116 魔界蛍の舞う夜
ダウンタウンの西に広がる森は、地元の者たちだけでなく貴族たちも訪れる風光明媚な場所として知られている。
魔獣も生息しているが、比較的おとなしい種ばかりだ。
今夜はそこで、ダウンタウンの商店街主催による蛍の鑑賞会が開かれる。
年々人気が高まり、いまでは抽選に当たらなければ参加できないほどになっている。
森の入り口付近には、商店街の受付用にテントが張られ、中には長テーブルと椅子が並べられていた。
ランタンの明かりに照らされた受付では、五人の男たちが当選葉書に目を走らせ、次々に参加者を振り分けていた。
「はい。こちらですとBグループですね。向こうに案内役がいますので、指示に従って鑑賞ポイントへ移動してください」
「あ、こちらはCグループだね。Cと書いてあるビブスを着たおじさんがいるから、はぐれないようについて行ってね」
話し声の絶えない中、受付の手は休む間もない。それでも三十分もすると、ようやく列の先が見えてきた。
「いやあ、今年も大盛況だ。受付ご苦労さま」
商店街の会長のマシューが、突き出た腹を揺らしながらやって来た。
「あ、お疲れ様です。会長」
五人も口々に挨拶を返す。
「君たちも少し休憩してくれ。テントの奥に、飲み物とつまみを用意しておいた」
それだけ言うと、マシューは来賓たちを案内して森の中へ入って行った。
受付の前の列が消えるや、男たちは待ってましたとばかりにテントの奥へ引っ込み、酒とつまみを手にして戻ってくる。
今夜の鑑賞会は入り口と出口が別だ。ここまで戻ってくる参加者はいない。咎める者もいない。
男たちがほろ酔い気分になってきたころ、一人がふと思い出したように口を開いた。
「なあ、本当にあの件を、ビクトールさんに伝えなくていいのかな」
「あの件って?」
「ほら、蛍の鑑賞会場の奥を、誰かのために秘書官さんたちが貸し切りにしただろ」
「ああ、あれか」
「そこのすぐ近くを、ラッセル伯爵も貸し切りにしたんだよ」
「おいおい。庶民は抽選だっていうのに、えこひいきじゃないか」
「まあ、伯爵は協賛金をたっぷり出してくれたんだ。それくらいの我儘は聞かないとさ。でも問題なのは、先に話が来てたビクトールさんが、そのことを知らないんだよ」
「なんでだ?」
「ラッセル伯爵が案内する相手が、かなり身分が高い人らしくてな。誰にも知られたくないんだと」
「ふーん。蛍を見るだけなのに、面倒なもんだね。……ま、そんなことより、乾杯しようぜ」
森の入り口では、気の抜けた笑い声がしばらく絶えなかった。
◆◆◆
「わあ。すごくきれい。あ、あそこにたくさんいる。え、色が変わった?」
「はい。魔界の蛍は、人間界の蛍と違って雄が緑、雌がピンクに光るんです」
「へえ、ピンクに光る蛍なんて、初めてです」
ユリウスとザックに連れられて魔界へやってきた拓海は、小さな湖の上を舞う蛍に、すっかり目を奪われていた。
ここは一般客が鑑賞する場所より、さらに森の奥に入った先にある。
この幻想的な光景を眺めているのは、今はユリウスたち三人だけだった。
ユリウスとザックは、蛍に夢中の拓海からそっと距離を取った。
ユリウスは声をひそめ、ザックを見る。
「おかしい。何も起きない」
「開始は二十時ちょうどのはずでしたよね。でも、もう十五分も過ぎてます……」
ザックは腕時計を確認した。狼族の目は暗闇にも強い。
拓海の特別授業のために、ユリウスは先日、魔王城で綿密な打ち合わせをしてきた。当初は、拓海自身に魔獣と戦わせる案だったが、過激すぎるとして退けられ、最終的には、ザックが戦い、拓海はそれを間近で見る形に落ちついた。
だが、ビクトールが手配したはずの魔獣は、いつまで待っても現れない。
風に揺れる木々の音だけが、静かに森に響いていた。
さすがに遅すぎる。ユリウスは小さく眉をひそめた。
ユリウスは緊急連絡用の小さな無線機を持っていたが、さすがに拓海の前では使えない。
少しこの場を離れることにして、ザックに声をかけた。
「すぐ戻るが、それまで拓海様のことを頼む」
「わかりました」
「拓海様。すみません。ちょっと、席をはずします」
湖面を見つめていた拓海に声をかけると、はっとしたように振り返った。
「え、ユリウスさん。どこかに行っちゃうんですか?」
その表情はよく見えなかったが、声には戸惑いがにじんでいた。
魔界の暗い森の中だ。不安になるのも当然かもしれない。
「拓海様、俺がいますから、安心してください」
拓海のそんな気持ちを慮って、ザックが明るい声を出す。
「でも……」
「あー、実はユリウス様は、夕食を食べ過ぎたみたいなんです。だから、ちょっと一人になりたいんですよ」
「おい!」
あまりに下手くそな言い訳に、ユリウスはじろりとザックをにらんだ。
だが、拓海には届いたようで、焦ったように言う。
「ユリウスさん、僕、ここで待ってますから。早く行ってください」
「……ありがとうございます。でも、その前に」
ユリウスの手が淡く光った。次の瞬間、その手の上に剣が現れる。
「え?」
拓海は目を丸くした。ユリウスは素早く拓海の腰に剣帯を巻き、剣を鞘に収めた。
「あの、ユリウスさん、これは一体?」
「私が戻って来るまでのお守りです」
戸惑う拓海の目をまっすぐ見つめながら、ユリウスは静かに答えた。
暗闇の中にたたずむ二人のまわりを、蛍が優雅に飛び交った。
「あ、ほら。ユリウス様。早く行かないと、粗相しちゃいますよ」
「お前なあ……」
身もふたもないザックの言葉に、ユリウスは呆れた。だが、ビクトールと連絡を取らなければならない。
「では、拓海様。少し失礼します。ザック、拓海様のこと頼んだぞ」
ユリウスはそう言い残して、暗い森の中へ歩いていった。
◆◆◆
湖の近くには、ビクトールたちが待機するテントが設営されていた。
その周囲は、魔王軍の兵士たちが固めている。
「遅い。遅いよ。ねえ、アンドリュー、魔獣が来ないんだけど?」
テントの中で椅子に座っていたビクトールは、苛立たしげに向かいのアンドリューを見た。
「本当ですね。とっくにこちらに到着していなければならない時刻なのに」
アンドリューも腕時計を見ながら、首をかしげる。
「魔獣の移送がどうなっているか確認してみます」
アンドリューが胸ポケットに入れた小型の無線機を取り出し、スイッチを入れた。
だが、聞こえてきたのは、ザーッという雑音だけだった。
「あー、ここは電波が悪いから、アンドリュー、少し離れたところでやってみて」
「わかりました」
アンドリューがテントを出て行き、一人になったビクトールは大きく嘆息した。
今回の特別授業は、魔獣がいなければ意味がない。
もちろん、皇子様に怪我をさせる訳にはいかないため、魔王軍の兵士も用意してある。
だが、上司であるブラッドフォード卿の許しは得ていない。
完全に秘書官室の独断なので、失敗は許されない。
それなのに、肝心の魔獣がいないとは……。
ビクトールはアンドリューの前では余裕のある顔をしていたが、内心はひどく焦っていた。
テントの中を行ったり来たりしていると、ふいに誰かが中に入ってきた。
「あ、どうだった、アンドリュー。魔獣は今どこに――え?」
振り向いたビクトールは、テントの入り口に立つ人物を見て目を見開いた。
そこにいたのは、自分だった。
「なっ……」
次の瞬間、腹の奥に鈍い衝撃が走った。
自分と同じ顔の男が、にやりと笑っている。
何が起きているのか理解できないまま視線を落とすと、腹に深々とナイフが突き刺さっていた。
「お前は、誰だ……」
声を絞り出すビクトールに、男は表情を変えないままナイフを引き抜き、もう一度その腹を深く突いた。
どさっと鈍い音とともに、ビクトールは床に倒れ込む。
その周囲に、みるみる血だまりが広がっていった。
男はひざまずくと、ビクトールの耳元で囁いた。
「安心しろ。お前に代わって俺が取り仕切ってやるから」
自分と同じ声を聞きながら、ビクトールの意識は遠のいていった。
偽のビクトールはテントを出た。ちょうど、連絡を終えたアンドリューが戻ってきたところだった。
「どうだった、アンドリュー」
「それが、魔獣を乗せた車が故障して立ち往生しているらしいんです」
「あらら、故障かあ。魔獣がいないんじゃ、中止にするしかないね」
偽のビクトールは、いかにも困ったように肩をすくめる。
「じゃあ、ユリウスに中止の連絡を――」
無線機を取り出そうとするアンドリューの手を、偽のビクトールが押さえた。
「ああ、それ僕がやっておく。アンドリューは別ポイントで待機している魔王軍の兵士たちを解散させて。それで、今日の仕事は終わりだ。もう帰っていいよ」
「あ、はい……」
アンドリューはどこか引っかかるものを覚えたが、上司にそう言われては、反論もできず、その場から歩き出した。
去って行くアンドリューの背を見送りながら、偽のビクトールがつぶやく。
「さあ、特別授業を始めようじゃないか」
偽のビクトールの口元に、うっすらと笑みが浮かんだ。




