106 ユリウスを信じる理由
ホテル・マーサを訪れたリリアーナとルルは、壁を隔てた隣同士の部屋から出られなくなっていた。
ルルがそう気づいてから、およそ三十分後。
当のルルは、マックスの部屋で優雅にお茶を飲んでいた。
勧められるままソファーに腰を下ろすと、ルルは魔王城でも使われている手描きの美しいティーカップを口元に運んだ。淹れたての薫り高い紅茶をゆっくりと味わう。
「す、すみません。僕がうまく紅茶を淹れられないせいで、客人であるあなたの手を煩わせてしまって」
向かいに座るマックスが、申し訳なさそうに謝る。
「ほんと、呆れたよ。一人暮らしのくせに、お湯もろくに沸かせないなんてさ」
「……はい。おっしゃる通りで、お恥ずかしいです」
マックスは恥じ入るように、身を小さく丸める。
「それにしても、このホテル。建物はぼろいのに、部屋の中はずいぶん立派なんだな」
ルルはそう言って、マックスの部屋を見渡した。
ベッドもソファーも、王都の高級ホテルに置かれていそうな上等なものだ。
「あ、いえ。家具は、爺やが……その、家の者が新しいものと交換したんです」
なるほどね。名門オステルマン家は、息子のためなら金を惜しまないってわけだ。
それにしても、あのとき商店街でぶつかった相手が、こいつだったとはな。
自分の部屋にいるのが、ずっと会いたかった女性だとわかったときのマックスの喜びようは、なかなかすごいものだった。
ルルの手を取り、ぶんぶんと上下に振りながら、マックスは言った。
「僕は、マクシミリアン・オステルマンです。あのときは、落ちた本を一緒に拾ってくださり、ありがとうございました」
「わかった。わかったって」
ルルはマックスの手を振り払い、外へ出ようとドアノブを何度も回す。
だが、開かない。
「緊急事態なんだ。このドアを開けてくれ」
ルルからは、よそ行きの顔がすっかり消えていた。
「……すみません。ドアと窓に、絶対開錠阻止の術をかけてしまったんです」
「は? 絶対開錠阻止? そんな術、聞いたことがない」
「僕が考案した術です」
なぜか嬉しそうに胸を張るマックスに、ルルはかっとなってなじる。
「ふざけるな。こっちは今すぐ外へ出なきゃならないんだ。いいから、その術を解いて」
「それが、その……」
マックスは気まずそうに両手を組み、もじもじする。
「実は、まだ開発途中の不完全なもので。十二時間後に効力が切れるのを待つしかないんです」
マックスの言葉に、ルルは一瞬、目の前が真っ暗になった。
だが、すぐに何か打開策はないかと部屋の中を見渡し、電話が目に入る。
すぐさま受話器を取り、番号を押そうとして、ルルは何の音もしないことに気づいた。
「あ、すみません。爺や、えっと家の者からの連絡がしつこいので、回線を切ってあるんです」
その言葉を聞いて、ルルは受話器を持ったまま、ベッドにどさりと座り込んだ。
どうしたらいいんだ。
お嬢はすぐ近くにいるのに、助けに行くことも、助けを呼ぶこともできないなんて……。
絶望に襲われ、ルルは青ざめてうつむいた。
「あ、あの。隣に妹さんがいるって話していましたよね。大丈夫です。そんなに心配しなくても」
ルルはばっと顔を上げ、声を張り上げた。
「大丈夫だなんて、なんで言えるのさ! あの子は今、男と二人きりなんだ。何かあってからじゃ遅いんだ」
「心配はわかりますが、ユリウスはそんな奴じゃありません」
「そんなの――」
「わかるんです。彼とは長い付き合いなんです。ユリウスが妹さんを傷つけるようなことは、絶対ありません。僕が保証します」
さっきまでの挙動不審な様子からは想像できないほど、堂々とした姿だった。
その言葉を信じていいものか、ルルが逡巡していると、
「僕のせいで、あなたを閉じ込めることになってしまい、すみません。今、お茶を用意しますから、どうか心を落ち着かせてください」
そう言ったくせに、紅茶の缶は床に落とすわ、カップの場所はわからないわ、コンロのスイッチはつけられないわで、結局、ルルがお茶を淹れることになったのだ。
どのみち、ここから出られないのなら、大人しく時間が来るのを待つしかない。でも、頼むから、お嬢を無事に返してくれよ、ユリウスさん。
ティーカップを見つめたまま黙ってしまったルルに、マックスが声をかけた。
「あ、あの。ドアが開くようになるまで時間があるので、それまで何か話をしませんか?」
「話?」
「はい。あなたが少しでも安心できるように、僕が知っているユリウスのことを話します」
ルルの返事を待たずに、マックスは語り出した。
それは、マックスが十歳のころのことだ。学校に馴染めず、友達がひとりもできないマックスを心配した執事のヨアヒムが、ある場所へ連れていった。
「坊ちゃま。こちらはお父上の弟君である、フランツ様です」
「弟? 昔、家を出て行ったきりだっていう、あの?」
ダウンタウンにある古ぼけた一軒家で紹介されたのは、叔父のフランツと、その弟子だというユリウスだった。歳が近いから仲良くなれるのではないか。そんなヨアヒムの願いがあっての出会いだった。
「でも、最初は口もきかなかったんです。僕は引っ込み思案で自分から話しかけないし、ユリウスも何かと忙しかったから」
「へえ。じゃあ、どうして仲良くなったのさ」
いつの間にかルルは顔を上げて、二杯目のお茶に口をつけていた。
「それは、何度か叔父の家を訪ねたとき、何かの拍子に僕とユリウスが二人きりになったんです」
マックスは、キッチンの古い木のテーブルで魔法陣を書いていた。ユリウスはフランツに頼まれた新聞のスクラップをしていた。二人とも口をきかないので、壁に掛かった鳩時計の音だけが、部屋に響いていた。
「何を書いてるの?」
珍しく、ユリウスが話しかけてきた。
「こ、これは……。爺やの誕生日が近いから、魔法陣を使ってびっくりさせようかと思って……」
そのとき、マックスは消しゴムを落とした。拾おうと手を伸ばしたとき、袖口から赤紫色の肌がのぞいた。
「その痣、どうしたの?」
「え、あ、これは」
マックスは右手首にできた痣を、とっさに左手で隠した。
「ぶつけたんじゃなくて、誰かにやられた?」
「それは……」
マックスはうつむき、唇を噛んだ。情けないとは思う。けれど相手は三人で、自分よりも体が大きい。関わらないように気をつけても、向こうはそれを許してくれない。
「ねえ、いじめられないようにするには、どうしたらいいかわかる?」
ユリウスに聞かれて、マックスは首をかしげた。
「先制攻撃するんだ」
「え?」
「攻撃は最大の防御なり、っていうだろ。やられっぱなしじゃなくて、こっちから仕掛けるんだよ」
そう言って、にっと笑うユリウスは、ある作戦をマックスに提案した。
マックスの通う小学校は、王都の貴族が通う有名な学校だ。貴族の序列を早いうちから理解して行動する子もいれば、そうでない子供もいる。マックスを苛めていたのは、後者の子供たちだった。
「おーい、どこだ、ひょろひょろ」
「来てやったぞー」
三人組は、マックスが書いた手紙をひらひらさせながら、校舎裏の小さな林に立っていた。林の前には、厳めしい顔をした初代校長の銅像がある。
だけど時間になっても、マックスは来なかった。
日が落ちて薄暗くなる中、怖い顔の銅像に見下ろされ、いじめっこたちの様子はだんだん大人しくなっていた。
「な、なあ。そろそろ帰ろうよ」
「そうだよ。マックスのやつ、俺たちをだましたんだよ」
「あいつ、ひょろひょろのくせに。覚えてろよ、明日になったら――」
そう言いかけたところで、足元からずうんと突き上げるよう地響きがした。
不穏な気配に振り返った三人が見たのは、動かないはずの銅像が自分たちへ手を伸ばしているところだった。
「いじめをするような卑怯者は、お仕置きするぞー」
岩をこすり合わせたような不気味な声に、いじめっ子たちは悲鳴をあげた。
「それでどうなったのさ」と、ルルが尋ねた。
「いじめっ子たちは泣きながら逃げて行きました。でも、本当に大変だったのはそのあとです。ユリウスと一緒に考えた魔法陣はうまく作動したんですけど、止め方まで考えてなくて……。なので、あとでめちゃくちゃ叱られました」
そう言って、マックスは懐かしそうに目を細めた。
「それがあって、あんたとユリウスは仲良くなったんだ」
「はい」
あのときのユリウスは、叔父さんやヨアヒムの前で、自分こそが発案者だから僕を叱らないでくれと、僕を庇ってくれた。
僕はあの後ろ姿を見たときから、ユリウスのことを信頼している。だから、この人の妹さんのことだって、大切に扱っているはずだ。
そう、マックスが胸の内で考えているときだった。
肝心の隣の部屋では、ユリウスが仮面の少女を背後からぎゅっと固く抱きしめていた。




