100 狼と三日月の夜
ダウンタウンにある「狼と三日月」は、日が暮れるとバーに姿を変える。
夕闇が街を包み、開店を告げる看板に明かりが灯った。店のロゴマークである、三日月を見上げる狼が、電飾看板の中で息づくように浮かび上がる。
その明かりに引き寄せられるように、次々に客が店に入っていく。
上品な出で立ちの男女もいれば、日銭を稼ぐ力自慢の男たちもいる。
日中なら互いに声を交わすこともない顔ぶれだが、この店の中では皆、等しく客だった。
仲間と笑い声を弾ませる客たちから少し離れたカウンター席で、一人の男が静かにグラスを傾けていた。
ブラッドフォード卿の息子カイルの護衛役を務める、ノアである。
黒いジャケットに白いシャツという控えめな装いだが、その簡素さがかえって目を引いた。
さっきから、近くのテーブルにいる女性の二人組が、ちらちらとノアに視線を送っていた。
長い前髪が顔の半分を隠し、その表情を読ませない。
ノアは無表情のまま、琥珀色の液体をじっと見つめている。
そのとき、どさりとノアの隣に男が腰を下ろした。
「待たせたな」
男はそう言ってから、ノアの手元をちらりと覗き込み、通りがかったバーテンダーに「俺も同じものを」と注文した。
「相変わらず忙しそうだな、クラウス」
「ああ。若手がなかなか育たなくて困っている」
そう返事をして笑ったのは、泣く子も黙る魔王親衛隊副隊長のクラウスである。
ノアとは、親衛隊に入隊した年が同じ、同期の仲だ。
クラウスは、腕にかけていた軍服の上着を、隣の椅子の背にかけた。
勲章や右肩の金糸の飾り紐が椅子の背に触れて、かちゃりと小さく鳴る。
「おい。また胸の辺りが賑やかになってないか?」
ノアは、クラウスの軍服の勲章を一瞥し、呆れたような声を出した。
「まあ、ただのおもちゃだよ。ほしかったらやるぞ」
「馬鹿言うな。窃盗で捕まるのはごめんだ」
二人が軽口を交わしていると、バーテンダーがクラウスの前に飲み物を静かに置いた。
どちらからともなくグラスを掲げ、音も立てずに杯を合わせる。
「そういえば、いつぞやは済まなかったな。うちの新入りが迷惑をかけて……」
「迷惑?」
ノアが首を傾げると、クラウスが頬をかきながら続けた。
「ユリウスを送っていくとき、しつこく追いかけて来た車があっただろ。あれを運転していたのな、実は俺の親戚の子なんだ……」
「ああ。あのときの」
ノアも思い出したのか、驚いた顔で隣を見る。
「教育がなってなくて、申し訳なかった」
「……いや。俺もやりすぎたかも。あのとき、俺の車を深追いして、家畜運搬車とぶつかっていた。怪我はなかったか?」
「それは大丈夫だ。頑丈なやつで、ぴんぴんしてる」
「なら、よかった」
思わずノアがにっこり笑うと、近くのテーブルから「きゃあ」という女性たちの黄色い声が上がった。
それを聞いたクラウスは「相変わらず女性におモテになるようで」と、ぼそりと嫌味をつぶやく。
「俺みたいな一般人。魔王親衛隊を仕切る御仁に比べたら、空気みたいな存在だよ」
ノアのおどけた口ぶりに、クラウスは、はあーとため息をつく。
「ったく。切り返しもスマートとか、やってられんわ!」
ぐいっとグラスに残った酒を飲み干すと、カウンターの中のバーテンダーにお代わりを要求した。
隊員時代、魔獣に襲われていた村を助けたことがある。
先に駆けつけて大活躍したのは俺だったのに、後から来てちょっとだけ強そうな魔獣を倒したノアのほうが、村の女たちに感謝された。
やれ飲み物だ、食べ物をどうぞと、女たちはノアに群がる。
俺の周りにいたのは、むさい男たちだけだった。
そんな思い出が、クラウスの脳裏をよぎった。
「本当に、こいつは昔っからどこへいっても女性の注目のまとで――」
ぶつぶつとこぼしながらも、クラウスの口元はどこか楽しげだった。
「……ところで、急に俺を呼び出したわけは何なんだ?」
クラウスが、空のグラスを指先で弄びながら尋ねた。
「お前に頼みがある」
そう言うと、ノアが頭を下げてきた。
「お、おい、なんだよ、急に。とにかく頭をあげろ。それじゃあ話もできん」
焦るクラウスの前で、ノアがゆっくりと顔を上げ、まっすぐにクラウスの目を見た。
「頼みたいのは――」
ノアは静かに語りはじめた。
話に耳を傾けていたクラウスは、聞き終わると、ふうっとため息を漏らす。
「あのさあ、そんなに心配なら自分がやればいいんじゃないか?」
「……それは無理だ。俺は、そばを離れたんだから……。だからお前にお願いしているんだ」
「うーん。気持ちはわかるけど、俺にも立場ってものがあってだなあ」
難しい顔をして、素直に引き受けようとしないクラウスに、ノアはまるで世間話をするみたいに話し出した。
「親衛隊の車に追いかけ回されたって、被害届を出してみようかな」
「な!」
「最近あった役所の汚職事件のせいで、世間の目はピリピリしてるぞ。そんな中で、魔王親衛隊が理由もなく民間人の車を追いかけ回したって、イメージダウンになるな」
ノアはさらりと言って、グラスを傾ける。
「おまけに無茶な運転で、路上駐車の車を何台もこすって逃走……。まさかと思うが、謝罪や賠償はしてるよな? もしまだなら、大問題だ。新聞記者が糾弾しに大勢来るぞ。大変だなあ、責任者は」
「お前、俺を脅迫するのか?」
ノアの言葉に、クラウスの顔色はだんだん悪くなっていく。
「脅迫? とんでもない。ただの世間話だろう? ……でもそうだな。俺の頼みをきいてくれたら、黙っているとしよう」
穏やかだが有無を言わせぬ笑顔に、クラウスは降参だとばかりに、がっくりとうなだれた。
「わかった。やるよ……」クラウスが力なく答えた。
「そうか。お前ならそう言ってくれると思ってた。しっかり頼んだぞ」
ノアがクラウスの肩をうれしそうに叩いた、そのときだ。
店内の一角で、ガシャーンとグラスの割れる音が響いた。
「やるか、この野郎!」「上等だ、かかってこい!」などと、物騒な声が飛び交う。
酒で頬を上気させた男ふたりが、顔を突き合わせて睨み合っている。周りの客たちはグラスを手に、そっと距離を取り始めた。
酔っ払い同士が喧嘩をすると、いつもは店主のブルーノという大男がさっと仲裁に入るのだが、いまどこを探しても彼の姿はない。
「今日、ブルーノさんはいないのか?」
ノアが、カウンターの中のバーテンダーに尋ねると、「今日は寄り合いの会食があって、出勤が遅いんです」と答えるだけで、カウンターから出ようとはしない。
「止めにいかないのか?」とノアが続けた。
「前に止めに入ったとき、ちょっと怪我をしましてね。それ以来、ブルーノさんから、自分がいないときは動くなと言われてるんです」
そのやり取りを黙って聞いていたクラウスが、すくっと立ち上がった。
「じゃあ、誰かがやるしかないよなあ」
そう言って、クラウスは指をぽきぽきと鳴らし始めた。
「おい、お前は駄目だろ、そういうのやっちゃ」
慌ててノアが、クラウスの腕を引っ張るが、
「俺だってなあ。毎日デスクワークばっかで、ストレス溜まってんだよ」
そう叫ぶなり、クラウスはケンカの輪に飛び込んで行った。
「何をやってるんだ、あいつは」
ひとつため息をつくと、ノアも立ち上がった。仲裁と見せかけて、ちゃっかりうさばらしをし始めたクラウスを止めようと近づく。
クラウスは「おい、駄目だぞ、ケンカなんて。仲良くするんだ。店の中なんだからな。あれれ、すまない。俺の手が君の頬に触れてしまったあー。あ、こっちの彼も悪いな。俺の肘が君の腹に、どうして当たってしまったんだろう。不思議だなあ」などと、わざとらしいことを言いながら、二人をのしていく。
結局、ノアがしたのは、泣いて謝る男二人をさらに仲裁しようとするクラウスを席に連れ戻すことだけだった。
……どう考えても、一番タチの悪い酔っ払いはクラウスの方だ。
「まったく、お前って奴は……」
ノアが心底呆れたように、カウンターに座り直すクラウスを見る。
「なんだよー。怪我人が出る前に、友好的な仲裁をした俺を褒めろよー」
クラウスが拗ねた子どものように口を尖らせるので、ノアは思わず吹き出してしまう。
そんな二人の前に、すっと二杯の酒が置かれた。
「店からのサービスです。騒ぎを収めてくださり、感謝します」
店主のブルーノがそう言って、分厚い背中を向けて去って行った。
「よし、今夜はとことん飲むぞー」
子どもみたいにはしゃぐクラウスの横で、ノアも、今夜だけはこいつの酒につきあってやろうと決めた。
バーテンダーが振っていたシェイカーが止まった。視線を向けると、繊細なカクテルグラスに出来上がった酒を注いでいる。グラスが可愛らしいピンク色に染まるのを見て、ノアは何かを懐かしむように目を細める。
「元気で過ごしているだろうか……」と、ノアはふと独り言を漏らした。
「うん? 何か言ったか?」
酔いが回ったのか、顔を赤くしたクラウスが尋ねた。
「なんでもない。お前には、内緒だ」
「なんだ、それ……ま、とりあえず、飲め。今夜は俺のおごりだあ」
そう言ってクラウスが豪快に笑い出した。
「そうか。じゃあ、ありがたく」
たとえ離れていても守ると決めた思いを胸に秘めたまま、ノアは静かにグラスを持ち上げて、一息で飲み干した。
そんな二人を見守るように、「狼と三日月」の看板は、明け方まで明るく灯っていた。




