108 ユリウスの涙
最初は椅子に座っていた二人だったが、いつの間にか並んで床に座っていた。
相変わらずユリウスはビールを飲み、リリアーナはスナック菓子をぽりぽり食べている。
「あ、もうない」
リリアーナは袋を逆さにして、中身が空になっているのを確かめた。
それから次の菓子を取ろうと腰を浮かしかけた、そのときだった。
背後から、ユリウスに抱きしめられた。
「ちょ、ちょっと。何するのよ」
酔っているとはいえ、父親以外の男性に抱きしめられるのは初めてで、リリアーナはどぎまぎする。
心臓の音が、耳元で鳴っているみたいにうるさい。
「は、離して」
自分に巻きついた腕を振りほどこうとするけれど、ユリウスの腕はびくともしない。
そのうえユリウスは、うなじに顔をうずめてきた。
「ちょっと」
「……動かないでくれ」
リリアーナの耳元で、ユリウスがぽつりと呟く。
吐息が耳にかかり、リリアーナは恥ずかしくてたまらない。
思わず、ぎゅうっと目をつむった。
ど、どうしよう。
こういうとき、ドラマとか小説だとどんなふうにするんだっけ。
リリアーナは軽くパニックになりながら、必死に考える。
「ブラン……。お前の髪って、ブランみたいだ」
「は? ブランって誰?」
「俺が飼っていた犬だ」
その言葉を聞いた瞬間、胸の高まりは一瞬で別の熱へと変わった。
次の瞬間には、固く巻き付いていたユリウスの腕を勢いよくはねのけていた。
……そう思ったのに、すぐにまた強く抱きしめられてしまう。
「いい加減にしなさいよ」
リリアーナは声を荒げたが、ユリウスは離れなかった。
「賢い犬だったんだ……」
「え?」
「俺がつらいときは、黙って寄りそってくれた。俺が危ない目に遭いそうになれば、守ってくれた」
「…………」
「……会いたい。ブランに、みんなに……会いたいんだ」
リリアーナのうなじに、ぽつりと涙が落ちた。
声を殺して泣くユリウスに、リリアーナはもう暴れるのをやめ、ただじっとしていた。
振りほどこうとした腕の強さが、今はなぜだか切なかった。
今は黙って泣かせてあげようと、そう思った。
◆◆◆
部屋の外が白みはじめ、小鳥のさえずりがぼんやりと耳に入ってくる。
「うっ……頭が痛い」
ベッドから体を起こした俺は、ずきずきと痛む頭を押さえた。
完全に二日酔いだ……あとで調合しておいた薬を飲まないと。
俺はのろのろとベッドを抜け出し、窓辺へ向かった。
部屋にはアルコールの匂いがこもっている。換気をしたかった。
勢いよくカーテンを開けると、まぶしい朝の光が差し込み、思わず顔をそむける。
そのとき、ありえないものが視界に入った。
壁に顔を押しつけるようにして、ベッドで眠る人影。
俺のシャツを着て、すやすやと寝息を立てている、ピンクの髪の少女だった。
枕元には、見覚えのある仮面が無造作に放り出されている。
「な、な、なんだ。なんであいつがいる?」
動揺する俺の目に、脱ぎ散らかされた少女の服が飛び込んできた。
まさか。
俺ははっとして、自分の体を見る。
ズボンは履いている。だが、上半身は裸だった。
一瞬、おそろしい考えが頭をよぎり、血の気が引く。
お、落ち着け。
俺は昨日、ザックに持たされた酒をしこたま飲んだ。
昨夜の記憶が途中から曖昧になっていることに、今さら気づく。
でも、だからといって、そういうことはしていない……はずだ。
そう自分に言い聞かせる。
だが次の瞬間、ベッドの端に置かれたブラジャーに目が留まった。
イチゴの刺繍が施された、可愛らしい下着だった。
そこで俺の思考は、完全に停止した。
そのとき、部屋の外からけたたましい声と、ドアを叩く音が響いた。
「ちょっと、いるんでしょ、開けなさいよ!」
「……あの声は、パーシー?」
ホテル・マーサきってのトラブルメーカーが、こんな朝っぱらから何の用だ。
俺はドアを見やり、眉をひそめる。
「そこにザックがいるんでしょ。会わせてよ」
ザックを追い回しているパーシーは、しびれを切らして俺の部屋まで押しかけてきたらしい。
「ザックはいない。俺だけだ。近所迷惑だから帰ってくれ」
俺はドア越しに声を返した。
するとその声に反応したのか、ベッドで眠っていた少女が、ううんと小さな声をもらす。
頼むから、今は静かにしていてくれ。
「ちょっと、ザックじゃないなら、昨日の人影は誰よ」
「人影?」
「そうよ。昨日の夜、中庭から見たんだからね。あんたの部屋に、人影がふたつあったのを」
「そ、それは……」
俺が言葉に詰まると、パーシーはさらに興奮した声でまくしたてた。
「まさかザックじゃなくて、女なの? このホテルは同衾禁止だって、知ってるわよね?」
俺は、はっとした。
そうだ。以前、男女の揉め事があってから、マーサは住人以外を、ことに異性を部屋に泊めることを禁じている。
それを破れば、問答無用で追い出される。
なんとかパーシーをなだめて、この騒ぎを収めなければならない。
だが、俺がそう考えているあいだに、部屋の外ではさらにもうひとつ声が増えていた。
「ちょっと、パーシー。朝っぱらから何を騒いでるんだい」
「あ、ちょうどいいところに。聞いてよ、マーサ。ユリウスってば、女を連れ込んでるのよ」
「なんだって。それは本当かい?」
廊下から聞こえてくるパーシーとマーサのやり取りに、俺はだんだん気分が悪くなってきた。
だが、なんとかしないといけない。部屋に入られたら、まずい。
そう思った瞬間、がちゃりと音がした。
ドアノブが、ゆっくりと回る。
しまった。マーサのマスターキーだ。
背筋に冷たいものが走る。
退去を拒んで部屋に立てこもる者に備え、術さえ無効化する、ホテルオーナー専用の特別な鍵だ。
あいつを隠さないと!
そう思ったときには、もう遅かった。
マーサとパーシーが、部屋に踏み込んできた。




