14 魔獣と少女
ユリウスは、固く閉ざされたドアへ、一瞬、手を伸ばした。けれど、その手は宙で力を失い、ぶらりと垂れ下がる。
ブラッドフォード卿に叱責されるだろう。魔王様から罰が下されるかもしれない。それでもこの家から出て行く。それが最善だと、ユリウスは自分に言い聞かせる。
学校に行けず苛立っていた拓海を、わざと焚きつけて家を出て行くよう言わせた。それで家庭教師としての役目は終わる。全て思惑通りに運んだ。それなのに……。
別れ際の拓海の顔が、頭から離れない。怒りに震えながらも、どこかひどく傷ついたような目をしていた。
胸の奥を走る鈍い痛みに、ユリウスは思わずペンダントを握りしめた。
「俺は大丈夫。一緒に魔界へ帰ろう」
まるでペンダントが、自分を気遣っているかのように、ユリウスはそっと語りかけた。
ふいに、甘い香りが鼻先をかすめた。
そういえば、ザックがタヌキの餌やりに行っていたな。
ユリウスは、香りのする方へと歩き出した。
◇◇◇
「もー信じられない! あんなくだらないこと言うなんて、最低最悪! ちょっとでもいい人だと思ってた自分が馬鹿だった!」
拓海は玄関ホールで吠え立てた。怒りで血が沸騰しそうだった。
「こうなったら、全部捨ててやるーー!!」
拓海は乱暴な足取りで階段を上り出した。向かうのは、ユリウスの部屋だ。
新しくそろえた寝具もカーテンも、たった今、全部ただの不用品になった。
怒り心頭の拓海の背後で、何かが小さく音を立てた。
ユリウスが戻ってきたのかと、拓海は鬼の形相で振り返る。ところが――。
「な、何、どういうこと……」
家の中に、獣がいた。
虎に似ているが、体の色は淡い桃色。額には宝石のような石が埋め込まれ、背中には小さな翼が生えている。
これ、地上の生き物じゃない。魔界に棲む魔獣だ。拓海は全身が総毛立った。
に、逃げなきゃ! そう思うのに、足が床にくっついたみたいで、言うことをきかない。
そのとき、魔獣の不気味な唸り声がした。
拓海は一目散に二階へと駆け出した。それと同時に、魔獣が跳躍する。拓海の行く手を阻むように、上段へと飛び乗った。
「うわっ」
魔獣と目が合った瞬間、拓海は恐怖のあまり足を踏み外し、階段から転げ落ちた。
「ううっ」
落下の痛みで視界が白くぼやける。動けずにうめいていると、拓海を気遣う声が頭の上から降ってきた。
「大丈夫ですか。皇子さまぁ」
声のした方へ、なんとか顔を向けると、ショートパンツにロングブーツ姿の少女が立っていた。
仮面をつけているので顔はわからないが、ゆるく波打つストロベリーブロンドの髪と、白く細い手足は、まるで陶器でできた人形のようだ。だが、その手には、獣を操るための鞭が握られている。
可愛いと思うより先に、恐怖で思考が追いつかない。
「あらあら、そんなに青い顔をして、驚かせちゃいました? お・う・じ・さ・ま」
「あ、あなたは誰? それと、僕は皇子じゃないから。変な風に呼ばないで」
拓海は痛みをこらえながら言い返した。
「え、でも、魔界に戻るんでしょう? だったら、ちゃーんとお呼びしないと不敬罪で罰せられちゃいますから」
「そんな、呼び方くらいで罰だなんて」
「あら~、お得意でしょう?」
少女が拓海の顔を覗き込む。さっきまでの陽気な雰囲気から一転して、その瞳は拓海を蔑むように冷たい目をしている。
「……エリン。例の物を持ってきて」
少女が声をかけると、魔獣が紙の束をくわえて走って来た。
「ありがとう」
少女はそれを受け取ると、絵の描かれた大きな紙を、拓海へと向けた。
「え?」
「むかーし、むかし」
「あ、あの……」
いきなり紙芝居が始まった。
状況が飲み込めずにうろたえる拓海に、「ちゃんと聞け!」と言わんばかりに魔獣が低く唸る。
拓海は、慌ててその場に正座した。
なんだろう。夢でも見ているみたいだと、一瞬だけ場違いなことを考える。
「むかーし、むかし。魔界にいた皇子さまは、罰を与えるのが大好きでした。少しでもミスをすれば折檻、機嫌が悪いと首をはね、自分に意見する者は牢獄いき。やがて、皇子さまを諫める者はいなくなり、皇子さまの横暴はどんどんエスカレート。そうして苦しめられた人たちの涙で、魔界のあちこちに大きな湖ができましたとさ……」
「……あのー。これは一体」
「ふふ。感想は?」
「え、感想? ……あー、えっと、そう、ですね……」
拓海は、紙芝居をほとんど聞いていなかった。突然のことで面食らったのもあるが、絵があまりに下手くそで、そっちに気を取られたせいで、内容が頭に入ってこなかったのだ。
「ちょっと、感想を聞いているんだけど」
少女がいら立った声で催促してくる。でも、本当のことは言えないと拓海が悩んでいると、足元で音がした。
見ると、さっきのコディが、少女に向かってぱちぱちと拍手をしている。
「まあ、ありがとう」
「ちょっと! 危ない人相手に、何をのんきに拍手してるの! それに、君は僕サイドじゃないの?」
むっとした顔の拓海にそう言われて、コディは廊下へちらりと視線を送る。
「ちょっと、聞いてるの」
無視されたと思った拓海の語気は強くなったが、当のコディは何の反応も見せず、拓海の影へと飛び込んだ。




