117 戦闘開始
アンドリューは小さな明かりを手に、暗い森を歩いていた。
今夜の計画が中止になったことを、待機している魔王軍の別部隊に伝えるためだ。
夜間訓練と称してこの西の森にやってきた彼らは、訓練の内容も、中止になった理由も知らされないまま、城へとんぼ返りすることになる。命令とはいえ、少し気の毒だった。
けれど、自分たち秘書官も、準備にかけた時間こそ短かったものの、皆で知恵を絞って今夜の舞台を整えたのだ。皇子のため、ひいては魔界のためと思って全力で取り組んだ。それが車の故障ひとつで無駄になってしまったのだから、思わずため息がこぼれる。
そのとき、不意に一匹の蛍が目の前を横切った。
闇の中に淡い光の筋を引きながら、頼りなげに漂っている。
アンドリューは足を止めた。
「迷子かな……。水辺は向こうだよ」
手にした明りで湖の方を指さすと、蛍はそれに導かれるように、ふわりとそちらへ飛んで行った。
しばらくその小さな光を見送り、アンドリューは再び歩き出す。
森の中はしんと静まり返り、遠くの物音さえ、今はやけに耳についた。
やがて前方の木々の間から、魔王軍が灯す明かりが見えてきた。
その光を目にした瞬間、ふと別れ際のビクトールを思い出す。
いつもと変わらない様子だった。態度も口調も。
けれど、ほんの一瞬だけ、何かが引っかかった。
だが、それが何かはわからない。
釈然としない思いを抱えたまま、目的地に着いた。
アンドリューは部隊長に中止の件を手短に伝える。
部隊長が撤収の指示を出すと、兵士たちは設置していたテントを片付け始めた。
その様子をアンドリューがぼんやりと眺めていると、不意に背後から声をかけられた。
「あのー。ビクトールさんはいらっしゃいますか?」
振り返ると、そこには獣人の少女が立っていた。
その後ろには、フードを目深にかぶった背の高い女性と、ピンク色の髪に仮面をつけた少女もいる。
なんとも妙な取り合わせの三人だった。
◆◆◆
「おい、ランドル。俺は、予定通り始末屋を片づけてくる」
兵士の甲冑を脱ぎ捨てながら、強面の男が言った。
「ああ、任せたぞ、バート。俺はガキと狼族の男をやる」
偽のビクトールも、被っていたマスクを剥がした。
その下から現れた素顔は、ぎょろりとした目をした小男だった。
どちらも、ラッセル伯爵の手足として動く男たちだ。
「ここの隊長とは話がついてる。兵士は全員、お前が連れていけ」
「え? それじゃあランドル、お前は一人になっちゃうぞ。いいのか?」
「はん。心配するな。俺は剣も喧嘩も弱いお前とは違うんだよ」
「そ、そんなの今言わなくてもいいだろ」
大男のバートがしょんぼりと目を伏せる。その広い背を、ランドルは小さな手で遠慮なく叩いた。
「まったく。図体はでかいくせに見掛け倒しなんだからな、バートは」
「からかうなよ……じゃあ、兵士は借りていくからな」
バートは兵士を全員引き連れ、森の中へ入っていく。
「確かに、お前は戦闘向きじゃない。でも、とっておきがあるからな」
その後ろ姿を見送りながら、ランドルはにっと笑った。
「さあて、ラッセル伯爵にいい報告ができるように、俺も向かうとするか」
低い声でそうつぶやく。だが、静まり返った森は何ひとつ応えなかった。
◆◆◆
「やはり、ここはさっき通った場所だ」
ユリウスは、幹に残した印にそっと指先で触れた。
ビクトールに状況確認をしようと、ユリウスは拓海たちと別れて森へ入った。
無線機で連絡をとろうとしたが、なぜかつながらない。電波が悪いのかと場所を探して歩くうち、迷わぬよう木々に目印を残していた。だが、しばらく進んでいたところで奇妙な感覚を覚えた。目に入る景色のすべてに、既視感がある。
やがてその予感は現実となる。前へ進んでいたはずの彼は、再び目印をつけた木の前に立っていた。
「これは俺を閉じ込めるために、何者かが術をかけたか……」
そうつぶやいた瞬間、ユリウスは鋭く身を反らした。直後、先ほどまで立っていた場所に、短剣が深々と突き刺さった。
「へえ。女みたいな見た目なのに、やるねえ兄さん」
声と共に、木々の影から包囲するように甲冑姿の兵士たちが次々に現れた。その中央には、ひときわ意匠の異なる兜をかぶった男がいる。
あれが隊長かと見極めつつ、ユリウスは兵の数と足場を素早く確かめた。
「その甲冑、魔王軍だな」
「ああ。そうだ」
「魔王軍に狙われる筋合いはない」
ユリウスが冷静に告げると、隊長は顎に手を当て、にやりと笑った。
「この森に、どこぞのネズミが迷い込んだらしくてな」
「…………」
「知ってるか? 北の山に棲みついたドラゴンを退治した英雄がいたんだ。当時、町の連中は好き勝手にほざいてたよ。魔王軍は何もできない役立たずだってな」
目の奥に宿る濁った憎悪を見て、ユリウスはすべてを察した。
以前、ザックと共に追い払ったドラゴンの一件で、魔王軍は面子を潰されたのだ。こいつはその遺恨で、俺を狙っている。
「俺たちは証明しないといけないんだよ。始末屋ごとき、俺たちの足元にもおよばないってな」
隊長のその言葉を合図に、兵士たちが一斉にユリウスへ襲いかかった。
その場から少し離れたところで、バートは地面に穴を掘っていた。
「魔王軍の兵士は十五人。こんなものまで用意する必要はないと思うが、ランドルの奴がうるさいからな」
ふと脳裏に、相棒の神妙な顔が浮かんだ。
「いいか。勝てると慢心したときが一番危険なんだ。窮鼠猫を噛むっていうだろ」
「きゅうそ? なんだそれは」
真顔で聞き返したバートに、ランドルは一瞬黙り込む。
そして、はあ、とため息をつく。
「簡単に言えば、追い詰められたらネズミだって猫に反撃する。だから決して油断するなって意味だ」
「なるほどな」
「だからいいか。魔王軍の兵士を過信するな。お前のあれは強力な武器なんだ。面倒がらずに、保険として準備はしておけよ」
まったく、ランドルは心配性だ。だが、あいつの勘が外れたことは一度もない。
目当ての深さまで穴を掘ると、バートは胸ポケットから折りたたんだ紙片を取り出し、そっと底に置いた。続けて、その上へ土をかぶせていく。
ランドルは頭が切れるし、度胸もある。喧嘩だって俺よりずっと強い。
俺はガキの頃、体ばかり大きくて気が弱く、いつもいじめられていた。そんな情けない俺をかばってくれたのは、ランドルともう一人の幼なじみだった。
だが、そいつはもう雲の上の存在になってしまった。
胸に一抹の寂しさを覚えながらも、バートは無心で手を動かす。やがて土をかけ終えると、仕上げにと近くの落ち葉をそっと上に載せた。これで、ぱっと見ではわからないだろう。
「ふう、終わった。さあて、始末屋のほうは片付いたかな」
バートは木陰に隠れ、戦いの様子をうかがった。
「なんだよ。なんで、あいつが無傷で、兵士がやられてるんだ」
しまったと思ったときには、声が出ていた。慌てて口を押さえた拍子に、手についていた土が口へ入り込む。バートは苦い顔で、それをすぐに吐き出した。
ユリウスの周囲には、気絶した兵士や手足に傷を負った兵士たちが倒れている。
「き、貴様。我らに歯向かうとは、それはすなわち魔王様への反逆だぞ!」
さっきまで余裕の笑みを浮かべていた隊長が、青ざめた顔で叫ぶ。
ユリウスは意にも介さぬ様子で、剣についた血を静かに振り払う。
「おい、お前たち、いつまで寝ている」
隊長は目を吊り上げて部下を怒鳴りつけた。だが、誰ひとり起き上がらない。
「な、なんなんだ。こいつを始末して、城に戻らないと……」
一刻も早く城に帰還しなければならない。ここでの企てが知れれば、全てが終わる。
最悪の事態が頭をよぎったそのとき、ユリウスが地面を蹴った。
銀色の髪をなびかせ、風を切るように迫るユリウスに、隊長は慌てて防御の構えを取った。
「何をやってるんだよ。あれだけ数を揃えといて、楽勝って言ってたくせに」
大口を叩いていた隊長が、あっけなく地面に倒れ込んだ。それを見たバートは、思わずその場で固まった。
まずい。頼りにしていた兵士が、全員やられてしまった。
俺が準備している間に、何があったんだ。
「そこで覗き見してないで、そろそろ出てきたらどうだ」
不意に響いたユリウスの声に、バートは凍りついた。心臓が嫌な音を立てて、背筋を冷たいものが走る。
ユリウスの視線はまっすぐ、自分が身を潜めている木へ向けられている。
「……っ!」
喉の奥がひゅっと強張った。
あいつ、俺に気づいていたのか、くそう。
いま逃げても、魔王軍の兵士を軽く退けた相手だ、簡単に逃がしてはくれまい。
こうなったら……やるしかない。
心を決めたバートは、両手を組み、押し殺した声で呪文を唱え始めた。
その詠唱に応じるように、地中へ埋めた紙片が鈍く光を放つ。
「なんだ……急に気配が変わった?」
静まり返っていた森の空気が、重く禍々しいものへと一変した。
肌を刺すような悪寒を覚え、ユリウスは目の前の異変に意識を研ぎ澄ませる。
何かの術か。ユリウスは静かに剣を構えた。
次の瞬間、地面に亀裂が走り、裂け目から無数の泥の人形が這い出して、ユリウスを取り囲んだ。




