第九話 ミカちゃんの未練 その1
ピッ ピッ ピッ ピッ
暗い病室に、機械の小さな電子音だけが、規則正しく響いている。
カーテン越しに窓から差し込む街灯の光が、白いシーツの上にぼんやりとした影を落としていた。
その光の中をフワフワと浮かびながら、何度目かの溜息をつく幽霊が、目の前にあるベッドを見下ろしている。
「……ごめんな。あたしの考えが甘かったみたい」
誰に向けるでもない幽霊の呟きが、静寂の中に溶けていく。
「……あれで帰って来ると思ってたんだけどなぁ」
その幽霊の表情には後悔が滲んでいるだけで、いつもの明るさは微塵もない。
「こんな事にまで、巻き込みたくなかったのに……」
その言葉を最後に、幽霊はゆっくりと夜の闇へと体を沈めていく。
ピッ ピッ ピッ ピッ
その病室には、再び機械の音だけが響いているだけだった。
風がヒュ~と、僕の体を包むように吹き抜けていく。
二月の夕暮れというのは、一日の中で最も寂しさを感じる時間帯だろう。
太陽が沈み始めた空は茜色に染まっている。
その美しさとは裏腹に、町には冷たい風が吹き抜けていく。
僕は会社からの帰り道を、いつものように一人で歩いていた。
吐く息は白く、それが風に流されて消えていく。この町の冬は本当に寒い。雪国生まれの僕でも寒すぎるとしみじみと思う。
「はぁ……今日も疲れたな」
しかし今日は早く帰れたし、この時間なら僕の目の端がおかしな者達を捉えることも無いだろう。
早く家に帰りたいと思いながら足早に歩を進め、いつものガードレールも何事も無く通り過ぎる。
ここまで来れば大丈夫だなと思ったその時だった。
背筋に冷たいものが走り、僕は思わず立ち止まる。
「嫌な予感がする……これは振り返ったらダメなやつだ」
かなり強烈な予感が体の奥底から湧き上がって来ると同時に、心臓が嫌な音を立て始める。
「……何だこの感じ……普通の奴じゃないな」
前方には帰宅を急ぐサラリーマンや学生が行き交っているだけで、特に変わった様子はない。
その人達の中にも、怪しい気配は感じられない。
「この感覚はやばい……何かまずい」
霊感持ちとして長年生きてきた経験が、危険を知らせている。
「……これは絶対に何かある。とにかく家に帰ろう!」
そう確信した僕は、迷わず走り出した。
息を切らしながら住宅街を駆け抜け、角を曲がり坂道を上っていく。
心臓がバクバクと音を立て、冷や汗が背中を伝っていくのが分かった。
ようやく自分のアパートが見えてくると、僕は最後の力を振り絞って玄関まで走る。
鍵を取り出す手が震え、何度か鍵穴を外しながらも、なんとかドアを開け中に飛び込んだ。
ガチャン バタン
「はぁ……はぁ……」
ドアを閉めて鍵をかけ、荒い息を整えながら、背中をドアに預ける。
さっきまで誰も居なかったこの部屋のドアは冷え切っていて冷たかったが、今の僕には心地よく感じられ、少し冷静さを取り戻す。
「……気のせいだったのか? 最近は霊達に触れすぎて、感覚を見誤ったのかも知れないな」
部屋の中は、静かで特に何も起きていない。
いつもの見慣れた光景が、そこにあるだけだ。
「そうだよな……最近ちょっと疲れてるのかもしれない」
僕は少しずつ落ち着きを取り戻すと、立ち上がり靴を脱いで足を数歩進める。
すると突然に視界が真っ暗になった。
「ひぃぃぃぃぃぃ」
突然、真っ暗になった視界に戸惑いながら、僕は一人叫び声を出す。
すると、どこか遠くから聞き慣れた声が響いてきた。
「どうか、これで……どうか、これで報酬は勘弁してくだせぇ」
……聞き慣れた声からは、アホな台詞が発せられている。
「お願いしますだぁ」
間違いない……この声はミカちゃんだ。
視界を奪われたまま、この現象を起こしているであろう犯人に訊ねる。
「ミカちゃんでしょ?」
「うん♡」
「何してんの? って言うかここは何処なんですか? 真っ暗だけど、僕は何処にいるのですか?」
「あたしのスカートの中だけど?」
「……はい?」
「だ~か~ら~。今ひーさんの頭は、あたしのスカートの中なの!」
始めて聞かされる自分の現状に、理解が追いつかない。
しばらく呆けていると、暗闇に目が慣れてくる。
すると、うっすらと黒い物が目の前に浮かび上がってきた。
「今、僕の目の前にあるこれって、もしかして……」
「いや~~~ん♡ひーさんったら♡」
「ぐはっ!」
僕の目のすぐ先には、前にミカちゃんが見せてくれた黒の短パンがあった。
しばらく玄関で素数を数えた後、とりあえずどういう事なのかを聞く為に、しかたなくこの幽霊を部屋に招き入れる事にした。
僕が集めた退魔グッズには目もくれず、ミカちゃんは普通に部屋に入っていた。
こいつめ……。この部屋なら幽霊達が入って来れないと思っていた俺の心の拠り所を簡単に壊しやがって!
「おお~! 思った通り綺麗にしてるね」
フワフワと宙を浮きながら僕の部屋を見渡し、胡坐の姿勢になると、そのままテーブルの近くにスッと降りて座った。
良く見ると、いつも履いている茶色のショートブーツは脱いでいて、イチゴの模様が散らばった靴下になっている。
「……幽霊でも、ちゃんと靴は脱ぐんですね」
「礼儀は大切だろ?」
「そういう事を言う人は、あんな事なんてしないと思う」
「ん?なに?」
小声で呟いた僕の声が聞こえてないのか、それとも聞こえなかったフリをしているのか分からない。
しかし僕にとっては、この幽霊に家を知られた事の方が心配だ。暇を持て余しているこいつの事だ、いつフラッとやって来るのかと思うと気が気ではない。
「なんで僕の家を知っているんですか?」
「後を着けてきたからに決まってんじゃん!」
テーブルの下を覗きながら、面倒そうに返事をしている。
後を着けてきた? と言う事は、僕が帰り道で感じたあの気配って、こいつが僕を見ていたからか? とりあえず疑問を投げかける。
「さっき感じた嫌な気配ってミカちゃん?」
「さすがひーさん! 上手く尾行できたと思ってたのに!」
「僕をストーカーして遊んでたんですか?」
「え?違うよ?」
「挙句の果てに、女の子なのにあんなことをするなんて、もうただの変態の幽霊じゃないですか……」
「うっせー!これでも悩んだんだよ!」
部屋の物色を止め、両手をテーブルについて前屈みで怒っている。
この際、こいつが何を悩んだのかなど、どうでも良い。悩んで出した結果があの奇行になった経緯の方に僕の興味が向く。
「悩んだ結果が、僕の頭にスカートを被せる事なんですか? それも若い女の子が、あんな事をするなんて……」
「あたしが払える報酬は、あれしかないからな。……ごめんね。短パン履いててごめんね」
言葉とは違い悪びれる様子もなく、スカートの裾をパタパタさせながらチラチラと黒い物を見せ付けてくる。
「どうだった? 良く見えたっしょ? さっきの報酬と引き換えに……」
ん? さっきの報酬と引き換え? その言葉が引っかかる。報酬って事は、また僕を巻き込んで何かをする気なのか? とりあえず、見てない事にして回避する方向に持って行こうと決める。
「いや、真っ暗だったので、何も見えてませんでしたけど?」
「嘘つけ!めっちゃ至近距離でしばらく見てたじゃん! さすがのあたしも恥ずかしかったんだからな!」
「……見てません」
見てないと必死に言い張っていると、ミカちゃんがニヤっと笑いながら僕を見つめてくる。
「ひーさん?」
「な、なんですか?」
「あたしもその時に『あるもの』を見たんだけど、『ナニ』を見たのか教えて欲しい? 本当に見えてなかったのなら、なんであんな事になってたの? なんですぐに部屋に入って来なかったの?」
「……すみませんでした。ちゃんと見えました」
「んじゃ!報酬の前払いは成立って事で!」
「……はい。頑張らさせて頂きます」
完全に罠にはめられたと、そう気づいた瞬間、僕は深い溜息をついた。
するとミカちゃんの表情が少しずつ変わっていく。
いつもの明るさが消え、今まで見たことのない真剣な顔になった。
「……家にまで来ちゃってごめん。外では話づらい事なんだ」
その言葉に僕は何も言えなくなった。
しばらくの沈黙の後、ミカちゃんがゆっくりと口を開く。
「ひーさん……あのね……。これから話すことはマコにも言ってないんだ。でも、ひーさんになら全部話せる気がして……」
ミカちゃんの目には、うっすらと涙が浮かんでいる。
それを見た僕は黙って頷いた。
すると彼女は、一度深呼吸をしてから言葉を紡ぎ始める。
「あのね……リナは……ひーさんが会ったリナは幽霊なんだ」
「え? 幽霊?」
「地縛霊に近いような感じになったリナは、ずっとあそこに留まってたんだ」




