーと甘いクリームの匂いが、ふわりと外に流れてくる。
窓ガラス越しに、お目当ての人物の姿を確かめる。店に入ろうとしたまさにそのとき、ユリウス目掛けてある人物が駆け寄ってきた。
『狼と三日月』の客の入りは半分ほど。居合わせた客は皆、窓際の席に座る人物へと視線を向けていた。
痩せぎすで顔色が悪く、黒いフレームの眼鏡をかけた男だ。
男のテーブルには、隙間なくスイーツの皿が並んでいる。その山のようなスイーツを、男は本を操りながら、淡々と胃に収めていく。
「やっぱり、ここにいたのか、マックス」
ユリウスが声をかける。マックスは手にしていた本から顔を半分だけ覗かせて、目の前に座った人物が誰か確認すると、興味を失ったようにまた本に視線を落とした。
「ユリウスか、引っ越しはどうした?」
「延期になった」
ユリウスは、やって来た店員にコーヒーを頼み、テーブルいっぱいに並んだケーキの数に思わず苦笑する。
「ずいぶん頼んだな。これ、本気で全部食べるつもりか? ……おい、本を読みながら食事するのはやめろ。消化に悪いぞ」
「……無理だな。僕は、昨日、この本を読むはずだった。教授に貸してもらった、この『魔法陣の始まりとその未来』をね。やっと貸してもらって、すごく楽しみにしていたんだ……なのにチーム内でトラブルが発生して、徹夜する羽目になった。わかるか? 意図せぬ時間外労働のせいで、貴重な読書時間を根こそぎ奪われたんだ!」
マックスは、世界の終わりでも宣告されたような顔で、大げさに嘆いた。
「そうか、大変だったな。で、トラブルって何があった?」
「それは、僕が苦労して作った――」
マックス言いかけて、ユリウスと目が合うと口をつぐんだ。
彼は魔王城勤務の文官で、魔方陣の研究と開発を担当している。仕事柄、口外できない極秘事項が多い。ちなみに、最近昇進して主任になったばかりだ。
「と、とにかく、僕は疲れていて糖分を摂取したいし、本も読みたいんだ。放っておいてくれ」
「まあ、落ち着け。実は伝言を頼まれたんだ。早く家に帰って、体を休めてほしいってさ」
「伝言?」
「ああ、ヨアヒムさんだ」
その名を聞いた途端、マックスは思わず窓の外に目をやる。
店から少し離れた電柱のそばに、スーツ姿の白髪の老人が心細げに立っている。
「はあー。もう来なくていいって言ったのに、爺やのやつ」
「そう言うなよ。なにしろ名門オステルマン家の嫡男が家も継がずに文官なんてやってるんだ。しかも貴族専用宿舎を嫌って、わざわざダウンタウンで暮らしてる。心配するなという方が酷ってものさ」
ユリウスのからかうような口ぶりが癪に障ったのか、マックスはむっとした顔で、ずれかけた眼鏡を乱暴に押し上げた。
「いいよなー、ユリウスは、継ぐ家がないから気楽で」
口にした瞬間、自分の失言に気づき、マックスの顔からさっと血の気が引いた。
「す、すまない。配慮に欠けた発言だ。家を失ったのは君のせいではないのに……」
「……いいんだ。継ぐ家がないのは事実だから」
ユリウスはそう言って、タイミングよく運ばれてきたコーヒーにそっと視線を落とす。
「俺のことを、呪われた一族だの、生き残った哀れなやつって、口さがない連中は好き勝手に言う。でも、さっきのマックスの言葉は、それとは違うってわかってる……。わかってるから気になんてしてない。本当だよ」
そう言って、ユリウスは力なく笑ってみせた。
「……ユリウス」
寝不足で頭が働かない中、友への失言を悔やんでいるマックスの罪悪感を、少しだけ利用させてもらう。悪いな。俺には、どうしても確かめたいことがある。
魔界の結界術は、魔法陣を用いることが多い。
そして、目の前の男は、その魔法陣に関して不世出の天才と呼ばれている。何しろ、奇人変人を数多く輩出してきたオステルマン家の出なのだ。それも当然だろう。
さあ、鉄は熱いうちに――。
「で、徹夜の原因はなんだったんだ?」
ユリウスは、ためらいなく核心を突いた。
まっすぐ向けられたその瞳から目をそらせず、マックスの口が、ゆっくりと開く。
「あ、えっと……その、実は先月、小規模だけど魔王城並みに堅固な結界を作るように言われたんだ。至急案件でさ、それを僕のチームが請け負った」
「やっぱり、マックスのチームか……」
「え、何か言った?」
「いや、何も。それで、仕事は成功したのか?」
「ああ、もちろん。新しい組み合わせも取り入れた自信作なんだ!! ただ、既存のものと違って、新しい魔法陣を使う場合は、術の発動や解除について一通り検証しておく必要がある。その過程で、術を一時的に無効化するための魔法陣も用意したんだけど……」
マックスは、肩を落として深いため息をつく。
「その一時解除の術式を記載した書類を紛失してしまったんだ」
「紛失か……」
「昨日それに気づいて、蜂の巣をつついたような大騒ぎになった。上に知られたら、かなりヤバイ。始末書では済まないだろう。みんな必死に探してるよ」
「お前は、帰ってきてよかったのか?」
「ああ。僕は邪魔だって……。魔法陣に関しては有能だけど、それ以外はポンコツなんだってさ。だから、自宅で吉報を待つようにって、強制帰宅させられたんだ」
そう言って、マックスは項垂れた。
ひどく落ち込んでいるように見えるが、同僚たちは彼の体調を案じたのだろう。睡眠より読書、食事より研究を優先するせいで、マックスの顔色はいつも不健康なまでに青白い。
さて、どう慰めるか――とユリウスが考えていると、
「主任! 見つかりました! 見つかったんですよー!」
突然、店の中に甲高い声が響き渡った。客たちが一斉に入り口を見る。そこには、お団子ヘアの小柄な女性が、頬を紅潮させて立っていた。
「なに、本当か、メイリン!」
「はい、書棚の後ろに落ちてたんです! これでクビにならずに済みます!」
「うおおー。やったぁあー!!」
さっきまで生気のなかったマックスが、椅子をきしませながら歓喜の雄叫びを上げた。
「それって、メイリンさんが見つけたの?」ユリウスが尋ねる。
「いえ、総務課のジェフリーさんが一緒に探してくれたんです。そうしたら、すぐ見つかって。もう救世主ですよ」
「ジェフリーが……」
自分もよく知る男の名前を聞いて、ユリウスは黙り込む。
静まり返ったユリウスの前で、マックスとメイリンは嬉しそうにハイタッチを交わしている。
「ちょっと、そこの二人。他のお客様の迷惑よ。騒ぐんだったら外でやってちょうだい」
「すまない、マダム・デリア。つい興奮してしまって」
マックスは、顔見知りの店主に向かって必死に頭を下げた。
この店のスイーツが大好きな彼にとって、出禁だけは何としても回避したいのだ。
「ところでメイリンさん。書類が見つかったあとで、ジェフリーはどうしました?」
「帰りましたよ。一般エリアの噴水公園で人と会う約束があるから、半休をとったんですって。ずいぶんおしゃれしてましたから、デートかもしれませんね」
「なるほど。他部署のジェフリーが来たらすぐに問題が解決し、当のジェフリーはさっさと帰ったと……」
ユリウスは小さく頷く。ふと窓の外に視線が向いた。
「ところで、マックス。ヨアヒムさん、困ってるんじゃないか」
「え?」
マックスが慌てて外を見ると、ヨアヒムが、がらの悪そうな男たちに取り囲まれている。
「爺や!」
マックスは叫ぶなり、店を飛び出した。
「あ、待ってください。あたしも行きます!」
マックスに続こうとしたメイリンの前に、「ちょっと、うちはツケはやってないのよ」と、マダム・デリアが立ち塞がった。
「あ、すみません。払います。いくらですか?」
伝票を見せられ、「え、こんなに……」と一瞬目を丸くする。それでもメイリンは、財布から飲食代をさっと取り出してマダム・デリアに渡し、ようやく店を出ていく。
ユリウスは、コーヒーを一口含みながら、静かに外の様子を眺めた。
ヨアヒムをかばったマックスが、モヒカン頭の男に胸ぐらをつかまれて、なにやら恫喝されている。
そこへ、メイリンが乱入した。文官服を着た、小柄だが肉付きの良いメイリンに、男たちはにやけ顔を向ける。
男たちの油断を突くように、メイリンの上段突きからの回し蹴りが、男たちに次々と叩き込まれる。恐れをなした男たちが、ほうほうのていで逃げ出した。
「相変わらず、あの子の回し蹴りは見事ね」
マダム・デリアが、感心したように笑った。
メイリンの実家は、ダウンタウンでも名の知れた体術の道場だ。
うなずいたユリウスの視線の先で、マックスが電池が切れたようにその場へ座り込む。
長身の男の体を、小柄な女性と老人が両脇から支えた。そして、三人でふらつきながらホテル・マーサへ向かうその姿は、最近ではすっかり見慣れた光景になりつつある。
「さて、こっちも行くか」
ユリウスは支払いを済ませると、一般エリアへ向かって歩き出した。




