第98話 原初のM
――原初M:帰還。
その文字を。
俺は。
何度も見た。
暗闇の奥。
そこに。
一人の女が立っている。
顔は。
まだ見えない。
ただ。
胸元に。
――M。
それだけ。
「……」
ミラが。
俺の後ろから。
小さく言った。
「レイン」
「ああ」
「私」
「ここにいていい?」
「当たり前だ」
「……うん」
女が。
静かに。
こちらへ歩いてくる。
足音が。
響く。
――コツ。
――コツ。
――コツ。
やがて。
顔が。
明かりに入った。
「……」
俺は。
息を止めた。
その顔は。
ミラと。
よく似ていた。
だが。
同じではない。
目元。
口元。
雰囲気。
全部。
少しずつ違う。
ミラが。
自分の顔に触れる。
「……似てる」
「ああ」
「でも」
「私じゃない」
「そうだな」
女が。
微笑んだ。
『当然』
「……」
『私は』
一拍。
『あなたじゃない』
ミラが。
黙る。
『そして』
女は。
俺を見る。
『あなたも』
『私ではない』
「……」
「なら」
俺は。
聞く。
「お前は誰だ?」
女は。
少し考えた。
『名前なら』
胸元のMを。
指で触れる。
『M』
「それは」
「名前なのか?」
『名前』
「本当に?」
『私が』
一拍。
『最初に選んだ名前』
「……」
俺は。
96話で見た記録を。
思い出す。
――Mは。
作られていない。
最初から。
存在していた。
女が。
俺を見る。
『あなたは』
『私を選んだ』
「五十年前の話か?」
『そう』
「何を選んだ?」
『一緒に生きること』
「……」
ミラが。
少し驚く。
『でも』
Mは。
首を振った。
『私は拒否した』
「なぜ?」
『簡単だよ』
Mは。
俺を見る。
『あなたが』
『私を選んだから』
「……?」
『私は』
『あなたに』
『選ばれたくなかった』
「……」
俺は。
意味が分からなかった。
「普通」
「逆じゃないか?」
『普通ならね』
「じゃあ」
『私は』
一拍。
『誰かに選ばれるために』
『生きていたくなかった』
ミラが。
静かに頷く。
「……分かる」
Mが。
ミラを見る。
『あなたは』
『私に似ている』
「……」
『でも』
『あなたは』
『私ではない』
ミラが。
少しだけ。
笑った。
「うん」
「私も」
「そう思う」
俺は。
二人を見た。
似ている。
でも。
違う。
それは。
これまで何度も見てきた。
「同じ名前」と。
「同じ人格」は。
別物だという証拠でもあった。
「じゃあ」
俺は。
Mを見る。
「M-00は」
『私ではない』
「でも」
「Mを使った」
『そう』
「なぜ?」
『私を』
一拍。
『真似したかったから』
「……」
『正確には』
『私が』
『どうやって生きていたかを』
『真似したかった』
「生き方?」
『うん』
Mは。
少し笑う。
『私は』
『何も持っていなかった』
『名前だけ』
『番号もない』
『役割もない』
『身体すら』
『誰かに与えられたものではなかった』
「……」
『だから』
『M-00は』
『それを』
『自由だと思った』
「違ったのか?」
『違った』
Mは。
静かに。
首を振る。
『自由って』
『何も持たないことじゃない』
『自分で選べること』
俺は。
その言葉を。
聞いた瞬間。
胸の奥が。
少し熱くなった。
それは。
今まで。
俺が何度も。
言ってきたことだった。
「じゃあ」
「M-00は」
「自由になりたかった?」
『うん』
「だから」
「Mを名乗った?」
『そう』
「でも」
「M-00は」
「ミラになった」
『……』
Mが。
ミラを見る。
『それは』
『私にも分からない』
「分からない?」
『M-00が』
『なぜあなたを選んだのか』
「私を?」
『あなたの名前を』
一拍。
『ミラ』
ミラが。
目を見開く。
『M-00は』
『あなたを見て』
『自分をミラと呼ぶことを選んだ』
「……」
ミラは。
何も言わない。
俺は。
ふと。
以前の記録を思い出した。
――初回命名者:ミラ。
――製造物:名前。
――MIRA計画。
もしかすると。
全部。
逆だったのかもしれない。
「MIRA計画は」
「Mを作るためじゃなかった?」
『違う』
「じゃあ?」
『Mを』
一拍。
『真似しようとした』
「……」
『Mを作れなかったから』
『M-00を作った』
「でも」
「M-00は」
「Mになれなかった」
『そう』
「だから」
「ミラになった?」
『違う』
Mは。
首を振る。
『ミラになったのは』
一拍。
『M-00自身が』
『選んだから』
「……」
ミラが。
小さく。
息を吐く。
「じゃあ」
「私がミラなのは」
「誰かに決められたからじゃない?」
『そう』
「……」
ミラが。
自分の手を見る。
「私」
「自分で選んだんだ」
Mが。
頷く。
『だから』
『あなたは』
『私ではない』
『あなたは』
一拍。
『あなた』
ミラが。
笑う。
「うん」
「それなら」
「安心した」
俺は。
少しだけ。
肩の力を抜いた。
だが。
Mが。
突然。
俺を見る。
『レイン』
「何だ?」
『あなたには』
『一つ』
『間違いがある』
「……」
「俺が?」
『うん』
「何だ?」
『あなたは』
『五十年前』
『私を選んだと思っている』
「記録にそうある」
『違う』
「……」
『あなたが選んだのは』
一拍。
『私じゃない』
「じゃあ」
『Mという』
女が。
胸元の文字に触れる。
『可能性』
「……」
『あなたは』
『私と生きたかったんじゃない』
『私が持っていた』
『選べる人生を』
『自分も欲しかった』
俺は。
何も言えなかった。
確かに。
思い当たる。
五十年前。
俺は。
名前も。
役割も。
記憶も。
何もなかった。
そんな俺が。
自分で生きていたMを見た。
そして。
選んだ。
Mそのものではなく。
――自分で選べる生き方を。
「……」
Mが。
静かに言う。
『だから』
『私は拒否した』
「俺を嫌ってたわけじゃない?」
『もちろん』
Mは。
笑った。
『嫌いなら』
『五十年も待たない』
「……」
その言葉に。
ミラが。
少しだけ。
驚いた顔をする。
「五十年」
「待ってた?」
『うん』
「何を?」
Mは。
俺を見る。
『あなたが』
一拍。
『もう一度』
『自分で選べるようになるのを』
――ドクン。
第三心臓が。
鳴った。
壁に。
新しい文字。
――M:観測終了。
「……」
Mが。
少し驚く。
『もう』
『終わりなんだ』
「何が?」
『私の役割』
「役割なんて」
『あったんだよ』
一拍。
『五十年前から』
壁に。
古い記録が。
浮かぶ。
――M:観測者。
――対象:レイン。
――目的:選択能力の確認。
――終了条件:対象が自らの人生を選択した時。
「……」
俺は。
その記録を。
見つめた。
「俺が」
「人生を選んだら」
「Mの役割は」
「終わる?」
『そう』
「なら」
「どうして今」
「ここにいる?」
Mは。
少しだけ。
寂しそうに笑った。
『役割が終わっても』
『存在まで終わる必要はないでしょう?』
ミラが。
その言葉を聞いて。
笑った。
「……それ」
「私も好き」
「何が?」
「役割が終わっても」
「存在していい」
Mが。
ミラを見る。
『あなたは』
『本当に』
『私とは違うね』
「うん」
ミラは。
胸を張った。
「私は私だから」
その瞬間。
自由領域が。
――30%。
――31%。
ゆっくり。
増えていく。
そして。
壁の一番下に。
新しい記録が。
浮かび上がった。
――MIRA計画:最終目的。
俺は。
息を呑む。
「最終目的……?」
Mが。
静かに。
目を閉じた。
『それだけは』
『まだ』
『私からは言えない』
「……」
『でも』
『あなたなら』
『きっと』
『見つけられる』
「どこに?」
Mは。
俺の手元を見る。
そこには。
M-01の金属板。
裏側には。
――レイン。
『その名前の』
『一番古い記録の中』
「……」
俺は。
金属板を握る。
すると。
表面に。
新しい文字が。
浮かび上がった。
――M-01:最初の所有者を確認。
その下。
――所有者:レイン。
「……!」
Mが。
初めて。
驚いた顔をした。
『違う』
「何が?」
『それは』
一拍。
『五十年前のレインじゃない』
「……」
『もっと前』
「誰だ?」
Mは。
答えなかった。
代わりに。
金属板の文字が。
もう一度。
変わる。
――初代所有者:――――。
名前だけが。
黒く塗り潰されている。
だが。
その横に。
小さな文字が。
残っていた。
――所有者は、名前を捨てた。
「……」
俺は。
顔を上げる。
「誰が?」
Mは。
俺を見て。
静かに言った。
『あなた』
「……」
『でも』
一拍。
『今のあなたではない』
――ドクン。
第三心臓が。
鳴った。
そして。
自由領域。
31%。
俺たちの前に。
新しい扉が。
開いた。
その扉には。
数字ではなく。
一つの言葉。
――初代レイン。
俺は。
その文字を見て。
ゆっくり。
息を吐いた。
五十年前のレインより。
さらに前。
俺が。
まだ「レイン」になる前。
そこに。
何があったのか。
そして。
なぜ。
その「初代レイン」は。
自分の名前を。
捨てたのか。
答えは。
もう。
扉の向こうにある。
Mが。
最後に。
小さく言った。
『今度は』
『あなた自身の目で』
『見てきて』
俺は。
扉に手をかけた。
そして。
開いた。
――第99話へ続く。




