102 エヴァンの妹
「はあ……。今夜もお客さん少ないな……」
客の去ったテーブルを片付けながら、ジュリアはしょんぼりとつぶやいた。
青みがかった黒髪を高い位置で結んだ彼女は、大きなヘイゼルの瞳が印象的な、キッチン・マウロの看板娘だ。
王都の高校に通っているものの、授業が終わればまっすぐ帰ってきて店を手伝っている。
上流階級が通うような洒落たレストランではなく、市民相手のきどらない店だ。
チリリーン、とドアに取りつけられた小さなベルが鳴った。
「いらっしゃいませー」
ジュリアはぱっと声を弾ませた。ポニーテールに結んだ髪も、その勢いで揺れる。
「……って、なんだ兄さんか」
期待に輝いていた瞳が、みるみるうちにしぼんでいく。
戸口に立っていたのは、ぼさぼさ頭にけだるげな空気をまとった青年だった。兄のエヴァンである。
親衛隊ではかなり腕が立つらしいが、ジュリアにはいまひとつ実感がない。家にいるエヴァンは、面倒くさがりで何かと手のかかる兄なのだ。
「おい、なんだその反応は」
「だってぇ、お客さんだと思って喜んだのに、来たのがずぼら兄貴なんだもん」
「ちゃんと後ろを見ろ。客を連れてきたんだぞ」
「え?」
「こんばんは、ジュリア」
「あっ、オースティンさん!」
エヴァンの向こうには、兄と同じ魔王親衛隊D班のオースティンが立っていた。
銀色の眼鏡の奥で、やわらかく笑う灰色の目を見た瞬間、ジュリアの心臓がどきんと跳ねる。
寝ぐせなんか気にしない兄とは違い、清潔感があって、さりげなく優しい。そんなオースティンのことを、ジュリアはひそかに憧れていた。
「今夜はどうしたんですか? 兄が強引に誘ったん――」
言いかけて、ジュリアははっと言葉を飲み込んだ。
もう一人、連れがいたのだ。
「エヴァンから、お店が二十周年記念だって聞いてね。婚約者を誘って来たんだ。紹介するよ、僕の婚約者のプリシラだ。プリシラ、こちらはエヴァンの妹さんの、ジュリア。学校が終わると、この店を手伝っている働き者なんだ」
「は、初めまして。ジュリアです」
表情がこわばるのを感じながらも、ジュリアは無理に笑顔を作って、挨拶した。
「まあ、可愛らしい方ね。それに……」
プリシラはそこで小さく間を置き、ジュリアの装いにそっと目を向けた。
「動きやすそうなお洋服がとてもお似合いだわ」
プリシラはやわらかく微笑んだ。ジュリアより年上らしいが、亜麻色の髪をふんわりと肩先に広げ、どこか実年齢よりも幼く見える。やわらかな輪郭が、その可憐な雰囲気をいっそう引き立てていた。
胸元にひだを寄せた上品なブラウス、落ち着いた色合いの長めのスカートも、彼女の育ちのよさを感じさせる。
それに引きかえ、自分は着古したトレーナーとズボン、その上から店名入りのエプロンをつけている。
裕福な貴族令嬢の前では、自分など裏通りで餌をあさる野良猫みたいなものかも。そう思ったら恥ずかしくて、その場から逃げ出したくなった。
それでも、せっかく来てくれたのだ。接客を投げ出すわけにはいかない。
「窓際のテーブルへどうぞ」
ジュリアは、二人を席へ案内した。
エヴァンは店内をつっきって、奥の厨房へ向かった。
「ソルさん。俺も手伝うよ」
「お帰り、エヴァン」
厨房で皿を洗っていた年かさ女性が、エヴァンを見るなりにこやかに笑った。
貫禄のある体つきに、さっぱりとした気性。この店を切り盛りする頼れるおかみだ。
ソルは店主マウロの妻で、エヴァンとジュリアの遠縁にあたる。流行り病で両親を亡くした兄妹を引き取り、この店で暮らせるようにしてくれた恩人でもあった。
エヴァンは上着を脱ぐと、店のエプロンを身につけた。
キッチン・マウロは小さいながらも、鶏肉のソテーが評判の店だ。
それでも最近は、近所に似たような店ができたせいで、夕食どきでも席が半分しか埋まっていない。
そこに加えて、店主のマウロが腰を痛めて、先月から入院していることも痛手だった。
オーダーを伝えにジュリアがやってきた。
「お前、学校の宿題があるんじゃないか。あとは俺がやるから、二階へ行って勉強してこい」
「ううん、いい。お店が終わってからやる」
ジュリアはそう言うと、少し肩を落として客席へ戻っていった。
気になって、エヴァンは厨房からそっとオースティンたちの席の様子をうかがう。
ジュリアが席のそばに立ったまま、二人と言葉を交わしていた。
そのとき、プリシラが、「あら、オースティン、髪が乱れているわ」と、光り輝く婚約指輪のはまった左手で、オースティンの髪を整える。
背中を向けているせいで、ジュリアがどんな顔をしているのかはわからない。
エヴァンはくるりと踵を返すと、何も言わずにソルの手伝いを始めた。
オースティン。あいつは裏表のない正直者で、周りからの信頼も厚い。
だが、正直すぎるせいか、どうにも鈍い。うちの妹の気持ちにも、まるで気づいていない。
それに――自分の目の前で笑っている婚約者の、裏の顔も知らない。
エヴァンは、切ろうとしたトマトをつい握りつぶしてしまった。
「……っと」
それを見たソルが、呆れたように笑う。
「その潰れたのは、エヴァンが食べちゃいな」
「あ、うん。あとで食べるよ。ごめん」
新しいトマトを洗いながら、調理中に余計なことは考えまいと自分に言い聞かせる。それでもやはり、オースティンのことが頭から離れなかった。
俺たちは同じ親衛隊の仲間だが、考え方はまるで違う。
あいつは、命を懸けて魔王様をお守りするっていう親衛隊の理念を、そのまま体現したような男だ。立派なもんだとは思う。けれど、きれいごとだけで生きていけるほど、世の中は甘くない。
俺が親衛隊に志願したのは、金のためだ。危険なぶん、実入りもいい。
親がいない、有力な後ろ盾もないジュリアを、少しでもましな家に嫁がせようと思ったら、かなりの持参金が要る。俺は何としてでも、それを用意してやりたい。
俺は、ジュリアに幸せになってほしいんだ。
トマトをくし形に切り、サラダの皿に載せる。ジュリアを呼び、オースティンたちのテーブルへ運ばせた。
空元気で振る舞うジュリアを見て、俺はあらためて強く思う。
オースティンは駄目だ。高位貴族の家なんて、ジュリアには窮屈すぎる。あんなところへ嫁いだら、きっと苦労する。
あいつが早く結婚してくれれば、ジュリアだって、さっさと次の恋に気持ちを切り替えられるはずだ。
だから俺は教えない。
あの女は、このあとオースティンに送られて家に帰っても、すぐに抜け出す。
化粧と髪型を整え直し、露出の多い服で、夜の街へ繰り出すことを。
「ご馳走さま。おいしかったよ。君もそう思わないか、プリシラ」
レジで会計をするジュリアの前で、オースティンが婚約者に声をかける。
「そうね」
プリシラは、ちらっと含みのある視線をジュリアに向ける。
「初めていただく味で新鮮だったわ。こういう小さなお店に来ること自体、あまりなくて。いい経験になったわ。今夜はありがとう、オースティン」
そう言って、プリシラはオースティンの腕に自分の腕を絡ませ、甘えるような上目遣いで彼を見上げる。
「気に入ってくれてよかった。また来よう。……じゃあ、ジュリア。僕らはこれで帰るよ。エヴァンによろしく言っておいてくれ」
「あ、はい。伝えておきます。お気をつけて」
腕を組み、寄り添うように去っていく二人を見送りながら、ジュリアは、ちゃんと最後まで笑顔でいられただろうかと、そっと自分に問いかけた。
ジュリアが店に戻り、のろのろと皿を片付けていると、ドアのベルが鳴った。
「一人なんだけど、いいかな?」
聞き覚えのある声に顔を上げると、戸口には、にっこりと笑うユリウスが立っていた。
オースティンの婚約者については、以前投稿した「閑話 あの日ユリウスは」にも登場しています。あわせて読んでいただけたら嬉しいです。今回もお読みいただきありがとうございました。




