105 帰れない二人
「拓海様。テスト、お疲れさまでした」
焼きそばを食卓に置きながら、ザックが声をかけた。
「はい。中間テストなんて初めてで緊張したけど、無事に終わりました」
やりきった満足感と解放感から、拓海の口元は自然とゆるんでいる。
「今日は皇子教育もありませんし、お昼を食べたら、ゆっくりしてくださいね」
「はい。ありがとうございます」
拓海は箸を取り、焼そばを食べようとして、ふと向かいに座るザックを見た。
「あの、ザックさん。ユリウスさんもお休みを楽しんでるでしょうか?」
「そうですね。きっと、楽しく過ごしていると思いますよ」
「そうですか、よかったです」
拓海は、ほっとしたように笑った。その姿を見ながら、ザックはそっと胸のうちでつぶやく。
すみません、拓海様。
ユリウス様の休暇は、あなたが思うようなものではないんです。
明日は、チェザーレ一族が亡くなった日。
ユリウス様が、この世にひとり残されてしまった、悲しい日なんです。
だから今日のユリウス様は、家族や一族のことを悼みながら酒を飲みます。
そして、明日になれば、鎮魂の花を捧げに行くんです。
だが、そんなことを拓海に話す必要はない。
ザックはいつも通り振舞おうと自分に言い聞かせ、焼きそばを食べ始めた。
◆◆◆
その日の夕方、ホテル・マーサの受付に意外な客が現れた。
ひとめで上等とわかるジャケットとスカート。帽子に垂れたベールのせいで、顔立ちは見えにくいが、それでも目を引く美形だ。しかも、指には大ぶりの宝石が光っている。
それを見たマーサは、すぐに相好を崩した。
「じゃあ、しばらく王都にご滞在で、お部屋をお探しなんですね?」
「ええ。甥が来年、王都の学校を受験する予定ですの。その準備講座に通うあいだ、静かなお部屋をお借りしたくて。一週間ほど、お世話になれればと思っています」
マーサは女性の話を聞きながら、ちらりとその後ろに立つ人物へ目をやった。
ゆったりしたトレーナーに、目深にかぶった野球帽。女性に比べれば愛想はなく、さっきからひと言も口をきかない。
まあ、年頃の子なんてこんなもんだろう。
「大切な甥御さんが泊まるお部屋ですもの。どうぞ、ホテルの雰囲気を見ていってください」
「お気遣い、ありがとうごいます」
女性は、しわだらけのマーサの手を取り、そっと袋を握らせた。
その重みに、マーサは思わず頬をゆるめる。
「まあ、まあ。すみませんね。うちのホテル、古くはありますが、部屋は広いし、裏通りに面しているので静かですよ」
「そうですか。それでは、少し中を見せていただきますね」
女性はそう言って、連れの少年とともに歩き出した。
そしてエレベーターの前で立ち止まると、三階のボタンを押した。
エレベーターが目的の階で止まった。
二人は人気のない廊下をゆっくり進み、目当ての部屋の前で足を止める。
「ねえ、お嬢。ほんとうにやるのかい?」
周囲に聞こえないよう声をひそめて、ルルは野球帽をかぶったリリアーナに問いかけた。
「うん。ちょっと様子を見てくるわ」
リリアーナは野球帽を脱ぐと、ルルの持っていたバッグから仮面を取り出して顔につけた。
その姿を心配そうに見つめるルルに、リリアーナは笑ってみせる。
「大丈夫だって。……そうだ。中庭があったわよね。ルルは、そこにいて。あとで行くから」
「……わかったよ。でも、十分だよ。十分経って戻らなかったら、あたいが迎えに行く。それでいいね?」
「もう、心配性なんだから。わかったわ。ちゃんと十分で部屋を出る。家でポーリンも待ってるし、さっさと済ませるわね」
ルルが部屋から離れると、リリアーナはひとつ深呼吸をして、部屋のドアを叩いた。
待っていると、ぎいっとドアが開き、その中から銀色の髪の青年が姿を見せる。
リリアーナは青年と二言三言、言葉を交わすと、部屋の中へ入っていった。
鍵の閉まる音が廊下に響き、ルルは心配そうに眉をひそめた。
本当は引きとめたかった。けれど、ここで騒げば余計に目立つ。
リリアーナとの約束どおり、中庭で待つことにした。
夕方の中庭は妙に静かで、葉のこすれる音だけが小さく耳に響く。
「おっ、ここの中庭、面白いじゃないか。キュウリにトマトがなってるなんて。食は、生きてく基本だからなあ」
中庭に置かれた小さなベンチに座って、ルルはそんなことをつぶやいた。
見上げれば、ユリウスがいる部屋が見える。
だが、カーテンがかかっていて、中の様子はわからない。
ユリウスがひとりで暮らす部屋へ行くと聞いたとき、ルルは真っ先に反対した。
しかも相手は、自分たちを敵だと思っているかもしれない男だ。そんなところへ、お嬢をひとりで行かせるなんて、とんでもない。何かあったらどうするんだ。
「大丈夫。少し、話をしたいだけなの」
リリアーナはそう言った。
ルルはリリアーナの専属侍女だ。身の回りの世話はもちろん、危険の芽を先回りして摘むのも大事な役目なのだ。
けれど、リリアーナは意見を変えなかった。
「お母様も、一族が亡くなった日より前の日に、ずっと様子がおかしかったわ。朝から苛々して、泣いたり、物に当たったりして。お父様の胸で、ずっと泣いていたの。……だから、あいつがどうしてるのか、心配で――ううん。ちょっと様子を見てみようかと、思ったの」
そう言われてしまえば、ルルもそれ以上は強く出られなかった。
結局、押し切られる形で、二人はホテル・マーサを訪れた。
ルルは、手元の腕時計を見た。もうすぐ、約束の十分になる。
じっと待っているだけなのに、ほんの数分がひどく長く感じた。
中庭の緑を揺らす風が、ときおり帽子のベールをやさしく撫でていく。
遅い。
十分が過ぎ、十五分になっても、リリアーナは戻ってこない。
ルルは思い切って、足元の影に声をかけた。
「エマ。ちょっといい? お嬢は、まだ部屋にいる?」
いつもなら、術者であるルルの呼びかけにすぐ応じるエマが、姿を見せない。
「おい、エマ。聞こえないのか?」
もう一度呼びかけても、影は反応しなかった。
何かあったのかも!
ルルは駆け出した。
エレベーターを呼ぼうとボタンを押す。だが、のろのろとしか動かず、すぐには来ない。ルルは小さく舌打ちすると、階段へ向かって走り出した。
受付で居眠りしていたマーサが、物音にびくりと目を覚ます。
「な、なんだい。客が来たのかい?」
寝ぼけ眼でホテルの入り口を見るが、そこには誰もない。
マーサはふうっと息をつくと、また目を閉じた。
三階まで駆け上がったルルは、そのままユリウスの部屋をどんどんと叩いた。
「開けて。中にいるんだろ。お嬢、ねえ、聞こえてる? とにかくここ開けるんだ。おい、ユリウス!」
必死に呼びかけていた、そのとき。
すぐ近くで、人の気配がした。
ばっと顔を向けると、文官服の男が、ユリウスの隣の部屋の前に立っていた。手には鍵がある。どうやら部屋を開けようとしていたようだ。
「ちょっと、貸して!」
ルルは男の手から鍵をひったくると、素早く鍵を回して隣の部屋へ飛び込んだ。
急いで窓辺へ駆け寄り、勢いよく窓を開け放つ。
視界を遮るベールがうっとうしくて、帽子を乱暴に脱ぎ捨てた。
そして、そのまま隣の部屋を凝視する。
だめだ。窓は開いてないし、ここから入りこめそうにない。
ユリウスの部屋のドアを叩いたときのように、侵入者を拒む術でもかかっていたら、あたいじゃお嬢を連れ出せない。
……こうなったら、あの人に頼るしかない。
ルルの脳裏に、かつてリリアーナを警護していた人物の姿が浮かぶ。
急いで連絡をとらないと。
そう思った、そのとき、背後で物音がした。
しまった。
あたい、勝手に部屋に入りこんだんだった。
入るときのやり取りを思い出し、ルルは焦りを押し隠して、にこりと笑う。
「勝手に入ってしまって、すみません。妹がお隣に入ったままで、つい動転してしまって……ご迷惑をおかけしました。これで失礼します」
上品な声でそう詫びた瞬間、ドアに背を向けていた男の向こうで、がちゃりと鍵のかかる音がした。
おまけに、何か術を使ったのか、ドアノブが鈍く光る。
え。
まさか、こっちも閉じ込められた?
黒縁眼鏡の奥で、男の目が妙に熱を帯びて光っている。
その視線をまともに受けて、ルルはぼそりとつぶやいた。
「こっちも、まさかの貞操の危機?」




