2 月夜の訪問
夜会の前日、俺は直属の上司から呼び出しを受けていた。
魔王城でもっとも美しい庭園を見下ろす場所に、ブラッドフォード卿の執務室はある。
取次ぎをしてくれたのは、第二秘書官のアンドリューさんだった。
感じの悪い第三秘書官でも、曲者の第一秘書官でもなかったことに、内心ガッツポーズを決める。
「ユリウスか。そこに座って、少し待て」
いつもの無機質な声がした。
入室した俺に一瞥もくれず、書類を読み続けるこの男性が、魔王様の側近にしてこの国の宰相だ。
城内の女性職員たちは、彼のことを冷たそうで実は優しいとか、時折見せる笑顔が素敵だとか騒いでいる。だが、俺にとっては怖い存在でしかない。
書類をめくる音だけが静かな室内に響く中、自然と伸びた背筋を意識しながら、次の言葉を待つ。
重厚な机の上には書類の山がうず高く積まれており、どうやら、まだしばらく手は離れそうにない。
庭園でも眺めようかと視線を巡らせたとき、あるものが目に留まった。
幼子の落書きめいた絵が、場違いなほど立派な額に収められて飾られている。
こんなものがあっただろうか。
とはいえ、いつもは短いやり取りを交わすだけですぐに退出していたし、このソファーに座るのも、今日が初めてだ。
よく見れば、写真もある。ブラッドフォード卿と数人の人物が並んで写っていた。
家族写真だろか。すごく気になる。だが、ガラスに光が反射して、判然としない。
「明日、魔王様主催の夜会が開かれる。参加するように」
不意に告げられたブラッドフォード卿の言葉に、思わず耳を疑った。
「夜会に、私がですか」
「そうだ。お前も領地持ちの身分になったのだ。夜会に顔を出しても、何らおかしくはあるまい」
領地。
その言葉が胸の内に落ちて、思わず意識がそちらへ引かれる。
下賜されたのは、いたって平凡な土地だ。富を産む鉱山があるわけでも、目立った産業があるわけでもない。
それでも、春になれば愛らしい草花が咲く丘に、澄んだ湖もある。
国中を飛び回る慌ただしい暮らしから、ようやく抜け出せる。さんざん苦労をかけたザックにも、少しは楽をさせてやれる。
そんなことを考えていたせいで、返事が遅れた。まずい。
「そのような華やかな場は、私には分不相応かと」
魔王様主催の夜会は、魔界の重鎮や高位貴族が集う、きわめて政治色の濃い場だ。想像しただけで、胃が痛くなる。
「明日の夜会で、魔王様から仕事の命が下る。お前は、それに従うように」
「お待ちください! 今後、仕事の依頼はない……そういう話だったはずです」
思わず、反論してしまった。
「諦めろ、緊急案件なのだ。いいか、この件、お前は無関係ではない。いや、むしろお前こそ関わらねばならない」
「私が? それは一体……」
「人間界で、あの方の転生が確認されたのだ」
転生? 何を言っているんだ。
話の内容が理解できずに戸惑う俺を、ブラッドフォード卿が静かに見つめてくる。
俺も関わっていた人物で、魔王様が動く案件。
考えを巡らせた瞬間、全身を衝撃が貫いた。
まさか――。あの方か!
震えそうになる手を、きつく握りしめる。
しっかりしろ! ブラッドフォード卿は、配下の者が感情を露わにするのを何よりも嫌う。
「皇子様……ですね」
「そうだ。魔王様、ただひとりのご子息だ。急逝されたのち、魂の所在は長らく不明だったが、人間界に派遣されていた教会の者が、偶然それを発見した」
「……皇子様で、間違いはないのですか?」
「ああ。鑑定者を何度も送り込み、確認は取れている。転生した今は、小さな島国で学生として暮らしている。これが資料だ。目を通しておけ」
渡された資料は薄かった。
それでも、手にのせた瞬間、その重みだけで足元から世界が崩れ落ちるような気がした。
◇◇◇◇◇ ◇◇◇◇◇
あの日、事前に情報を得ていたおかげで、ユリウスは魔王様の御前で醜態をさらさずに済んだ。
この件をザックに伏せていたのも、魔王様の気が変わるかもしれないという、一縷の望みを捨てきれなかったからだ。
前を歩くザックの背を見ながら、ユリウスはそんなことを思い出していた。
今。ユリウスとザックは人間界にいた。
住宅街の外れにある古い洋館を目指して、二人は歩いている。
そこに皇子がいる。
資料によれば、現在の名前は、嶌村拓海、十二歳、中学一年生。
両親は事故で他界し、育ての親だった祖母も最近入院してしまい、今はひとりで生活しているという。
ひとりで生活など、あまりにも――。
「寂しいですね」
不意に、ザックが声を張り上げた。
「ほんと寂しいです」
「あ、ああ。そうだな」
あまりに絶妙な間だったので、ユリウスは思わずザックの顔を見た。
先程の言葉は、皇子の境遇に言及したのではなく、この場所そのものに不満があるらしい。ザックは眉間にしわを寄せたまま、周囲を見渡している。
「昼間に着くはずだったのに、すっかり夜だし。あーあ。せっかく人間界を見て回れると思ったのに……これも全部あいつらのせいだ!」
ザックは不満げに口をへの字に曲げた。
魔界人が人間界へ赴くには、役所の許可が要る。
本来なら今回は特例で、難なく通るはずだった。それを、あの役人どもがわざと引き延ばしたのだ。
「俺が狼族だからって、ねちねち嫌がらせしやがって、あの役人め! ユリウス様、帰ったら、あいつらに一発お見舞いしてやっていいですか?」
「やめておけ。故意に足止めしたことが露見して、今ごろ左遷されている」
「本当ですか?」
「ああ。ブラッドフォード卿は厳しいからな」
「やったー! 思い知ったか、悪徳役人め!」
喜んだザックが、ぴょんと飛び上がった。
「おい、どうしたザック。落ち着け」
「やだなー、落ち着いてますって。その証拠に、ユリウス様はこれから、ガキんちょと対面。俺はその間、家の周囲を警備。ね、ちゃんと仕事だって頭に入ってます」
「ガキんちょって……おい、不敬だぞ」
「不敬って、誰も聞いてませんって。あ、もし、そのガキんちょが生意気したら、俺に言ってください。お仕置きしてやります」
ザックが高笑いする頭上には、まんまるの月が浮かんでいる。
しまった。今夜は満月だ。
ユリウスは思わず額に手を当てた。
「……ザック。これから俺は皇子様にお会いして、今後の打ち合わせをする。邪魔が入らないよう、くれぐれも……くれぐれも警護を頼んだぞ」
「はーい。力みなぎりまくりですから、安心して任せてください!!」
どん、と胸を叩くザックに、正直、不安しかない。
だが、約束の時間はとっくに過ぎている。
「それじゃあ、行ってくる」
覚悟を決め、ユリウスは洋館へと向かった。
あと数メートルというところで、勢いよく扉が開き、少年が姿を現した。
明かりを背にしているので、顔ははっきり見えない。
しばし互いに見つめ合っていたが、先に口を開いたのはユリウスだった。
「遅くなってしまい、大変申し訳ありません。お聞き及びかと存じますが、皇子様の教育を担当することになりました、ユリウスと申します」
右手を胸に当て、恭しく礼をする。
「あ、はい、聞いています。僕は嶌村拓海です……えっと、どうぞあがってください」
ユリウスは拓海に続いて家の中へ入った。
広い玄関ホールの正面には、立派な階段がある。踊り場の途中から左右に分かれて伸びる造りで、壁や手すりに至るまで細部のあしらいが美しい。
相当こだわって建てられた家なのだろう。
明るい室内で、ようやく拓海の顔がはっきり見えた。
前世の皇子は、女性と見紛うほど麗しい容貌をしていた。だが、拓海は素朴な顔立ちで、体つきもやや細い。大人しくて素直そうな少年――それがユリウスの抱いた第一印象だった。
「あの、ここで靴を脱いでください。そして、これを履いてください」
拓海の背中は、物差しでも入っているかのようにぴんと伸びていた。
緊張のあまり、体が強張っているのだろう。
拓海がシューズボックスからスリッパを取り出す。その間、ユリウスは上に置かれた少々不格好な粘土細工に目を留めた。
その視線に気づいた拓海が、控えめに声をかけた。
「あ、それは、昔、夏休みの工作で作ったものです。下手だから、飾るのをやめたいんですけど、おばあちゃんが、せっかくだからって聞いてくれなくて」
「そうなんですか。でも、躍動感があって、よくできていると思いますよ。この犬の置物」
「……馬です。それ」
一瞬の沈黙のあと、ユリウスは慌てて咳払いをした。
「し、失礼しました。私の勘違いです。よく見れば、確かに馬、馬ですね。今にも駆けだしそうで、実に臨場感があります」
気を悪くさせてしまったかと焦ったが、ユリウスの狼狽は、かえって拓海の緊張を和らげたようだった。背中のこわばりが消えている。
「大丈夫です。うちに来る人で、馬って言った人は誰もいませんから」
楽しそうな声に、ユリウスもほっとする。
拓海はユリウスを居間へと案内した。
「えっと、お茶を淹れてきます」
「どうぞお気遣いなく。私は客ではありませんので。それよりも、持参した書類をご覧ください」
「すぐ、すぐですから。少し待っていてください!」
止める間もなく、拓海は出て行ってしまった。
ユリウスは仕方なく、ソファーに座って待つことにした。
近くの腰高窓にはステンドグラスがはめ込まれている。昼間であれば、美しい色を室内に落とすことだろう。
視線を巡らすと、暖炉の上のマントルピースには家族写真が飾られていた。その一つには、幼い拓海と、両親らしき男女が笑っている古い写真があった。
それらを眺めているうちに、盆にティーカップを載せた拓海が戻ってきた。
ぎこちない手つきで、お茶をテーブルに置く。
「ど、どうぞ」
「ありがとうございます」
礼を言うユリウスと拓海の目が合った。拓海の顔が、みるみる赤く染まる。
「いかがされましたか?」
「あ、その……ユリウスさんが、すごくかっこよくて」
「ご冗談を。私など取るに足らない容姿です」
「そんなことないです!」
拓海がぐいっと身を乗り出してきた。
「青い目は宝石みたいに綺麗だし、髪もすごくさらさらで、まるで物語に出てくる王子様みたいです。本当にかっこいいです。もっと自信持っていいと思います!」
「そ、そうですか。ありがとう、ございます……」
あまりにまっすぐな言葉に、ユリウスは面食らった。
だが当の拓海は、「僕がこの顔だったら先輩もきっと」などと、意味のわからない言葉をぶつぶつと呟いている。
「あの、皇子様?」
「は! す、すみません。ちょっと取り乱しました。ごほん……あの、ユリウスさん、僕のことは皇子様じゃなくて拓海って呼んでください」
「わかりました。拓海様」
「様はいらないです」
「それはお許しください。不敬に当たりますので」
「そんな、不敬だなんて」
拓海が反論しようとしたとき、外で物音がした。
はっとして窓を見やるユリウスに、拓海は、「ああ」と言いながら立ち上がった。
「この辺りは緑が多くて、タヌキがいるんです。たまにうちの庭にもくるから、さっきのもきっと」
「お待ちください!」
ユリウスの制止も聞かず、拓海が腰高窓を開け放つ。
暗闇の中に、ふたつの赤い光がらんらんと浮かんでいた。じっと、こちらを見ている。
「え?」
拓海が、目を凝らした、その瞬間だった。
大型の獣が、勢いよく窓から部屋の中へ顔を突っ込んできた。鋭い牙の並ぶ大きな口には、タヌキががっちりとくわえられていた。
あまりの恐怖に、拓海の喉から絶叫がほとばしった。




