109 大騒ぎの朝
「ちょっと、待ってくれ」
俺は侵入を食い止めようと両手を広げ、二人の前に立ちはだかった。
「いくらホテルのオーナーだからって、借主の了承なしに部屋に入るのはおかしいだろう」
俺の言葉に、マーサは疑いの眼差しで、冷たく言い放つ。
「ホテルの決まりを破っていたなら、そんな理屈は通らないよ」
俺は内心では焦っていたが、ここで怯んではならないと、どうにか平穏を装う。
「ここにいるのは俺一人だ。マーサが心配するようなことはしていない」
俺とマーサの視線が鋭くぶつかった。
「ねえ、だったら部屋の中を見せてよ。それで誰もいないのなら、あたしの勘違いってことで謝るから」
さっきまで鼻息が荒かったパーシーが、そんなことを言い出した。女もののネグリジェにガウンをひっかけて、顔には剃り跡がうっすらと残ったまま、髪はカーラーだらけだった。胸元を押さえながら、俺の向こうをちらちらとうかがっている。
「誰もいないんだから、そんなの必要ない――」
俺がそう言ったとき、寝室のほうから物音がした。
三人が同時にはっとする。次の瞬間、パーシーが俺の手をかいくぐり、寝室へ駆け込んだ。
そして、「あー、何よこれえ!」と甲高い声がした。
終わった。
俺の頭に、マーサの冷たい視線を浴びながら、ホテルを追い出される惨めな自分の姿が浮かぶ。
呆然と立ち尽くす俺を押しのけて、マーサも寝室に向かった。
そのあとをのろのろと追った俺が見たのは、空っぽのベッドだった。
枕元にあった仮面も、脱ぎ散らかした服もきれいさっぱり消えている。
え、あいつどこへ行ったんだ。
パーシーが、「絶対どこかに隠れてるのよ」と、張り切って部屋の中を探し始めた。
一方のマーサは、昨日飲んだビールの空き缶の山に、深くため息をついた。
「ユリウス。あんたいくら若いからって、こんな飲みかたをしてると、早死にするよ」
「あ、ああ。気をつけるよ……」
しばらくして、がっくりと肩を落としてパーシーが戻ってきた。
「キッチンもバスルームにも、誰もいなかった」
俺は胸をなでおろしながら、少し強い口調で言った。
「だから言っただろ。部屋には俺ひとりだって」
「そうだね。朝っぱらから、すまなかったね」
珍しく、マーサが素直に詫びた。なんだ、悪い物でも食べたのか。
「でも、マーサ。あたし、確かに見たのよ。ユリウスの部屋に、もう一つの人影を」
「ああ、もう。あんたがザックに会いたくて、見間違えたんだろう」
「そんなあ。あたしはちゃんとこの目で――」
そのときだった。俺の目に、ベッドの下に落ちているものが入った。
あの、いちごは!
俺は、ささっとベッドに近寄ると、目にも止まらぬ速さでズボンのポケットに押し込んだ。
「さ、さあ。疑いが晴れたなら、出て行ってくれ」
俺は二人を強引に部屋の外へ押し出し、そのまま鍵をかけた。
廊下ではまだ何か揉めている声がする。だが、俺はなんとかなったと、ほっと息をつく。
それにしても、あいつはどこへ消えたんだ。
俺は窓辺でかすかに揺れるカーテンを見ながら、そんなことをぼんやりと思った。
◆◆◆
ホテル・マーサの裏に、黒塗りの高級車が停まっていた。
マックスの術が切れた途端、ルルは外へ飛び出し、すぐに応援を呼んだ。
今は運転席に座り、落ち着かない様子で、ホテルの裏口を見つめている。
待つのは苦手なんだ。やっぱり、あたいも。
思わずドアを開けかけて、はっと手を止める。
だめだ。すぐに動けるようにしておかないと。
それに、あの人が来てくれたんだ。信じて待つんだ。
それでも、胸の奥から不安がこみ上げてきて、ルルはハンドルに額を押しつけた。
そのとき、後部座席のドアが慌ただしく開き、誰かが乗り込んできた。
空いていた窓からユリウスの部屋へ入り、眠るリリアーナを抱えてそのまま外へ連れ出してくれたのだ。
「お嬢は?」
「大丈夫、無事だ。それより誰かに見られるとまずい」
「わ、わかった」
ルルは、すぐさま車を動かした。
ホテル・マーサが遠ざかるにつれ、ルルはようやく安堵の息をついた。
「助かったよ。来てくれなかったら、大事になってた」
ルームミラー越しに後部座席を見やる。そこには、ブラッドフォード卿の息子カイルの護衛役であるノアがいた。眠りこけたリリアーナに膝を貸したまま、彼は低い声で言う。
「……そうだな。それにしてもルル、君らしくない失態だぞ。リリアーナ様を危険な目に遭わせるなんて」
「本当面目ないよ、ノアさん。それでお嬢の容態は?」
「眠っている。どうやら酒を飲まれたようだ」
「酒か……だから、エマと連絡がつかなかったのか」
リリアーナの影に潜ませているエマは、リリアーナのエネルギーを糧にしている。今回飲んだ酒は、エマにも影響したのだろう。
そう思い至って、ルルはふっと苦笑いをこぼした。
「それにしても、無事でよかった」
ノアは優しい声でそう呟くと、目を閉じたまま眠るリリアーナの乱れた髪をそっと直してやる。
すると、リリアーナがうっすらと目を開けた。
自分を心配そうに見つめる琥珀色の瞳に気づき、リリアーナはふっと笑みを浮かべる。
「よかった。ノアだ。……もうどこにも行かないでよ」
そう呟くと、安心したように再び目を閉じた。
ノアは黙ったまま、膝の上で眠るリリアーナを見つめた。
「……聞いた? どこにも行かないでって、言ってるよ」
ルルがルームミラー越しにノアへ視線を送る。
「知ってるだろ。俺は今、カイル様の護衛なんだ。リリアーナ様の護衛に戻ることは……ない」
それを聞いたルルは、はあっとため息をついた。
「まったく、頑固なんだからな、ノアさんは」
ルルはぽつりとそうこぼすと、そのまま前を向いた。もう何も言わなかった。
ノアは、ふと窓の外へ目を向けた。車はダウンタウンを抜け、一般エリアへ入っている。その先には、リリアーナの住まいがある特権エリアだ。
ノアは胸の内で、そっとリリアーナに語りかける。
護衛役を解かれた俺には、もう近くで守ることはできません。
けれど、これから先、あなたを心から大切に思う誰かが現れて、俺よりずっと近くで、あなたを守るでしょう。
そんな予感を抱きながら、ノアは、青空を見上げた。




