110 青いシャツと、いちごのブラ
ユリウスは部屋の掃除を済ませると、空き缶が入った袋を持って部屋を出た。
鍵をかけていると、隣の部屋のドアが開き、マックスが顔をのぞかせる。
「行くのか?」と、マックスが聞いた。
「ああ。今年も花を手向けてくる」
「そうか。気をつけて行けよ」
「わかった……あ、そうだ。今朝は騒がしくして悪かったな」
そう言われて、マックスはわかりやすく動揺した。
「あ、いや、パーシーとマーサが来てたな。無事で何よりだ。うん、本当によかった。ほ、ほら。もう行かないと。遠いんだから」
背中を押され、ユリウスは「じゃあな」と言って、階段を下りていった。
その後ろ姿に、マックスは胸の内でそっと手を合わせた。
すまない、ユリウス。僕は君に隠し事をしてしまった。
彼女と約束したんだ。
彼女の妹を連れ出すところを、ユリウスには絶対に話さないと。
今朝の脱出劇を、僕は自室の窓から見ていた。
ひとりの男が軽々と三階の窓から部屋に入り込んだかと思えば、次の瞬間には少女を抱きかかえて外へ連れ出していた。
そのことを黙っている代わりに、僕は彼女の名前を教えてもらった。
「ルルさん」
思わず口にしてしまったその名前に、耳まで真っ赤になる。
名前を呼んだだけなのに、胸がいっぱいで、いまにも駆け出したいくらいだ。
そのときの僕は、名前を聞いただけで舞い上がっていて、連絡先も住所も聞きそびれていたのだと気づいたのは、ずっとあとだった。
ユリウスが一階に下りると、受付にマーサが座っていた。
朝だからか、珍しく居眠りはしていない。ユリウスの姿を見つけると、マーサは手招きしてきた。
なんだ。パーシーの件で、また小言か?
ユリウスは内心うんざりしながら、受付へ近寄る。袋の中で空き缶が、がちゃがちゃと音を立てる。
「今朝は悪かったね」
「え……ああ、驚いたよ」
「今日は、例の日なんだろ」
「……覚えてたのか」
「あれだけの酒を飲むなんて、そういうことだろうさ」
マーサが部屋に転がっていた空き缶を見て、態度を変えたことを思い出した。
いつもは憎まれ口ばかりなのに、いいところもあるんだなと、少し見直しかけた。だが――。
「それはゴミ置き場に出す空き缶だね? ゴミを片付けるのも重労働なんだ。老人をこきつかうんだから、今度の支払は多めに頼むよ」
当然だと言わんばかりに鼻を鳴らす老婆に、ユリウスは、やはりマーサはマーサだと、苦笑した。
◆◆◆
リリアーナは目を覚ました。
大きな天蓋つきのベッドの向こうには、きらきらした小瓶や可愛い箱が並ぶ鏡台が見える。枕元には父から贈られたぬいぐるみもあった。
見慣れた景色に、ここが魔界の自分の部屋なのだとぼんやり気づく。
起き上がろうとした瞬間、鈍い痛みが走った。
あれ、なんだろう。頭がすごく痛い。
両手で頭を押さえて呻いていると、扉が開き、侍女服姿のルルが入って来た。
「やっと起きたね。具合はどうだい?」
「ルル……おかしいの、頭がすごく痛いの。割れるみたい……うう」
「まあ、あれだけ飲めばそうなるさ」
ルルは、小さな声でぼそりとこぼした。
この屋敷に戻ってから、ルルはどうにかエマを呼び出した。ふらふらの彼女を励ましつつ、記録していたメモを見せてもらったのだが、案の定、文字はぐちゃぐちゃだった。
ところどころ読めはする。けれど、リリアーナが果物の絵のジュースを飲んでから先が、さっぱりわからない。
そのくせ、抱きしめただの、唇に触れただの、妙に怪しい単語だけはきっちり残っていて、ルルはひどく頭を悩ませた。
おまけに、ホテルへ着ていった服には染みまでついていた。おそらく飲み物をこぼし、ユリウスに服を借りたのだろう。そこまではいい。
問題は、下着が足りないことだった。
親密な関係にまで発展したのか、そうでないのか。非常に重要な点だが、肝心のエマにも記憶がない。
だからルルは決めた。
この件は、もう考えない。
そうするのが、リリアーナも自分にも一番平和なのだ。
「さ、お嬢。これ飲んで」
ルルは持参したコップを、リリアーナに握らせる。
「……なあに、これ? なんだか、すごい緑色」
「それは、うちの一族に伝わる、二日酔いに効く薬草ジュースっす」
ルルの後ろから侍女のポーリンがひょっこり、顔を出す。その拍子に、ポーリンの尻尾が揺れる。
「あ、ポーリン……。え、二日酔い?」
「いいから、飲んで」
ルルに急かされて、リリアーナはおそるおそる口に含んだ。
次の瞬間、
「ぐえっ」と、およそ貴族令嬢らしからぬ悲鳴が上がる。
すかさず今度はポーリンが水の入ったグラスを渡し、リリアーナはそれを一気にあおった。
「ふう……すごい味だった……」
呆然とするリリアーナに、
「ほら。お嬢が起きるまで、ずっと我慢してたんだ。褒めてやって」
そう言ってルルは、エリンをベッドに載せた。
「にゃーん」
「あ、エリン」
いつものように甘えてすりすりしてくるかと思いきや、エリンはぴたりと止まり、リリアーナの服をくんくん嗅ぎはじめた。
「エリン?」
リリアーナは小首をかしげ、自分の服へ目を落とす。
着ていたのは、見覚えのない青いシャツだった。ぶかぶかに大きくて、どう見ても男物だ。
「なあに、これ? ルルが着せたの?」
シャツの胸元をつまんだ途端、ポーリン特製ジュースが効いたのか、リリアーナはユリウスの部屋でのあれこれが一気によみがえる。
「きゃーっ!」
みるみる顔を赤くして、ルルとポーリンを交互に見やる。
「ち、違う。違うの」
何がどう違うのか説明もしないまま、あたふたする姿に、ルルはひとまず大丈夫そうだと思った。
もし、本当にまずいことが起きていたのなら、こんな反応にはならない。もっと青い顔になるはずだ。
「お嬢様。お湯をためてありますから、お風呂に入ってさっぱりするといいっすよ」
ポーリンが小さな耳をぴこぴこと動かしながら言う。
「お風呂? そ、そうね。昨日入らなかったから……入りたい」
リリアーナは、そそくさとベッドを下りると、隣の専用バスルームへ向かう。
扉が閉まった。
さて退散しようかと、ルルとポーリンが部屋を出かけた、そのときだった。
「ない。あたしのお気に入りのいちごのブラが!」
悲鳴にも近い絶叫が、部屋いっぱいに響き渡った。
ルルは、盛大にため息をついた。
事情を知りたそうなポーリンの背中を無言で押して、さっさと部屋をあとにした。
今はそっとしておくのが一番だった。




