26 ホテル・マーサ
ノアの運転する車は、しばらく走った後、目的地であるユリウスの自宅付近で止まった。
「助かりました。ノアさん」
「こちらこそ、面倒ごとに巻き込んでしまい、申し訳ありませんでした」
「そんな。ノアさんのせいじゃないですよ」
「あの、ユリウス様。……ザックが、何かへまをしたら教えて下さい。俺が鍛え直しますから」
「ははは。大丈夫ですよ。では、これで」
「ユリウス様!」
車を降りようとするユリウスをノアが引き留めた。
「その……何か、最近困った事はありませんか?」
「え?」
「人間界という馴染のない場所で、何か……その、手を焼いてる事はありませんか? 対処に悩むような事とか」
なんだ? この会話に既視感が、と思ったが、ノアはブラッドフォード卿に仕える身だ。自分とザックが、転生した皇子の元にいるのを知って心配しているのだろう。そう思い至り、ユリウスは務めて明るく答える。
「いえ、何も。ザックも自分も大丈夫です」
「そうですか……すみません。おかしな事を言って……でも、もし、もしも助けが必要な時は連絡ください。すぐに駆け付けます!」
「はい」
ユリウスは去って行く車を見送った後、自宅に向かって歩き出す。
そこは古い建物だった。屋上に、「ホテル・マーサ」と書かれた看板が設置されている。中に入ると、繰り返しの術がかけられたレコードから、いつもの歌が流れていた。
受付カウンターにはオーナーの老婆が座っていたが、居眠りしている。そのまま通り過ぎようとしたら、「久し振りに帰って来たってのに、挨拶もなしかい!」と不機嫌そうな声がした。
「なんだ、起きていたのか、マーサ」
「客も来ないのに、目を開けていたら体力の無駄。だから閉じてたんだよ。おや、あんた一人かい? 狼はどうした。ついにおっちんじまったのかい?」
「安心してくれ、ぴんぴんしてるよ」
「ふん。別に心配なんてしやしないよ。宿代を未払いにされたら困るから訊いただけだよ」
いつも憎まれ口を利く老婆だが、危険な仕事をしている自分達の事を気に掛けてくれる数少ない一人だ。
「ところで、あんた達今月一杯で、部屋を引き払うんだったね。もう荷造りは終わったのかい?」
「その件で話が」
「あー、入居の際、預かった保証金だけどね、これまであたしに世話になった礼ってことで、ありがたくもらとっくよ。これは退去する時、皆がそうしてる。まあ慣習ってやつだね」
「え? でも退去の時に返してくれる契約じゃ」
「おや、そんなこと言ったかい? 歳のせいか覚えてないねえ」
マーサが経営しているこのホテルは、長期滞在者が多く、実態としては下宿屋に近い。簡易キッチンと洗濯機が付いているので料理も洗濯も出来るし、室内も一般のホテルより広い。そこが気に入って、ユリウスとザックも、それぞれ部屋を借りているのだ。
それにしても保証金を返さないとか、相変わらずがめついな……。
ユリウスは内心、苦笑いする。
「実は、退去を延ばしたいんだ。可能かな?」
「おや、なんだい、そういう話なら早くお言いよ。まったく、で、期間は?」
「あと半年は頼みたい」
「そうかい、そうかい。じゃあ前金で、もらっておこうかね」
皺だらけの手が差し出された。ユリウスはポケットから、金貨が入った袋を取り出し、その手に乗せる。
「俺とザックの分だ。大目に入れてある」
「気が利くね」
にんまり笑い、袋の中身を数えだしたマーサを残し、ユリウスは階段に向かう。その背に向かって、マーサが大声で言う。
「続けて住むなら、うちは『同衾禁止』だからね。そのルールは守っておくれよ。揉め事はまっぴらなんだ」
ユリウスは手をひらひらさせ、そのまま階段を上って行った。
三階の端にある自分の部屋に入った。しばらく留守にしていたので、換気の為に窓を開ける。
吹き込んで来た風が気持ちいい。机の書類が飛ばないよう、近くにあった本を乗せる。部屋には洒落た装飾品などはなく、大半を占めるのは本だ。
ユリウスは近くにあった医学書を手に取ると、ソファーに座って読み始めた。
「何を読んでるの?」
いきなり声がした。驚いて顔を上げると、意外な人物がそこにいた。
仮面をつけた少女だった。




