103 ワインとリンゴ
「ユリウスさん、お久しぶりです。今日はザックさん、いないんですか?」
ジュリアは片付けの手を止めて、店に入ってきたユリウスへ声をかけた。
「ザックはちょっと仕事があってね。俺だけなんだ」
そう言って、ユリウスはにっこりと笑う。
その整った笑顔に、ジュリアはわざとらしく顔をしかめた。
「うっ、まぶしい!」とふざけて右手で目を覆う仕草をすると、
次の瞬間、エヴァンがジュリアの頭をばしっと叩く。
「痛い! 何するのよ、馬鹿兄貴」
「馬鹿はお前だ。ユリウスが呆れてるだろ」
「なによー、冗談なのにぃ」
「ははは」
本当にこの兄妹は仲がいい。
ユリウスはその様子を、微笑ましく眺めていた。
「オーダーは俺が受けるから。お前はそっちのテーブルを片付けろ」
「はーい。わかりましたー」
ジュリアは食べ終わった皿をトレイに載せ、奥の厨房へ向かいかけて、ふと足を止めた。そして何とはなしに二人へ目を向ける。
兄さんって、人付き合いは得意じゃないくせに、ユリウスさんとは案外気が合うみたいなんだよね。
和やかに言葉をかわす兄の横顔を眺めながら、ジュリアもそっと目を細めた。
それにしても、ユリウスさんて、目の保養になるなあ。
顔立ちは俳優でもやっていけそうなくらい整ってる。すらりと背も高いし、銀色の髪はさらさらであたしの髪よりよほど艶がある。シャンプー何を使っているだろう。あとで、聞いてみようかな。
でも、やっぱりあたしの一押しは、オースティンさん。気配り上手で、誰にでも優しくて――そこまで考えたところで、婚約者と楽しそうに話していた姿がふいに浮かび、ジュリアの胸をちくりと刺した。
「だめだめ。今は仕事に集中」
頭を振って歩き出そうとした瞬間、目の前の柱にぶつかった。
「何をやってるんだ、あいつは」
早足で厨房へ入って行くジュリアを、エヴァンが呆れたように見やった。
「明るくて元気いっぱい。まさに看板娘だな。お前の妹は」
「まあ、口うるさいのが玉に瑕なんだけどな……。それで、注文はいつものでいいか?」
「ああ。それと、グラスワインを一杯頼もうかな」
「わかった。ちょっと待っててくれ」
エヴァンは注文票を手に、その場を離れた。
ひとりになったユリウスは、ようやく人心地がついたようにほっと息をつき、椅子の背にもたれた。
休暇で戻ってきたはずなのに、まるで休めていない。
秘書官たちとの熱を帯びた打ち合わせを思い出して、思わず苦笑がこぼれた。
少し待っていると、エヴァンが鶏肉のソテーとワインを運んできてくれた。
久しぶりに味わう店の名物料理に、ようやく休暇らしい時間が過ごせそうだと思っていると、
「あのー、ユリウスさん」とジュリアが声をかけてきた。
エヴァンが洗った皿を拭いていると、ふいにジュリアがその腕を引っ張った。
「兄さん。ここはいいから、ユリウスさんのところへ行ってあげて」
「おい、急に引っ張るな。皿を落とすところだったぞ」
「ごめんなさい……でも、あのね」と、ジュリアは少し声をひそめた。
「今日の売り上げが、いまいちなの……」
「……そうなのか」
客のついていないテーブルを思い浮かべ、エヴァンは渋い顔をした。
「それで、さっきユリウスさんにワインリストを見せて、ワインのお代わりはどうですかって聞いてみたの」
「……お前、俺の知り合いに営業してきたのか?」
エヴァンは、思わず眉をひそめた。
「うん。だってお店のためだもん。それでユリウスさんね、兄さんが一緒に飲むなら、一番高いワインを注文してくれるって」
そう言って笑う妹の姿が、やけに逞しく見えた。
「すまないな、無理を言って」
エヴァンがユリウスの向かいに腰を下ろし、二つのグラスにワインを注ぐ。
「いや、いいさ。キッチン・マウロの開店二十周年だ。俺にも祝わせてくれ」
ユリウスはそう言って、エヴァンと静かにグラスを合わせた。
「あの二人、仲がいいんだね」
厨房から店内を眺めていたソルが、ジュリアに言う。
「前に、兄さんたちが困っていたところへ、ユリウスさんが通りがかって、助けてくれたんだって。それで兄さんやオースティンさんはすごく感謝してるみたい」
「へえ。そんなふうに感謝するって、よっぽどのことがあったんだろうね」
「みたいですよ」
客席の二人は、言葉少なにワインを飲んでいた。
店に現れたときから疲れた顔をしていたユリウスを気遣い、エヴァンはあえて自分から話題を振らなかった。
無理に言葉をかけるより、今はそっとしておいたほうがいい。
エヴァンは一口ワインを含みながら、そう思った。
ユリウスは友人であると同時に、恩人でもある。
あのとき、この男が来てくれなかったら、俺とオースティンは親衛隊を除隊させられていただろう。
しかも、不名誉なかたちで。
だからこそ、俺とオースティンは約束している。ユリウスに何かあれば、必ず駆けつけると。
「なんだ? さっきからじっと見て。俺の顔に何かついてる?」
ユリウスがからかうような口ぶりでエヴァンを見る。酒には強いはずなのに、なんだか顔が赤い。
「……おまえってイケメンだなあと思って」
エヴァンの言葉にユリウスがむせた。
「な、なんだよ、いきなり」
「なあ、お前って彼女いるのか?」
「え?……今は、いないけど」
「じゃあ、どういう子がタイプだ?」
「タイプ? まあ。人として、好感が持てる子がいいかな。……でも、なんで、そんなの聞くんだよ」
ユリウスは訝しんでいるが、エヴァンはその答えに満足げに笑う。
エヴァンは腕を組み、品定めするような目でユリウスを見た。
人として好感が持てるなんて、それ、うちのジュリアのことだろう。
考えてみれば、このユリウスはかなりの優良物件だ。
生い立ちが複雑でも、性格はひねくれていない。
腕も立つし、金遣いも荒くない。
おまけにもうすぐ貴族籍にその名を連ねる。
こんなところに、思わぬ伏兵がいたとは。
ユリウスが頼んだワインをほとんど一人で空けたエヴァンの妄想は、もはや止まらなかった。
赤くなったエヴァンの頭の中では、すでに話がずいぶん先まで進んでいる。
花嫁衣装を身にまとったジュリアが、
「兄さん。今までありがとう。あたし、幸せになります」
と微笑む姿が浮かぶ。
その勢いのまま、エヴァンは思わずテーブルの上のユリウスの手に、自分の手を重ねた。
「なあ……俺たちが家族になるのって、どう思う?」
「え?」
ユリウスは思わず顔を引きつらせた。
なんだこれ? 家族って、俺とエヴァンが?
まさか、こいつ、そっちの趣味か?
ユリウスはエヴァンの手から自分の手をさっと引き抜く。
「ははは。何だ、酔っているのか? おっと、そろそろ閉店時間だろ。俺はここで失礼するよ」
そう言って勢いよく立ち上がると、ユリウスはジュリアを呼んで会計を頼んだ。
「じゃ、じゃあ。俺はこれで」
一刻も早く店を出ようとするユリウスを、エヴァンが呼び止めた。
「今日は来てくれてありがとう。これ……俺の気持ちだ」
エヴァンが差し出した物を見て、ユリウスは小さく「うっ」と声を漏らした。
「もう兄さんたら。酔っぱらって。俺の気持ちじゃなくて、二十年記念で来店してくれたお客様に配るリンゴでしょ。ユリウスさんも、どうぞ持って帰って――って、あれ? ユリウスさんは?」
ジュリアが言い終えるよりも早く、ユリウスの姿は店から消えていた。
きょとんとしながら、ジュリアは渡しそびれたリンゴを見下ろす。
「あ。オースティンさんたちにも渡すの、すっかり忘れてた」
そのときの二人は、まだ知らない。
ユリウスが以前、ザックから果物言葉を聞かされていたことを。
リンゴの意味は――君に恋をする。
それを思い出したユリウスが、全力で逃げ出したことも。




